第6話 能登旅行
猛暑は七月二十日に一度ピークを迎え、二十三日の台風六号の通過を機に気温の下降を招いた。が、二十七日に日中の最高気温三十六度を記録すると、再び酷暑の到来であった。カラ梅雨に加え降雨の少ない猛暑が続くと各地で深刻な水不足が叫ばれ、水道の給水制限や農作物への被害が連日、新聞・テレビのニュースを賑わすに至る。高所恐怖症の操までヘリで諏訪湖を訪れ、湖上から渇水状況を放送する羽目に陥ってしまった。
「ねぇ、達夫さん。能登は大丈夫かしら? ホテルで断水の張り紙なんか見たら、興ざめしちゃうわ」
月末の三十一日、翌日のスケジュール確認後、遼子は携帯に不安を漏らした。八月一日から三日間の旅行は、半年も待ちに待って、ようやく手に入れた三連休なのだ。
「おはよう」
翌日、十二時過ぎに前戸が芦屋にある遼子のマンションを訪れると、
「‥‥‥もう! 遅いんだから!」
リビングのテーブルに頬杖をついて、遼子はふくれていた。十時来宅約束が二時間以上遅れたのだ。
「すまん、すまん。センター(センター試験)模試問題を渡しに予備校へ寄って遅くなったんだ。そう怒るなよ。三日間もあるんだから」
背中を向けたままの遼子に近づき、後ろから肩を抱いて機嫌を取る。頬にキスをすると、
「ずるいわ‥‥‥」
すねた素振りを見せたものの、遼子は前戸の首に腕を絡め唇を押しつけた。体を預けてしばらくあえいでいたが、
「‥‥‥もう、ダメよ―――。ますます遅れちゃうわ」
唇を離すと、未練を断つように瞳を閉じたまま首を振った。
「さあ、急がないと。こんなに荷物があるんだから」
足下のバッグの山を指さし、遼子は苦笑いを浮かべたが、これで出発というわけに行かなかった。遼子は父の愛車だったドイツ車で行くと言い張ったのだ。
「俺は嫌だよ。どうもドイツ車は性に合わないんだ。趣味の良くない人種も結構、乗っているし」
「ね。ひょっとして、趣味の良くない人種って、暴力団の人たちのこと? それじゃ、父をヤクザにするつもりなの!」
「いやいや、そういうつもりじゃないんだが‥‥‥」
父親を持ち出されると、どうしても前戸は旗色が悪くなってしまう。
「―――そうそう、オートマチック車だろ? 俺はオートマチック車は嫌いなんだ。ほとんど乗ったことがないし、燃費も悪いよ。それに左ハンドルなんて」
若い頃からの偏見で、オートマは老人か女性の乗るものとの固定観念が抜け切れていないのだ。
「でもこれだけの荷物、達夫さんの車に積み切れないわ。昨日、スタンドでルーフキャリアまで付けてもらったのよ。それに、あなたが疲れたら私が運転するつもりだけど、あなたの車じゃ、私は運転できないわ」
オートマ免許の遼子にマニュアル車の運転は無理で、これでようやくケリがついたのだった。
二人が前戸の運転でマンションを後にしたのは積み込み荷物の間引きに時間を取られたこともあって、二時前だった。
「試作品の日焼け止めクリームも化粧水ももっと持ってきたかったのに。製薬会社に使用感を報告するって約束したんだけど‥‥‥」
遼子は降ろしたボストンバッグの中身に未練たらたらだったが、名神高速へ入ってしばらくするとすっかり忘れた様子で、
「京都南インターで降りて頂戴ね。京大医学部近くのマンションに住んでる友達のとこへ寄りたいの」
膝の上の鞄から予定表を取り出し、助手席から前戸に笑顔を向けた。
―――やれやれ、長話で足止めを食うのか。
ハンドルを握ったまま苦笑いを浮かべると、
「話はすぐ済ませて帰ってくるから。誰かさんと違って時間厳守なんだから」
遼子は前戸の心を見透かし皮肉るが、ニコニコと愛想がいい。彼女の友人もその夫も医師だが、夫の方は大学病院に勤めていて、先日行なわれた生体肝移植手術に携わっていた。
「本当に優秀な人なのよ。在学中から頭角を現していたけど、この分だと若くして教授になれそうね」
まだ四十前だが、その能力を高く買われ、医局内で将来を属望されていた。
―――教授か‥‥‥。
石河と彼の言葉を思い浮かべ、前戸は複雑な心境だったが、遼子は屈託なく学生時代の思い出や生体間の移植手術の問題点を語り始めた。
「―――以上の他にね、子供への移植はこれまでのところ、母親からの臓器提供が大半なんだけど、これが慣行化しちゃうと困るのよね。母親への臓器提供の無言の圧力になっちゃうから。術後の自分自身のケアと、子供の世話まで背負い込まなくちゃらならないことも大きな問題だけどもね。あ、そこで降ろして頂戴。―――どうも、ご苦労様」
東大路(ひがしおおじ)通りの大学病院前で、学術用語を交えた講義がようやく終了したのだった。
「一時間後に吉田神社前に行くから。時間厳守です、ホント。パンクチュアルですから」
自分でも度が過ぎたと思ったのか、苦笑いを浮かべ手を振ると、遼子は白のジーンズにスニーカーも軽やかに小走りで医学部構内へ消えてしまった。
―――吉田神社か‥‥‥。
城野とは学生時代、数え切れないほど吉田神社を訪れた。大学紛争の煽りで半年以上も講座が開けず、クラブのない日は神戸と京都の互いの下宿を訪れあった。京大北門近くの下宿を訪れると、必ずといってよいくらい吉田神社へ参拝した。二人の散策コースに何時の間にか組み込まれてしまっていたのだ。
―――さて、久し振りに参拝するか。
神社近くの路上に車をとめ、前戸は感慨深げに鳥居を見上げた。境内へ通づる玉砂利を踏むと、二十年を超えた時空が甦ってくる。鈴木操のことを初めて聞かされたのは、この神社の、この場所だった。
「前戸。俺はある女性を好きになった。こんな気持ちは初めてだ。あんなに憧れていた、学者としての生活も捨てていいと思っているんだ。来月から俺も、お前と一緒に予備校でアルバイトをするよ。ともかく金が要るんだ」
並んで石段を上りながら、城野はいきなり前戸の不意を突いた。白い息を吐きながら、目の前の笑顔が少年のように弾んだ。
「‥‥‥そうか」
何時もどこかに翳りを漂わせていたが、前戸も城野のこんな笑顔は初めてだった。数日後、前戸は城野に連れられ操を見舞ったが、その時の印象は今も胸に鮮やかに甦ってくる。学生運動の闘士だったと聞いていたので、男勝りの厳ついイメージを連想していたのに―――、ベッドに横たわる元女性闘士は余りにもいじらしかった。不安をたたえながら城野を見つめる瞳の、なんと可憐であったことか。恋はこれほどまでに女性を美しくするものかと、操を見て感動したのを覚えている。
境内のベンチに腰を下ろして、セミとセミ採りに戯れる子供たちの声に包まれ、ぼんやりと回想に浸っていたが、
「お待たせ。車にいないんで、どこかなって思って上がってきたんだけど。‥‥‥どうしたの?」
怪訝顔の遼子の声で、前戸は現代へ引き戻されてしまった。
「―――いや、ちょっと懐かしい思い出に浸っていたんだ。さあ、行こうか」
照れ笑いを浮かべ、前戸が立ち上がると、
「ええ‥‥‥」
遼子も微笑みを返した。吉田神社で浸る思い出は、城野と操の馴れ初め。前戸に一度聞かされただけだが、遼子の胸に深く刻みつけられていて生涯忘れることはなかった。
「どうする? このまま能登へ出ようか。それとも、他に寄るとこがあるんだったら、そちらへ向かうけど」
シートベルトを装着して、助手席の遼子に尋ねると、
「もう寄る所はないわ。‥‥‥そうね、琵琶湖を見て、それから能登へ出るのはどうかしら。―――ねぇ、いいでしょう」
医学部ボート部の女子マネ(マネージャー)として五年間馴染んだ、琵琶湖へ急に寄ってみたくなったのだ。上目遣いに前戸の顔をのぞき込んだ。
「それじゃ岩倉から八瀬を抜け、今津へ出ることにしよう。今津だったら、もし泳ぐにしても混雑していないだろうし」
ようやく取れた三連休なのだ。遼子の希望通りの行程に前戸も異論なく、目的地までの地図をすぐさま頭に描き込んでしまった。大阪と違い京都は道路マップがシンプルで分かり易い。目的地までの行程も花園橋を曲がると、後は一本道を走るに似た感覚なのだ。
―――さすがに高いだけのことはあるな。
快適な走行感は、山々の合間を縫うように軌跡を残す、自然美に包まれたドライブのせいだけではなかった。良いものはやはり正当な評価を与えられるべきで、前戸は遼子の父の車の印象を新たにしつつあった。
なだらかな比良山系を抜け、まばらな松並木の今津の浜に着いたのは、日差しもようやく和らいだ五時過ぎだった。
「琵琶湖を見ると、やっぱり泳ぎたくなっちゃうわ。ねぇ少し泳ぎましょうよ」
民宿I荘近くに車を止め湖水を前にすると、やはり学生時代の血が騒ぐのだ。I荘で水着に着替え、狭い砂浜を横切り琵琶湖へ入る。
「ねぇ、今夜は今津で泊まらない?」
遊泳ラインを区切る、湖面に浮かぶ黄色いボール手前で遼子が振り向き、笑顔で誘う。昔とった杵柄で、束ねた髪に水滴すら付けない泳ぎっぷりだった。
「さぁ、空き部屋があるだろうか」
当地宿泊に異論はないが、時間を考えると、飛び込み客を迎えてくれる宿があるとは思えなかった。小一時間泳ぎ、I荘の案内で宿泊を打診すると案のじょう空き部屋はなく、付近の民宿も一杯とのことだった。
「知り合いの、老夫妻の離れは頼めば泊めてくれますが、‥‥‥相当値が張りますよ」
伝え終えてから、初老の店主は口をへの字に曲げ、前戸を見上げた。
「そこ、お願いします」
料金も聞かずに遼子が即答したので、
「本当に高いですよ」
店主は驚きを隠さず、二度も念を押したのだった。
地図を頼りに湖に面した道路を五分ほど北へ走ると、檜門の大きな屋敷前に七十過ぎの着物姿の婦人が立っていた。
「よう、おこしやす」
深々と白髪の頭を下げ、二人を迎え入れる。玄関前には主人のものと思(おぼ)しき米国車が駐っていて、前戸はその横に車を滑り込ませた。
「さあ、こちらですから」
造園途中の庭園前を指さし、玉砂利を先に歩いて二人を案内する。息子夫婦が帰って来やすいよう離れを建てたのに一向に帰る気配がないと、老婦人は遼子を見上げて寂しそうに笑った。息子の嫁との折り合いが良くないらしく、五百坪ほどある敷地の東端に離れが建っていた。数寄屋風の、総檜作りの居宅は離れと呼ぶには立派すぎるたたずまいで、住人が帰るまでの間、頼まれ客の宿泊用にのみ供されていた。
「私、ここが気に入ったわ。波の音が、遠く、近く、‥‥‥なんとも言えないハーモニーを奏でてくれるし、檜の香りも心を和ませてくれるもの。それに何て懐かしいの! 蚊帳の中の蒲団なんて。祖母と一緒に寝た、幼児期以来よ。ほんと、郷愁をそそられちゃう!」
婦人が立ち去ってから、遼子は居間の座椅子に腰を下ろし、子供のようにはしゃぎ声を上げた。
料亭から届けられた鮮魚料理を味わい、少しくつろいでから、二人は中庭に面した湯殿で一日の疲れを癒した。遼子は長い間、湖面に開いた窓辺に腰を下ろし涼んでいたが、
「入ってこないか」
寝室から前戸が呼びかけると、ようやく腰を上げた。蚊帳をくぐり腕枕の前戸の横に膝をついて、艶やかな肌と湯上がりの香りを漂わせた。沈んだ仕草を浮かべたまま、しばらく黙って膝元を眺めていたが、前戸に視線を移すと、遼子はしんみりとした口調で話し始めた。
「私、本当は昨日まで随分落ち込んでいたのよ‥‥‥。三日前に患者のター君が亡くなったからなの。病院へ運ばれてきたとき、ター君はすごい痙攣を起こしていたわ。それを見て、もうダメだと覚悟したの。ター君は重度の脳性麻痺で、生まれてから七年間苦しみの連続だった。でも痛いと訴える言葉すら、ター君には与えられなかったのよ。‥‥‥ター君のお母さんは、私と年がさほど違わないのに髪は真っ白よ。やせた小さな体でター君を抱くのはつらいでしょうに、いつもター君をしっかり抱いてらっしゃったわ。そして、『ター君、ター君』って、ター君に話しかけるの。その時のお母さんの顔は愛で満ちあふれているわ。あの愛の前では、私は全く無力だと思い知らされるの。―――亡くなる間際に、お母さんを集中治療室へ呼んだのよ。お母さんは呼びに行った私に、最初、すがるような眼差しを向けたけど、私の顔を見て息子の死が間近に迫っていることを悟ったのね。すぐ何時もの毅然とした顔に戻ったわ。‥‥‥室へ入ったお母さんはター君の手を握って『ター君、ター君。ありがとう。お母さんはあなたに一杯教えてもらったわ。大切なものを一杯もらったわ。ター君ありがとう、ありがとう』って言うのよ―――、うー!」
声を詰まらせ両手で顔を覆うと、遼子は前戸の胸に泣き崩れた。
「‥‥‥ごめんなさい。―――ええ、もう大丈夫。本当に、大丈夫だから」
遼子は前戸の胸から体を起こし、両手で涙を拭うと、気を取り直すように大きく息を吸って話を続けた。
「今と同じで、私は涙が出て止まらなかった。スタッフもみんな、体を震わせ泣いていたわ。でも、ター君のお母さんは涙を流さなかった。『涙はとっくに涸れてしまいました』って、寂しそうに笑ってらしたことがあるけど、あれは本当だったのね。離婚してター君と二人で暮らすことを決めたとき、涙が涸れてしまったんだと思うわ。母の強さと責任を思い知らされ、打ちのめされちゃったわ‥‥‥」
目をしばたきながら前戸を見て、遼子は口元に悲しげな笑みを浮かべた。
「ター君はとっても安らかな顔をしていたわ。これからは苦しまないでいい世界へ旅立って行ったのね。‥‥‥お母さんは最後にポツリと漏らされたわ。しばらくは何も手に付かないだろうって。病院を後にした後ろ姿が小さくて、寂しかった」
話し終えても遼子は俯いたまま、長い間涙の顔を上げなかった。
翌日も、その次の日も天候に恵まれて、ター君の死が嘘のように晴れやかな三日間だった。夜になるとター君の思い出が甦ってきて瞳を濡らす遼子だったが、昼はつとめて明るく振る舞い、千里浜や九十九湾で釣りと舟遊びに思う存分興じたのだった。
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