第12話 反骨


 少子化を見据え、大学はもちろん予備校もそれなりの対策を立てねば、遠くない先に倒産の危機が訪れることになってしまう。産業構造にまで深刻な影響を与える、成熟国家が生み落とす少子化の難題は、予備校の生き残り策に二つの大きな流れをもたらしてしまった観がある。一つはメジャーになること。大資本を形成し、全国展開の過程で多くの受講生を集め収益を上げるのである。大企業として生き残る方向といってよいであろう。では、弱小予備校はどうすればよいのか。ここに来て注目を集め出したのが、業務提携という名の第二の流れだった。全国展開できない小さな予備校は、補習塾のような形で細々と生き残って行くか、提携を密にして大手と対抗する―――予備校としての体制を維持して行くかの選択を早晩余儀なくされるであろう。YMCC予備校も、予備校としての体制を維持する方向で、業務提携を選んだ。医療関係分野を充実させる意味で、東京墨田区にあるA医科技術専門学校と、まず講師の交換授業に活路を見いだすことにしたのだ。十二日の木曜日、城野が先陣を切って派遣されることになった。講義のノウハウ交換を通し、関係強化と近い将来の統合も見越した、大々的提携構想への、YMCC予備校にとって画期的第一陣だった。

「気楽に行ってくるよ。本当は断るつもりだったんだが、石河に会おうと思ったのが、引き受けた最大の理由だよ」

 一時前、天王寺駅まで見送りに来た前戸に、城野は屈託なく笑って改札をくぐった。実は事務方トップとは若干見解の相違があり、前戸も城野も業務提携には賛成だが、まず府内の予備校とのそれを目指すべきという考えだった。このような事情も手伝い、今回の交換授業にそれほどの気負いはないというのが城野の本音だった。

 山路が取ってくれたのぞみのシートに体を沈め東京駅着は、新大阪での時間待ちを含め五時を回っていた。宿泊先の両国Rサイドホテルへ行きフロントにボストンバッグを預けると、城野は講義案をブリーフケースに忍ばせ石河との待ち合わせ場所の新宿へ向かった。ストレンジャーということで時間の予測が立たず、新宿へ着いて余裕があればコーヒーでも飲むつもりだった。

 ―――二十分前か。

 何とも中途半端な時間に着いてしまい、仕方なく改札近くで明日の授業のレジュメに目を通していると、

「‥‥‥おい、城野! 城野! 城野やないか! 久っさし振りやなー。何年振りやろ‥‥‥。俺の結婚式に来てくれたとき以来やから、十年振りやんか!」

 いきなり石河が抱きついて、人目もかまわず大声で騒ぎ立てる。

「‥‥‥おい、おい。人が見てるぜ―――。それにしても、相変わらず細いなあ」

 背中に回した左手で石河の背中をたたいて、骨と皮だけの体に城野は呆れ顔を浮かべた。

「家のローンと子供の教育費がかさんで、なかなか肥えられへんわ」

 咄嗟に出た減らず口だったが、間違ってもいないと思ったのか、石河は苦笑いを浮かべて頭を掻いた。

「そういえば去年家を買ったって手紙に書いてたな。東京はまだまだ土地が高いらしいね」

「バブル弾けたいうても、まだ目むくで!」

 久し振りに親友に会えたのが余程うれしいのか、石河はおどけ笑顔で本当に目をむいてみせた。しばらくの間、政府の土地に対する無策ぶりに怒っていたが、

「それはそうと、お前、なんで標準語を喋るねん。東京で二十年以上も暮らしてる俺が大阪弁のままやのに」

 親友の話し口調が以前と変わっていることにようやく気づいた。

「‥‥‥いやぁ、大阪の人間も最近、標準語を話す人が多くなったよ。俺は職業柄、標準語が身に付いてしまって」

 城野は弁解交じりの返答を返した。自分でもなぜ標準語を話すようになったのかよく分からない。幼い頃からの東京に対するコンプレックス、東京弁を喋る操の影響、それに前戸が標準語を話すことと無関係ではないように思うが、いずれにしても深く考えたことはなかった。

「そうか。予備校の先生やからな」

 一言文句があるのを覚悟していたが、石河は城野の弁解を真に受けたのか、別に文句も言わなかった。

「まあ大阪弁喋らんでも、久し振りに会えたんやから中身が城野やったら何も文句あらへん。―――そや、こんなとこで立ち話もなんやから、‥‥‥どこ行こ?」

 駅前のネオンを眺めてから、石河はレジュメを鞄に仕舞い込む城野の顔を覗き込んだ。

「お前に任せるよ」

「ほな、新宿Sホテル一階のミスティへ行こうか。軽く食べて飲もや。ほら、あそこや」

 石河は三OOメートルほど離れたホテルを指さした。よく同僚たちと来ているようで、まさに行きつけという感じの歩き方で城野を案内してホテル前に着いた。

「さあ、今日は楽しみや」

 Sホテル一階にあるミスティはパブのような店で、石河がドアを開けると、店内は勤め帰りの若いサラリーマンでごった返していた。

「どうぞ、こちらの席へ」

 ウェイターに案内され、左奥の、二組の若い男女の隣に腰を下ろす。

「そやな、まずグラスワインを二つもらおか。乾杯するさかい。それから―――、そうやな、ピザと生ビールの中ジョキ二つ頼むわ」

 ウェイターの注文伺いに石河はワインを注文して、それから城野の意向を聞いてビールと摘まみにピザを注文したのだった。店内は喧騒の渦で、小声では意思が通じないが慣れているのか、体の割に石河の声はよく通った。

「前戸にも長いこと会うてへんけど、元気にしてるか」

 ウェイターが立ち去ると、石河は垂れ目の目を一層下げて城野の顔を覗き込んだ。眼鏡の奥の瞳が少年の頃のままだった。

「ああ、元気にしてるよ。今、ある大学病院の医療ミスを調べている」

 つい先日、操と三人で食事したときのことを思い出し、城野は何気なく答えたつもりだったが、眼鏡の奥の石河の目が真剣に変った。

「大学病院って、ひょっとしたら浪速帝大病院とちゃうか」

「どうして分かったんだ!」

 城野は思わず身を乗り出してしまった。

「うむ。いや、‥‥‥なんとのうそんな気がしたんや。こないだ会合で、浪速帝大病院のナースと会うたんやが、その時に、少し前に起こったある病院の、血液型間違いの輸血事故の話が出たんや。ウチの病院ではナースが、A型なら『はいA型です』と互いに声を掛け合いながら新しいものに取り替えるんやが、浪速帝大ではそんなことしてへんと聞いたのが頭の隅にあったんかな」

 石河は奥歯に物が挟まったような答えを返した。何か喋ろうとして、明らかにそれを呑み込んだのが分かる仕草だった。職業柄、親友にも打ち明けられないことがあるのだろう。

「ところで。ミスの内容というのはどんなんや?」

「うん。それが又聞きなんだが実は―――」

 石河の求めに応じ、城野はミスの内容や調査の進展状況を話し始めた。

「そうか、そんな初歩的なミスがあったんか。遺族の名前か術日でも分かってたら何とかなるんやが‥‥‥。遺族は疑問に思いながらも泣き寝入りしてるんやろ。しかし難しいな。オペ場の人間が誰か話さな出んやろな」

 城野の説明が終わると、石河は眉間にしわをよせ何度も首をひねった。

「この医療ミスが明るみに出れば、浪速帝大病院の進める臓器移植は、相当ダメージを受けるだろうか」

 城野の問いに、

「いや、大したことないやろ。今は日本全国、移植、移植の大合唱や。なんちゅうても、移植を必要とする患者の声に支えられてるさかいな」

 石河はしかめっ面をして、右手を顔の前で振った。

「お前は批判的なのか」

「ああそうや。せやけど大きな渦の中では声にもならんと呑み込まれるだけや。しかしな、生存可能性を天秤に掛けて、低いほうは高いほうの犠牲になるべきや、っちゅうような考えに支えられてんやったら、俺は絶対反対や。それに安易な脳死認定は蘇生医学の立場からも是認できるもんやないし。まあ民主主義の世の中や、少数派も必要やろ。‥‥‥それとな大袈裟なこと言うけど、今の流れは医者としての俺の良心にちょっと引っかかるねん」

 口元に自嘲気味な笑みを浮かべ、石河はしばらくグラスのワインに目を落としていたが、急に顔を上げると眉を八の字に下げて頭を掻いた。

「もっとも俺もあんまり偉そうなこと言われへんねん。一浪の年、お前と一緒に京大受けたな。俺は医学部合格してたのに行かへんかったやろ。ホンマは初めから行く気なかったんや。大学紛争で東大の入試なかったからいうたかて、何であんなアホなことしたんやろ。俺のために落ちたヤツに悪うてなぁ‥‥‥。古田のおばさんに対する見栄だけで、行く気もないのに受けてしもたんや。ホンマは初めから二浪するつもりやったのに‥‥‥」

 世話になった老婆の名前を出して、石河は消沈した面持ちで頭を抱えた。

「そうだったな‥‥‥」

 大学入試ではあの年、受験生はほとんど苦い思いを味わったが、すでに遠い過去のことで最近は意識にも上らなかったのに、いまだに罪悪感を引き摺っているところが石河らしくて城野は微笑ましかった。

「ところで、古田のおばさんはどうしてるんだ? 元気にしてるんだろうか」

「うん。元気にしてるで。九十過ぎて、だいぶ弱ってるけどな」

「‥‥‥そうか。あれから、もう三十年近くも経つんだな」

 笑顔の戻った石河の童顔を見つめていると、活気あふれる喧騒の渦の中から、城野は一人、遠い過去へ呼び戻されてしまうのだった。

 高校時代、城野・石河・前戸の三人は、三年間の夏休み全てを、徳島県美馬郡(現在の美馬市)貞光町にある老婆宅の離れで過ごした。受験勉強と称して、自然の山河の中で遊び呆けたのだった。剣山の登山口に当たる貞光町は、貞光川が吉野川に合流する河口に沿った小さな町である。高校一年の夏、知り合いの紹介で貞光に住む一人暮らしの古田政恵宅に泊めてもらった彼らは、一日でその町の虜になってしまった。朝早く起きては、勉強もせずに貞光川を挟む―――見た目はなだらかだが、登ってみると相当急で高い―――山々へ登るのだ。一日中、まるでワンゲル(ワンダーホーゲル)部の合宿ではないかと思うほど、道なき山路を歩き回った。山から帰って昼食を済ますと、今度は水の澄んだ清流、貞光川へ下りて、岩の間を縫うように泳ぐ。遊泳可能と思しき場所を見つけては、移動しながら飽きるまで、カッパさながら水の中だった。泳ぎ疲れて、ヘトヘトで老婆宅の離れへ辿り着くと、三人は大の字になって、まるで死んだように眠った。

「晩ご飯食べないよ(食べなさいよ)」

 おばさんに起こされ食堂へ這って行くと、食膳にはいつも貞光川で獲れた鮎が並んでいた。三匹ずつ、合計九匹の鮎を貪るように食べたが、あのとき以上の鮎を、三人ともその後味わったことがなかった。高一の夏は、勉強といえば夕食が終わって寝るまでの、わずか二時間というお粗末なものだった。高二の夏も似たり寄ったりの毎日だったが、違いは銘々のスポチャリ(スポーツサイクリング車)を宅配で送ってもらったことだった。足が出来た分、高一の夏より行動半径が広がり、チャリで何度剣山へ登ったか知れなかった。翌年受験を控えた高三夏は、さすがに三人とも強い決意を胸に秘め、勉強一色のタイムテーブルで貞光駅へ降り立った。が、貞光には予期せぬ事態が待ち受けていたのだった。その年の春から、おばさん宅二階には宮久香苗という女子高生が下宿していたのだ。穴吹町にある、県立穴吹高校へ通う彼女を一目見て、石河は恋に落ちてしまった。

「ああ! アカン、アカン! がんばらな落ちてしまうのに‥‥‥」

 石河は全く勉強が身に付かず、親友二人もその煽りを食って学習予定は半分もこなすことが出来なかった。

「‥‥‥おい、今日の数学の予定、まだ全然出来てないやろ。そやのに、また行くんか。何回行ったら、いったい気がすむんや」

 城野も前戸もブツブツと呆れ顔だったのに、石河が女子高生の実家へ行くときは、延々二十キロの道のりを彼に付き合って歩いたのだった。いくつもの山を越え、やっとお目当ての山の山腹近くに着くと、

「しんどう、ないで(しんどくない)?」

 いつも恥ずかしそうに、香苗が石河を待っているのだった。十年前、石河の結婚式に出席した城野と前戸は、新婦席の女性を見て呆然としてしまった。紛れもなくあの時の女子高生だったのだ。彼女は石河と一緒に上京し、看護学校へ通いながらアルバイトで石河と自分の生計を立て、その後も看護師として不遇な時期の彼の生活を支えていたのだった。

「―――そんなわけで、石河君は香苗さんに全く頭が上がりませんので、どうぞ皆さん、その点は努々(ゆめゆめ)お忘れなく。天下に誇れるカカア天下の、これまた天下に誇れる、仲睦まじい夫婦の誕生であります」

 冗談交じりの司会者の冷やかしに式場は爆笑の渦に包まれたが、城野と前戸は目頭が熱くなって、長い間、ライトでまぶしい天井を見上げていたのだった。今から数えれば既に三十年近くが過ぎ去ってしまったが、あのとき、四国の小さな町で出会わなければ、おそらく今日という日がなかったであろう男女の、隠された愛の日々を思うと、城野の胸には男と女の巡り合いの不思議と、その絆の強さが迫ってきたのだった。


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