第2話 六甲山頂Rホテル


「達夫、達夫。もう十時よ」

 十時前に母の和子が階下から呼びかける。

「あ、いかん!」

 母の声で目を覚まし、腕時計に目を遣ると大袈裟でなく、十時十分前だった。何とも多忙な昨夜から未明で、模試(模擬試験)の採点が長引き、朝方、服のままベッドに横たわり寝入ってしまったのだ。

「睡眠不足になるくらいだったら、夕べくらい、小太刀の組み技は控えればいいのに。大きな気合いは、ご近所にも迷惑でしょう」

 答案用紙を年代物の革カバンに詰め込み階下へ下りると、和子がいつもの小言をいう。小・中・高・大学と剣道三昧の生活を送ってきて、今度は小太刀。よくまあ飽きもせずにと、非難と諦めの入り混じる顔で息子を見上げ溜め息を吐いた。が、この点は前戸もまったく同じ心境で、聞き慣れた言葉を何度も並べられるので既に馬耳東風の域に達していた。

「うん、そうだな。―――あ、それから、‥‥‥今夜は帰らないんで、夕食はいいよ」

 いつものように苦笑いで小言をはぐらかし玄関へ下りると、背中を向けたまま、前戸は取って付けたように用件を継ぎ足す。

「遼子さんと会うの? ‥‥‥ねぇ、遼子さんは最近、家へ来てくれないけど、私が何か気に触ることでも言ったのかしら。ねえ、何か聞いてない?」

「うん。病院が忙しくて時間がないんだって」

 靴紐をしばる手を止め、前戸はうんざりした顔で振り向く。四十過ぎて独り身なのだ。親の気持ちは分かるが、こう度々口をつくと、聞かされる方はいい気がしない。紋切り型の愚痴に付き合う遼子は尚更で、足が遠のくのも無理からぬことで多忙は口実なのだ。

 遼子というのは芦屋の公立病院の小児科勤務、女医の熊谷遼子のことである。十九年前の、前戸の教え子だった。天王寺のマンションで一人暮しのとき、転がり込んできたのが遼子で、押しかけ同棲といってよかった。質問理由の来訪が、結局、男と女の関係を導いてしまった。〈スキャンダル〉―――当然のことではあるが、校内の噂になり他校の攻撃にも曝されたが、駆け出し講師と大病院院長の娘という事情は辛うじて醜聞の三流業界誌への掲載を阻んでくれた。全国誌と違って、三流誌は金で容易にカタがついたのだ。隠蔽工作が成功裏に終わると、遼子の母は阿修羅の如き形相でマンションへ乗り込んで来た。弁明の余地ない失態を材料に前戸の受験業界からの追放まで匂わせたが、母親似の娘は敵の弱点を知悉していて一歩も退かなかった。

「なぜ達夫さんばかり責めるのよ。迷惑をかけたのは私なのに、予備校にいられなくするんですって?! そんなことをしたら、決してあなたを許さない! ‥‥‥大体、お母さんに口出しする資格があるの? 私の足をこんなにして。もう帰ってよ! 今度来たら、医学部は、絶対、受けないから!」

 幼児期の落ち度を責められ最後通告まで発せられると、遼子の母は譲歩案を出して引き下がらざるを得なかったのだった。

「それじゃ、行ってくるよ」

 玄関先で母を振り向き、前戸は泉北ニュータウン竹城台の自宅を出て車でYMCC予備校へ向かう。普段なら一時間余りで予備校へ着くが、今日は五月十日。企業や商店の決済日で、高速道路に至るまで車が数珠つなぎだった。漸く牛歩さながらの低速モードから抜け出て、予備校地下の駐車場へ車を滑り込ませカークロックに目をやると、一時三分前。ロビー奥の受付で出席簿を受け取り二階のA1クラスへ二段飛ばしで階段を駆け上がる。今日の授業は一時からA1クラスで数学B(この時代的には数ⅡBだが、敢えてBにした)。

「先日した模試の答案は、さっき事務(室)に置いてきたから、悪かった者は家でする弁解を考えとくように」

 少し笑わせ、前戸は数Bの授業に入る。彼の分析によれば数Bで作れる問題のパタンはせいぜい六00題である。その中から、A1クラスの生徒に必要な一00題余りを選び、徹底的に応用の効く解法パタンを教え込む。群を抜く成績が、一年後の受験に好結果をもたらし、前戸の看板講師たる地位を不動のものにする。ナンバー・イズ・エロクェント。まさに数字は雄弁なのだ。

 九十分の授業が終わると十五分の休憩をはさみ、A2クラスで英語の読解(リーダー)。このクラスは文系の特待生選抜クラスである。難解な長文を、オリジナルなパタン化で容易に解きほぐす授業は受講生に好評で、他クラス生のチェックに事務(事務職員)が目を光らすほどであった。

「それじゃ始めようか。―――今日は二十四ページの、バートランド・ラッセルのエッセイからなんだが、分詞構文に仮定法と盛りだくさんでウンザリだろうけど、まずこの下線 ①の訳で注意しなくちゃいけないのは三つの文で構成されているということ。これは容易に分かるね。そして第一文は最初に文全体にかかる修飾語があるので、まず修飾語を訳して、それから主語、次にオールウェイズという副詞を訳す。そして、文の後ろから前へ訳していくとスムーズに意味が通じる。次の文はやたら前置詞が多いが、後の目的語と一体となって修飾語として機能する場合が大半だから、いつも言うパタンにのせて訳していけばいい。残った最後の文は第五文型だから、訳のパタンは―――」

 かくの如きありさまで、前戸の授業は論理と記憶重視の、軽妙で飽きさせないものだった。例文もすこぶる覚え易く、構文暗記に最適だった。

「使役動詞+目的語+原形不定詞の構文を、ヒィ・メイド・ハァ・ストリップなんて文で覚えさせた中学教師が槍玉に上がっているけど、これはちょっと行き過ぎだったな」

 最後にコミカルな話題で今日の授業の幕を引くと、

 ―――彼は彼女に服を脱がせた‥‥‥か。

 最前列の席で、A1クラスの松井が前戸を見上げて苦笑いを返した。

「先生、今日はお急ぎですか」

「うん。六時に六甲なんだ。でもいいよ、少しくらいの質問だったら」

「いえ、いいです。僕もこの時間帯はちょっとつらいので。また今度お願いします。それじゃ、さよなら」

 廊下で松井と別れ、前戸は講師室へも寄らず駐車場へ向かった。高速(高速道路)までのロスタイムが大きくて、高速に乗りさえすれば六甲へは案外スムースに着くのだ。阪神高速を降り、六甲山腹の神戸大学国際文化学部前に差しかかると既に夕もやが立ちこめ、道路灯がまぶしい白色光を車道に放ち始めた。カーブに合わせハンドルを大きく右に切りながら、手際よくギヤをサードに下げ急坂を上がる。学生時代、この坂道のランニングは苦痛以外の何ものでもなかったが、ときが経つと不思議なもので、懐かしい思い出に変わっていた。鶴甲(つるかぶと)団地を尻目に山頂への有料道路に乗り、濃い霧がたなびくRホテル前に着いたのは六時二十四分。遼子の愛車を目で探すが、展望台前の、デッキ様の広いパーキングエリアにまだ無かった。ラウンジへ来るよう、フロントに伝言を残し、前戸は厚手のジュウタンを踏みロビー奥のホワイトウッドのドアを開けた。遼子はこの店のコーヒーが好きだ。プロの気品が、味と香りに漂っているという。

 駐車場を見渡す窓際のソファーに深々と体を沈め、前戸が二杯目のコーヒーを味わっていると、

「ごめんなさい。随分遅くなって」

 七時過ぎに遼子がようやく顔を出した。息を弾ませ、淡いライトに映された色白の顔が上気して美しい。豊かなクリ色の髪をシニョンに束ね上げ、ビーナスを彷彿させる容姿で、襟足のホクロが上気した肌に官能的だった。

「今日は、どれくらい待ってくれたの?」

 向かいに腰を下ろすと、遼子は上目遣いに前戸の顔をのぞき込んだ。

「いや、俺も遅れて来たんだ。待ったのは、‥‥‥一時間くらいかな」

 腕時計から目を上げて微笑むと、

「本当にごめんなさい。いつも待ってもらって」

 上目遣いのまま、遼子は肩をすぼめた。

「―――おいしい」

 前戸の横に座り直して、運ばれてきたコーヒーを、香りとともに、いとおしむように味わう。寄りかかっていると、仕事の緊張が体から抜けていって、とろけるような安堵感に浸れる。コーヒーカップを両手に包んで、目をつぶったまま、遼子は長い間、感覚に酔っていたが、

「少し歩こうか」

 前戸の声に促されると、

「ええ」

 うっとりと夢見心地のまま、前戸にもたれて腰を上げた。

 ホテル前の小道を左に折れて、サルスベリの木立ちに誘われるように、二人は山頂への細い山道をゆっくりと歩く。

「ね、お母さん、何かおっしゃってない?」

 前戸の右腕を抱いて、遼子が気まずそうに見上げる。

「うん。最近、君が家に来てくれないと、こぼしてたよ」

「‥‥‥そう。ごめんなさいね」

「いや、いいんだ。それより、君の方も、お母さんが早く帰って来てほしがってるんじゃないか」

「ええ。去年、父が亡くなってから、病院は他人まかせになっているでしょう。母は私に後を継いでほしいのよ。‥‥‥でも、私はまだわだかまりがあって」

 遼子のいうわだかまりは、足の怪我のことである。一歳半のとき、遼子は縁側から転げ落ちて骨盤を折ってしまった。彼女が激しく泣き叫んでも、「甘えているのよ」と、母は取り合わなかったらしい。その結果、発見が遅れて遼子の足には軽い障害が残っている。―――事実を知らされたのは、十五歳のとき。母と不仲の、祖母の告げ口だった。

「病院で忙しかった、あなたのお父さんがねぇ、怒ってお母さんをぶったのよ。『お前なんか、医者の女房の資格はないっ! 出て行けっ!』ってね。そりゃあ、すごい剣幕だったわ。お父さんがあんなに怒るのは初めて見たわ。私はお母さんが殺されるんじゃないかと思ったほどよ。‥‥‥あなたに較べたら、お母さんは塵芥(ちりあくた)ほどの価値しかなかったのよ、お父さんにとって」

 最後に祖母は、遼子の耳元で小さな声で付け加えたのだった。

 足の障害は言われてみて初めて気付く、ごく軽いものだが、本人はいたく気にしていて、

「気になる自分が嫌になるの。でも手術は‥‥‥」

 大学時代、手術にかけてみるか真剣に悩んだ時期があった。

「さあ百万ドル、―――いや、一億ドルかな。最高の夜景だ」

 山頂に着くと、微かな夕陽も海に沈み、六甲の山並みは黒い大きな影に変わっていた。

「本当に綺麗! ここから見る神戸の街が、私は一番好き。神戸と、‥‥‥わがまま娘を愛し続けた、父の気持ちが痛いほど分かって、切なくてつらくなっちゃうけど。‥‥‥本当に、親不孝だった」

 遼子は目をしばたいて下唇をかんだ。眼下には百万ドルの夜景が夕闇に浮かび上がって、まばゆい光が、まるで蜃気楼のようにゆらめいていた。

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