第3話 法華流体術
松井稔は多忙である。受験生は一面、みな多忙といって良いが、松井はYMCC予備校でも際立って多忙だった。社会生活において人が占める地位を身分と呼ぶなら、予備校生と小学校の警備員、この二つが四月からの松井の身分である。高校一年のとき、看護婦だった母を癌でなくしたが、非嫡出子で認知もされていなかったので、長期入院中の祖父と松井だけが後に残された。その祖父も、革新政党が支持母体で著名な―――耳山病院の医療ミスで一年後、娘の後を追うように逝ってしまった。ミスを認めようとしない病院への不信は、松井に医師になる道を選ばせたが、後ろ楯のない未成年者には厳しい道程で、高校卒業は彼に経済的自活を余儀なくさせたのであった。
初めての浪人経験だった昨年は、道路工事やコンビニのバイトで凌いだが、二浪の今年は小学校の警備員を選んだ。背水の陣で臨む決意が肉体疲労の少ない職種を選ばせたのだが、時間制約が厳しく、予備校終了時が特に慌ただしい時間帯だった。四時限目の授業が終わると挨拶もそこそこに予備校を飛び出し、天王寺駅からJR阪和線杉本町駅近くのY小学校へ駆け込み自活のための夜の仕事に就く。夜警なので拘束時間は長いが仕事は気楽で、校内巡回と日誌つけを除けば勉強に対する支障は多くはなかった。それに夕食も楽だった。目と鼻の先の大阪市立大学に二部があり、七時前に食堂へ入れば、バランスのとれたバラエティに富むメニューを選べるのだ。
火曜日の今日も、杉本町駅の改札を走り抜け階段を駆け降りると、駐在所前のポンコツ愛チャリに飛び乗る。Y小学校に着くと丁度五時だった。
「お帰りなさい」
警備員室のドアを開けた彼を、保健担当の馬場恵美子が優しく迎えてくれる。
「あ、馬場先生、ただいま」
「今日の給食の三人前、冷蔵庫に入れといたから、夜食に食べといて」
鍵を松井に手渡しながら、馬場恵美子がさり気なく伝える。彼女はY小学校における松井の最大の理解者で、彼の顔を見る度に、
「あんまり無理したらアカンよ」
と、口癖のように言う。高校ラグビーで半身不随の重傷を負った、十歳下の弟とダブルからだが、サポート役に回りたくなる魅力が松井にあることも事実だった。
「いつも済みません。それじゃさようなら」
馬場恵美子に別れを告げると、松井は警備員室の座り机に腰を下ろし、就寝時までの大雑把な学習予定を書き上げる。二十分ほどでアバウトな学習予定が出来上がると、作業日誌の作成、校内巡回、その他の雑務をこなす。
「お兄ちゃーん。一緒に、校内巡回したげるからー」
両親が共働きのため家へ帰ってもつまらないのか、運動場に残り、松井にまつわりつく子供たちの顔ぶれはいつも決まっている。
「さあ、六時になったよ。早く家に帰らないと、お母さんが心配するぞ」
渋る子供たちを笑顔で見送ってから、松井は何時ものようにチャリで学校を後にする。我孫子のトレーニングジムヘ出かけ、一時間半の筋トレ(筋力トレーニング)メニューをこなし汗を流すのだ。警備会社にはもちろん内緒で、職場不在理由は食事と入浴のための外出だった。杉本町駅北一番踏切を渡って、大学近くの歩道を勢いよく駆けていると、キャンパスから意外な人物が自転車に乗って出てきた。大学で食事を済ませた城野健だった。
「先生!」
松井に呼び止められて、
「よう!」
城野も生活科学部前の道路上で自転車を止めた。クラブ活動を終えた学生や二部の学生たちで賑わう通りでしばらく立ち話をしていたが、大学から出て来た車に道をあけるために移動したのを機に、
「どうだろう。今日はジムを休んで、僕に付き合ってくれないか。ひょっとしたら、ジム以上の成果が得られるかも知れないよ」
城野が苦笑いを浮かべながら誘ってみた。
「ええ、喜んで」
松井に異論のあろうはずがなかった。腕相撲無敗記録保持者がいとも簡単に打ち負かされてしまったのだ。そのパワーの秘訣が奈辺にあるかは興味津々であった。物理の授業を通し、講師としての能力も信頼と尊敬に値するもので、一度ゆっくり話してみたかった。
「すぐそこだから」
城野の後に並び、ゆっくりとペダルを漕ぎながら幹線道路を東に横断すると、五分も経たない内に閑静な住宅街一角にある、広い中庭が覗く二棟の八回建てマンションに着いた。
「さあ、遠慮はいらないから」
西棟の五O五室のドアを開けて、城野が松井を招き入れた。
―――独身にしては、綺麗に片付いている。
奥の居間へ案内されるまでの間、松井はさり気なく室内を見回し感心してしまった。
「そこへかけろよ」
テーブルを指さし、城野は隣室のダイニングへビールを取りに行く。居間は八畳あまりだが、ダイニングとの間仕切りが取り払われていて広々と解放感に充ちていた。
「二十歳だから、少しくらいいいだろう」
冷蔵庫から缶ビールを取り出し松井に手渡すと、城野は彼の向かいに腰を下ろした。
「我々のときと違って医学部は随分入りにくくなったが、資格ばやりの昨今の風潮の延長なんだろうね。医師資格は、弁護士や会計士資格と共に、安定した収入を約束してくれると思われているから。ただ我々のときと違って良くいえば実力主義、悪くいえば余裕のない社会が到来したので、いい加減な医師は生き残れないのに、その辺の認識欠如の学生が多くなったって、医学部の教師をしている悪友がこぼしてたよ」
ピーナツを酒のつまみに、城野は前戸や石河との予備校生時代を語り、それに松井のアルバイトの内容に耳を傾けていたが、
「‥‥‥実は一度、君に話しておこうと思っていたことがあるんだ」
新しいビールを取りに冷蔵庫へ立ち上がったのを機に本題に入った。
「君の志望校のことなんだけど―――」
ここ二カ月近くの成績を検討した限り、城野と前戸は松井が志望大学に合格できる可能性は極端に低いとの結論に達していた。
「第一志望の東大医学部はセンター試験からして、君の模試の点数より一割は高いし、たとえこれをクリアしても二次試験で合格点を取ることは至難のわざだ。第二志望の東京医科歯科(大学)だって、旧帝大医学部のいくつかより難関なんだから。我々のときは中間校として倍率が六O倍がざらで、あの当時から優秀な学生を取ってレベルを高めることに熱心な大学だったんだ。だから来年の合格を考えると、この二つは敬遠して少しランクを落とすか、それともこの二校にこだわるんだったら根本的な戦略転換が必要で、当然学習時間も増やさねばならなくなってジムでのトレーニングはやめたほうがいいね」
城野は松井を見つめ、真剣な眼差しで二者択一を迫った。夏前に決めておかないと、三浪の危険が限りなく大きくなってしまうのだ。
「気を使っていただいて、ありがとうございます。でも初志は貫きたいんです。‥‥‥先生、実は母は死の二日前、僕に父の名を教えてくれたんです。『お父さんを恨んじゃダメよ』って。父には僕のことを一切話さず、生まれ故郷の大阪へ戻ってきたらしいんです。‥‥‥父に会いに行くべきか迷った時期がありましたが、医学部へ入ってから会いに行くことにしました。僕の、それに母の意地でもあると思うんです」
天を仰いで目をしばたいてから、松井は母から聞いた父の名を城野に告げたが、東京在住の著名な医師で、石河から何度かその名を聞かされた記憶があった。
「‥‥‥そうか。よく分かったよ。志望校は譲れない決定なんだな」
東大か東京医科歯科にこだわる理由がようやく理解できたが、重い決意で、目的達成には強力なサポーターとアドバイザーが必要であった。
「‥‥‥このままでは志望校合格は難しいのは重々分かっているんですが、トレーニングをやめると体力が落ちてしまって、これまで鍛えてきたことが無駄になるような気がしてなかなか踏ん切りがつかないんです」
誇れる何かを持たないと妙な不安感に襲われて、学習にもマイナス効果が現われ、ジムでのトレーニング中止にはこれまでも踏み切れなかった。
「体力を維持するんだったら僕が考案した運動パタンで十分だよ。現に僕なんかそれしかしてないんだ。長くて三十分、かな」
松井のサポートを決めた城野が彼に誘い水を向けると、
「どんな運動パタンですか」
当然、思惑通りの返答が返ってきた。
「それじゃ、参考までに見てもらおうか」
予想通りの展開に苦笑いを浮かべながら、フローリングの部屋へ案内すると、城野はヨガをヒントに応用を加えた坐法、それから独特の柔軟運動、そして最後は学生時代から続けている法華流体術という格闘技のパタンを披露したのだった。
「以上全ての所要時間は、―――さっき言ったように三十分弱だな。時間のないときは体術のパタンだけにすると、十分程度で収まるのかな‥‥‥」
演じ終えた城野が息を整えながら、腕時計で時間を確認すると、
「先生! 今の運動パタンを僕に教えてください!」
ドア前で正座のまま、松井が思わず身を乗り出した。坐法や柔軟運動もさることながら、突き蹴り・投げの組み手は物理学を入れた、洗練度の高い理論格闘技そのものなのだ。
「よし、それじゃあ明日からといわず、今日から始めようか」
こうして、松井の城野宅訪問が始まったのだった。八畳の板敷きで坐法と組み手を習い、十分間の休憩をはさんで物理の個人指導。このサイクルが六月二十一日に既に出来上がってしまった。滞在時間は、水曜を除く七時から九時の毎日。食事と入浴が警備会社への不在理由であるのはいうまでもなかった。
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