第4話 憧れの人


 医学は病の治療を目的とする学問で松井稔が目指すところであるが、この母なる地球治療を目的とする、外科学に匹敵する学問領域はないのであろうか。若干二十歳の松井でさえ、年々、病みゆく地球が実感できるところが、その病根の深刻さを物語っていた。現象的には特に、数年に一度のわりで記録的という形容が付く猛暑が訪れるのだ。

 今年の夏は丁度、その巡り合わせの年であろうか。七月半ばは酷暑という形容が大袈裟でない、記録的猛暑に日本列島が覆われてしまった。ところでそんな酷暑の中でも、城野と松井の運動パタンと物理の個人授業は、水曜を除き一日も休むことなく精勤に続けられていた。記録的猛暑の中で、鰻登りの最高気温を記録した、七月十七日の金曜日のことだった。

「こんばんは」

 チャリをマンションのチャリ置場に立てかけ、勢いよく階段を駆け上って、松井は何時ものようにドアホンも押さず五O五号室のドアを開けたものの、急に足が止まってしまった。上がり口のグレーのハイヒールが目についたからで、そういえば初めて訪れたときに嗅いだ香水の香りも、今夕は一段と悩ましかった。

 ―――まずかったかな‥‥‥。

 上がるべきか、それとも一度外へ出てドアホンを押すべきか迷っていると、

「松井だよ」

 居間から城野の声が漏れてくる。

「貴方のお気に入りの、あの松井君にようやく会えるのね。楽しみだわ」

 次に居間から流れて来た、浮き浮きと弾んだ女性の声に、

 ―――あれ? ‥‥‥。

 松井は首を傾げてしまった。女性の存在に驚きはなかったが、声の主は彼がファンの、ある著名人のそれと瓜二つなのだ。もちろん他人の空似で、彼女は杉本町いわんや城野のマンションでお目にかかれる人ではなかった。

「こんばんは、はじめまして」

 声の主が居間のドアを開けて、少女のようにはしゃぎながら笑顔を覗かせると、

「えっ!?」

 松井は思わず息を呑んでしまった。白いブラウスとグレーのスカート。スラリとした長身の女性は、今しがた彼の脳裏をかすめた、まさにその人であったのだ。

「さきほど初めましてって言って、また初めましては可笑しいけど。本当に初めまして、鈴木操です。どうぞご遠慮なく、さあ」

 松井の挨拶がなかなか返ってこないので鈴木操は深々と頭を下げたが、丁寧な自己紹介とは裏腹に彼女の笑顔は親しみに溢れていた。

「―――あのう‥‥‥」

 自己紹介も返せずに呆気に取られた顔は、なぜ著名キャスターがここにいるかの説明を求めていた。

 杉本町には場違いの、しかも不意の出現だったが、鈴木操はNテレビ所属のキャスターとして一昨年八月、衝撃のデビューを果たしていた。番組の企画や編集それに翻訳が主務だったのに、担当キャスターの不慮の死がワンポイントリリーフを華々しい表舞台に押し上げてしまったのだ。ルワンダ難民問題のインタビューが契機で、結果的に操の檜舞台提供といってよかった。テロップとともにさり気なく画面に現れたのは六カ国語に堪能な語学力を持つ、スラリとした長身の嫌みのない知性派美人。しかもソフトな語り口調で、各国要人から易々と本音を引き出したのだ。欧米では時折見かけるマルチキャスター。その稀有な人材が、テレビ局の裏舞台に隠れていたのであった。

「さっきのインタビューワーの名前は、何ていうの?」

 操が画面から消えると、Nテレビへ質問が殺到し、回線がパンクしかねないほどの影響を視聴者にもたらしたのだった。

「‥‥‥いや、驚かせて済まなかったが、彼女がどうしても君に会いたいと言うもんだから、組み手パタン中止の電話を入れなかったんだ。―――ええっと、彼女は俺の‥‥‥」

 操の後ろで、城野がいかにもバツの悪い仕草で頭をかいていたが、最後の言葉はやはり照れくさい。言いよどんでいると、

「もう説明しなくても分かってるわよね」

 操が言葉を継いで意味あり気に松井に微笑みかけた。

「ごめんなさいね連絡も入れず突然現われたりして。でも今日はどうしてもお会いしたかったの。さあ、お食事まだなんでしょう?」

 靴を脱いだ松井を、操が奥のリビングへ促し、自分の隣の椅子を勧める。今朝、北朝鮮に関する緊急特別番組が組まれてしまい、その煽りで彼女のニュース番組は中止を余儀なくされ、予期せぬ自由時間が転がり込んできたのだ。

「さあ、かけろよ」

 上がっているのか一向に座ろうとしない松井に、向かいの席から城野が再度促すとようやく腰を下ろした。

「本当にごめんなさいね、予定を狂わせてしまって。時間に追われる生活だから、今日は一日家でゆっくり過ごすつもりだったのに、結局新幹線に飛び乗っちゃったわ。―――来週すぐ来られるのに」

 操は松井に予定変更理由を述べていたが、最後は城野に顔を向けてはにかんだ。

 その夜、操は何時になく上機嫌だった。自分でも呆れる程よく喋ったのは、心地よいビールの酒精だけのせいではもちろんなかった。

「これで、私と健さんのことを知っているのは丁度、五人になったわ。前戸さんと、‥‥‥遼子さん。それに、石河先生と香苗さん」

 秘密というのは隠すことに意味があり知られてはならないものである。が、ある種の人に知られることは時に浮き浮きとした高揚感に浸れるだけでなく、彼との強い連帯感を生み出してくれるのだ。

「‥‥‥あのう、遼子さんというのは?」

 松井が遠慮がちに操の顔をのぞき込むと、

「あなた、遼子さんを知らなかったの? ―――熊谷遼子さんよ」

 城野にチラリと視線を送ってから、操は遼子のフルネームを伝えてしまった。

「前戸さんの、フィ・ア・ン・セ」

 仏頂面の城野を無視して、操が二人の関係まで喋ってしまうと、

「おい、おい。石河と香苗さんはいいが、遼子クンはどうかな」

 城野が苦笑いを浮かべながら、向かいの席からたしなめた。

「いいじゃない、松井君には」

 親友のプライバシーの口外―――これが城野のタブーであることは操も百も承知だが、なぜか松井には話したかったし話すことに抵抗がなかった。城野から聞かされていたこともあり、操は松井に家族のような親しみを感じ始めていたのだ。

「遼子さんはね、十九年前、あなたと同じクラスにいたの。もちろん今はドクターよ。障害を持つ子供たちの、積極的な支援活動をなさっているわ。―――石河先生はご存じよね。免疫学のホープで、最近、立て続けに論文を発表なさっているから。‥‥‥香苗さんは石河先生抜きには語れない人で、徳島県貞光町出身の、元看護婦、今は看護師よね。その看護師の奥さん。石河先生との大恋愛は、健さんから聞いているでしょう?」

「ええ、僕が頼んで何度も、それこそ耳にタコができるくらい話してもらいました。僕も石河先生のような医者になるのが理想なんです。城野先生たちのように、夏休み貞光へ受験勉強に行って、その家に香苗さんのような女性が下宿してるといいなあ。石河先生の後輩になって早く東京で研究生活を送りたいです。ホント、石河先生にあやかりたいなぁ」

 寿司をつまみながら、松井もようやく打ち解けて軽口をたたいた。

「さあ、どうだか。『無給のとき、嫁さんに養うてもろたさかい、いまだに尻に敷かれっぱなしで、ちっとも自慢にならへんけど、我が家は天下無敵のカカア天下や』って、石河の口癖だよ」

 飲めないワインに赤くなって、城野も軽口で二人を笑わせる。

「‥‥‥ね、松井君。今夜会いたかったのは、健さんに内緒にしてたんだけど聴いてもらいたいことがあるの。単刀直入に言わせてもらうけど、アルバイトをやめて、受験勉強に集中してほしいの。おこがましいけど、私にお金を出させてほしいのよ。ねぇ、いいでしょう健さん。健さんは伯母さんが引き取ってくれたけど、松井君には誰もいないんだから」

「‥‥‥うん。そうだったな」

 城野は歯切れが悪かった。操が思うほど、平坦ではなかったのだ。従弟妹たちと分け隔てなく育てられたのは事実だが、やはり実の親・兄弟というわけには行かなかった。思春期の難しさもあったろうが、ひがみや反発から何度か人生の横道にそれかけた。知っているのは前戸と石河だけで、彼らの口からは決して語られることはないが、中学時代、二度、人生の危機ともいうべき事態に遭遇した。高校受験さえ危ぶまれる中で、無垢な友情が破滅に向かう城野を救ったが、いま思えば両親の死を運命として受容するには長く苦しい航海が必要で、二人の親友は水先人として嵐の海で十全な役割を果たしてくれたのであった。

「‥‥‥そうだったんですか。城野先生も、ご両親を亡くされていたんですか。だから僕にこんなに‥‥‥」

 操の口から漏れた事実は、はっとするほど新鮮で、松井の疑問を氷解してくれたのだった。城野は、自分と同じ痛みを共有する人であったのだ。

(‥‥‥そうよ、松井君。私もどん底のときがあったわ。この人がいなければ、あなたの前に存在することすら、叶わなかったのよ)

 神妙な松井の横顔に、操は心の中でそっとつぶやいていた。


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