第7話 忘れられたガーゼ
遼子と前戸が能登旅行から帰って三日後の水曜日のことだった。誰が温度調節をしたのか二十一度まで下げられ、半袖のYシャツでは肌寒い講師室で一週間振りに城野と前戸が顔を合わせた。前戸が英字新聞の中から、今月末に行なわれるテスト問題の材料を探していると、授業の終わった城野が講師室へ戻ってきた。
「やあ、久し振り。‥‥‥ほう」
新聞をのぞき込んで城野が記事に興味を示す。中東に関するものであるのは、英語の苦手な城野でも写真を見れば容易に理解できた。
「中東は一体、いつまで紛争の火種を提供し続けるんだろうか」
前戸の向かいに腰を下ろし、紙面に見入る彼に話しかけると、
「昔から世界の火薬庫であることに変わりはないが、愚かな独裁者がとんでもないことを仕出かしたもんだから、火種が消えることはないんじゃないか。民族紛争に宗教対立、それに石油利権が油を注いで、洒落にならない泥沼が中東の現実なんだ。調整と指導力を兼ね備えた、高潔な政治家の出番なんだが、一体どこを探せば見つかるんだ」
顔を上げて前戸は憮然とした面持ちだった。
「それでなくても株が下がっているのに、戦争や内紛が勃発したりすると大暴落だな」
前戸の怒り方が可笑しくて、城野がからかい半分に株に話題を向け、興味のない政治問題からの転換を図るが、
「株はいいさ、下がっても命に別状はないから。しかし為政者が無能だと、国民が艱難辛苦(かんなんしんく)に喘ぐところが悲劇なんだ」
余程腹に据えかねているのか、前戸は政治の話題から転ずる気配がなかった。仕方なく、苦笑しながら城野も前戸の中東分析に耳を傾けていると、昼食を終えた松井が講師室のドアを開けた。
「‥‥‥あのう、城野先生と前戸先生に少し相談があるんですが」
奥のロビーへ足を運び、遠慮がちに二人に話しかけた。
「うん? どういう相談なのかな」
前戸が怪訝顔を上げると、
「はあ、実は‥‥‥」
松井は神妙な面持ちで他の講師たちを一瞥し、公言をはばかる口調で言いよどんだ。
「今夜は前戸先生が私のところへ寄ってくれるんだ。‥‥‥多分、六時には二人とも確実に帰っていると思うよ」
城野が助け船を出し、婉曲的に自宅へ来るよう促してやると、
「はい、それじゃ六時半に伺います」
やはり他人には聞かれたく話題のようで、松井は城野の助け船に乗って、ぺこんと頭を下げそそくさと講師室を後にしたのだった。
講師の急病で代講依頼を受けた城野が、前戸の車で帰宅したときは予定より大幅に遅れ六時半近かった。列車への飛び込み自殺があったらしく、高架下への落下物のため、長居公園北で大渋滞が生じてしまったのだ。
「世が世なので暗い事件が多くて困ったもんだが、何とか六時半までには帰宅できたな」
前戸と並んでエレベーターを降り、五O五号室のドア前に立って、城野が渋い顔で腕時計に目を落とした。
「暑いだろう」
屋内は蒸し風呂さながらで、城野は手際よく各室の窓を開け、前戸を居間へ案内すると、窓を開けたままクーラーのスイッチを入れた。
「だいぶ涼しくなってきたな」
ようやく冷房が効き始めた居間で二人がくつろいでいると、
「こんばんは」
松井が約束時間より少し遅れてやってきた。
「あ、僕がやりますから」
キッチンへ立とうとする城野に声をかけ、冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、松井は手慣れた仕草でテーブルに簡単な酒の摘まみを並べる。
「戴きます」
姿勢を正したままビールを一口飲むと、
「‥‥‥実は話すべきかどうか迷ったんですが」
まだ迷っているらしく、松井は躊躇(ためら)いがちに先輩から聞いたという話を城野と前戸に語り始めた。彼の高校の先輩は浪速帝大医学部を出て、助手として附属病院に勤務しているのだが、先日、酒の席で意外な事実を打ち明けたのだ。
「浪速帝大医学部は脳死判定や臓器移植の問題で、他大学に一歩先んじていて、充実した学究生活を送れて幸せですね」
ビールを注ぎながら、松井が賞讃すると、酔いの回った柔道部の先輩は声を落として、
「いやぁ、いい加減なこともしているよ。あるとき、オペをした患者が一向に良くならず、胸に水が溜まって仕方がないんだ。大したオペでないのに、おかしいなぁと思いながら暫く放置していたら、症状が悪化するばかりなんだ。ともかくお粗末としか言いようのない処置ミスと判断ミスが重なって、もうどうしようもないとこまで行ってしまってね。それで体を開いてみたら、何と! ガーゼを忘れてたんだよ。関係者全員が確実に訴えられることを覚悟したんだが、訴えられなくてホッとしたということもあるんだよ」
口を滑らせてしまい、医療ミスを漏らしてしまったのだ。
「その患者は亡くなったんですか?」
松井が驚いて先輩の顔をのぞき込むと、真剣な表情に酔いが吹き飛んだのだろう。
「いや、これは内緒だよ。絶対、人に言ったら駄目だよ」
彼は青くなりながら、慌てて念を押したと言うのだ。
「‥‥‥」
すでに話の途中から、室内は重苦しいムードに包まれ、城野は目をつぶって腕を組んだまま、前戸は眉間にしわを寄せ黙って松井の話に耳を傾けていた。
「それは許されるべきことじゃないな」
松井が話し終わると、まず口を開いたのは前戸だった。彼はグラスに注いだビールを一気に飲み乾すと、不快の色を隠さず怒気を含んだ声で吐き捨てた。正義感以上の何かが作用しているのは、傍目にも明らかだった。
実は前戸にはもう一人、妹がいるはずだったのに、三歳の時、盲腸の手術ミスで彼女を亡くしていた。風邪による合併症も重なり、死因は肺炎とされたが、明らかに初期の処置ミスが原因だった。母は裁判所の判断を仰ぐべく、弁護士の選任まで済ましていたが、結局父に止められてしまった。自分の親友である医師を訴えるわけには行かないと言って、猛反対したのだった。
「うー! ねぇ、なんでー! なんでー! なんでよぅー‥‥‥」
父の胸を掴んで泣き叫ぶ母の姿が、今も前戸の脳裏に焼き付いている。納得など出来るはずがなかったのだろう、よく台所で肩を震わせ泣いていた。
「‥‥‥達夫。お父さんと別れても、かまへん? なあ―――」
幼い頃、涙の顔で何度同意を求められたか知れなかったのだ。
松井から浪速帝大病院の医療ミスを聞かされたとき、前戸の脳裏に真っ先に浮かんだのは、母の涙の顔だった。
「松井。医療ミスが行なわれたのは、一外(第一外科)じゃないのか」
かっと目を見開いた、前戸の詰問口調に、
「え! ‥‥‥いや、行なわれたセクションまでは、―――ちょっと‥‥‥」
松井はしどろもどろで、返答に窮してしまった。ただ、先輩は一外の助手をしていて、前戸の推察は的外れとはいえなかった。
「どうして一外と思うんだ」
困惑顔の松井をかばうように、城野が二人の間へ割って入った。
「すまんすまん。怖い顔をしてしまって。医療ミスと聞くと、どうもいかんな」
苦笑しながら松井に詫びると、前戸は城野に真顔を向け、
「浪速帝大病院第一外科は、いま脚光を浴びているセクションだよ。手術件数もすごい数に上ると遼子から聞いていたので、何となく単にそう思ったまでだよ」
単純なる確率論に基づく推論で、それ以上の根拠はないことを打ち明けたのだった。
「どうしたもんかな」
事件解決へのアプローチはある程度思い描いたが、子供の頃からの癖で、城野はまず前戸の意見を聞いてみる。
「‥‥‥うむ、このままでは新聞社も手の出しようがないだろうな。何とかもう少し詳しい事実を掴む必要があるな。―――例えば手術日さえ特定できれば、遺族は簡単に確定できるだろう。そうすれば後は新聞社か遺族に委ねれば済むことだ。遺族は浪速帝大病院に対し債務不履行または不法行為に基づく損害賠償請求訴訟を起こすはずだ。そしてその過程で、カルテの焼却期間が経過していなければカルテを差し押さえれば良い。もし期間が経過していれば、立ち会った人物を証人尋問して真実を明らかにすれば良いのだ。問題は、手術の行なわれた年月日の確定だが‥‥‥」
前戸も口をへの字に曲げ、腕を組んでしまった。二人は暫くの間、医療ミス解明の方途について考えを巡らせていたが、
「いずれにしても、これは俺たちで調べてみるから松井は勉強に専念しろ。それから、俺たちが君の先輩に会って、この話は松井から聞いたなどとは決して言わないから安心しろ。君の信義は絶対守るから」
前戸が正面の松井に目を開いて、彼の不安を取り除いたのだった。
「‥‥‥それじゃ、僕はこれで」
運動パタンを終えたものの、居間の二人のムードから、松井は今夜の物理の個人授業を諦め、城野に断わりを入れると七時過ぎに帰って行った。
「どうだ、何かいい方法が浮かんだか」
松井が帰ってからも、居間は長い沈黙に包まれていたが、城野が腕を組んだままようやく沈黙を破ると、
「―――うむ‥‥‥。どうやら、遼子の力を借りるのが最良の策のようだな」
前戸も目を開いて、親友と同じらしき結論に苦笑いを返したのだった。
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