幼児の胸部に忘れられたガーゼの、被害者遺族を求めて(大阪の旧帝大小児外科での33年以上前のガーゼ失念ミス)

南埜純一

第1話 幼き日、住吉神社の森で


 ―――本書を、名も知らぬ、幼子(おさなご)の母に捧ぐ―――       

    

 

 幼少時から一風変わった男だった。風貌も〈痩せガリ骸骨〉。口さがない喧嘩仲間からトリプルの形容で悪態をつかれたが、子供心にも妙にキャパ(キャパシティ)の広さを感じさせる、侮りがたい一面を隠し持っていた。

「おう! 何や、えらい背高いやないか。それに喧嘩もまあまあいけるな。よし、今日から健(たけし)と俺の仲間に入れたるわ。男同盟や」

 五対二の劣勢が助っ人の加勢で瞬く間に形勢逆転。相手を打ち負かした後の「はあ、はあ」肩で息を切りながらの、石河俊雄の前戸(まえど)達夫への挨拶だった。

 幼稚園の入園式当日の同盟以来、前戸と石河、それに彼の二軒隣の城野健とで可笑しいほど気の合う仲間が形成され、三人で住吉大社の境内を駆け回るのが幼少時の日課になってしまった。

「なんでお前ら、天高(天王寺高校)受けるなんて言うんや。俺ら、住吉大社でチャンバラごっこして大きなったんやないか。住吉の名前の付いた高校へ入らなんだら、住吉さんに義理立たへんやろ」

 理由にならない石河のクレームに納得してしまい、城野も前戸も中学の担任の反対を押して学区内二位の進学校に決めたのだった。

「春はやっぱり曙やな。徳利を抱いて、庭の牡丹も眼鏡の先でユーラユラや。東大の三四郎池での酒盛り頭に描いて、受験の憂さも猪口(ちょこ)の中でプーカプカってとこかな」

 志望校合格の感動も覚めやらぬ始業式早々、突然、石河は最難関の医学部受験を宣言し、徹底した夜型学習に突入。と、同時に酒精の魅力に取り付かれてしまった。その彼の、高一初夏までの常套句がこれだった。アルコール臭を漂わせ、午前の授業は大イビキ。さすがに女子たちのクレームで保健室のベッドが授業ディスターバーの遁走先になってしまったが、当時はおおらかであった。教師が目くじらを立てることもなかったのだ。清少納言が呆れてしまう石河の「曙」讃歌で、霞み棚引く幽玄の明け方が何時、鈍痛の赤光に覆われるのか一度聞いてみたかったのに、城野も前戸も聞く機会を逸してしまった。

 ところで、二十年余り予備校で教鞭を取る前戸には、春のもたらす萌えいずる力強い息吹に印象が向いてしまい、その連想は枕(草子)にいう「あけぼの」以上に、「躍動」の二文字であった。

「春は躍動の季節で、夏は恋や。残念なことに秋は失恋が相場で、冬―――忍耐っちゅうのが、俺の高校三年間の総括やな。予備校へ入って恋するわけにいかへんから、〈春は躍動、夏は恋。秋は失恋、冬忍耐〉、このセオリーは予備校生の一年間、〈春は躍動、夏飛躍。秋は忍耐、冬忍耐〉に変更せなアカンやろな」

 現在、東京の国立大医学部で講師をする、変わり身男・石河の予備校時代の口癖がこれで、「躍動」節が何時の間にか「曙」讃歌にとって代わってしまっていた。共感と耳タコの相乗効果であろうか、四月のこの時期、前戸の耳に石河の口癖が判で押したように甦ってくるから不思議であった。石河は標語を作るのが好きな男で、大学入学後のそれは、1(いち)コネ2(に)金(資力)、3(さん)に運。4(よん)、5(ご)がなくて6努力。7、8なくて9(きゅう)頭(能力)だった。ちなみにこれは、出世競争で勝利を収めるための価値序列らしい。

 ―――ヤツらしいな‥‥‥。

 予備校の地下駐車場にスェーデン製のエステートワゴンを滑り込ませ、前戸が苦笑いを浮かべた。石河の標語が正しければ、いまだ講師止まりの彼は、コネない金ない運がないということになるのであろうか。有能で志(こころざし)高く、しかも努力の虫。そんな石河を思い浮かべると、本人の望む今の地位が前戸には妙に微笑ましく、一面複雑な心境でもあった。

 とまれ今日は四月十日。大阪天王寺にあるYMCC予備校の開講日である。東京で研究生活を送る石河と違って、前戸は予備校時代の親友との約束に反し院(大学院)へ進まず、予備校講師の職を選んだ。剣道部へ入り、部活中心の学生生活を送って院での数学研究に興味を失っていたこともあるが、石河のいう躍動の季節に魅せられたことも大きな理由であった。三回生の時から始めたアルバイト講師が、卒業後もYMCC予備校に居ついてしまったのだ。

「おはよう」

 四階の講師室を開け、長身の前戸が誰にともなく言葉を投げる。二十年のベテラン講師は落ち着き払って、開講日であることすら忘れているかの風情であった。緊張気味の若い講師に、ふっと引き込まれる笑顔で挨拶を返し、ネクタイを緩めながら講師室奥の専任講師のプライベートルームへ入る。

「いいかな、前戸。―――おはよう。ところで今日はずいぶん早いじゃないか。授業は二時限目からなのに」

 隣室の物理担当で、二十年来の同僚城野がドアを開けた。がっしりとした中背の体に、地味なグレーのブレザー。ノーネクタイだった。前戸とはいまだに、「健」「達夫」と呼び合う幼少時からの癖がややもすると出てしまうが、予備校ではさすがにファーストネームははばかられる。

「うん。今日配布するレジュメにミスプリがあったんで、新たに刷り直したほうがいいと思ったのが早朝出勤の理由だよ。ほら、すごい量だろ。‥‥‥チェックは当分、自分でしないと駄目だな。『やめられて知る、有能さかな』ってとこかな。彼女、いい妻君になるだろうな。子供が出来るまで引き留めるべきだったな」

 カバンから赤ペンまじりのレジュメを取り出し、前戸が笑いながら城野に手渡す。退職事務員がいかに有能であったか、気づくのが少々遅きに失してしまった。ドアを開けたまま二人が談笑していると、

「前戸先生、城野先生、おはようございます。えーっと、それから、あ、そうだ。城野先生、はい、これ、出席簿です。―――それはそうとですね、今年はA1クラスにすごい筋肉マンが入ってるんですけど、ご存じですか?」

 新米事務員で、専任講師付きの山路が講師室へ入ってきて、ぎこちない仕草で出席簿を手渡すと、上目遣いに前戸を見上げた。

「ほう‥‥‥」

 前戸は無関心だったが、城野は軽い驚きを隠さなかった。最難関の医学部志望者のクラスはマッチョには居心地が良くないのか、開設以来、其の手の類(たぐい)とは無縁であった。

「おまけに、全特(授業料全額免除の特待生)なんですから。‥‥‥それに、お母さんを亡くし、一人でアルバイトをしながらの受験勉強なんですよ」

 ためらい気味に山路は声を落としたが、職業倫理が芽吹き始めた証左であろう。

「山路君。さあ、出席簿を」

 苦笑しながら、前戸が話題の転換をはかる。山路を批判する意図はなく思春期に作られた習性ゆえの行動パタンで、いまだに紋切り型に出てしまうのが可笑しかった。城野も中学のとき、両親を交通事故で亡くしているのだ。

「そうか、そうか。山路君のお気に入りなんだな。それじゃ初講義で、筋肉マンにお目にかかるとするか」

 出席簿でコンコンと自分の肩をたたき、前戸に苦笑いを返すと、城野は講師室を後にしてA1クラスへ向かう。階段を使い、ゆったりとした歩調で、らせん状の中央階段を二階へ下りる。熱気とざわめきが廊下にまであふれ、新鮮な緊張が心地よい共鳴をもたらし節目にふさわしい日の実感であったが、廊下の突き当たりのA1クラスは緊張と無縁のどよめきであった。教室の真ん中に生徒たちが集まり、腕相撲の観戦に興じていて、山路のいう筋肉マンが二人を相手にシーソーさながらの熱戦を展開していたのだ。

「よしよし、いい勝負だが、バトンタッチだ。このままじゃ、決着がつきそうにないから」

 城野が割って入り、選手交替を促し筋肉マンの相手を申し出ると、

「ナイス! ビッグマッチ! 本日の、メイン・イベント!」

 飛び入りの対戦相手に歓声が沸き上がり、初日とは思えぬA1クラスのムードであった。

「それじゃ、お願いします」

 立ち上がって一礼すると、すぐ腰をかがめ、筋肉マンは机にヒジをつけた。太い眉、精悍な面立ち、子猿のように人懐こい笑顔。柔道をしていたのか、筋肉マンは礼儀正しい好青年であった。

「いいかな。それじゃ、いくよ。ヨイショ」

 城野も腰をかがめヒジをつけると、手を組み合ったが、勝負はあっけなくついてしまった。赤子の手をひねるという表現が大袈裟でない、歯牙(しが)にもかけぬ仕草で、城野が筋肉マンこと松井稔の右腕を机に引き倒したのだ。

「エーッ、イヤダー! ウッソでしょ、もうっ!」

 予期せぬ結果が驚嘆と失望のどよめきを生むが、最前列の女生徒が幼児のように手足をばたつかせ、反応が素直で可愛かった。

「いやー、完敗です。こんな強い人は初めてです」

 瞬時の決着に、松井もサバサバと息の乱れもなかった。

「これくらいで驚いてちゃだめだよ。前戸先生はもっと強いんだから」

「えっ! 前戸先生って、数学と英語担当の、あの背の高いスリムな感じの先生ですか」

「うん。―――さあ、腕相撲はこれくらいにして、物理の授業を始めよう」

 教卓へ進み簡単な自己紹介を終えると、城野は早速、黒板にチョークを走らせ、ベクトル表示を多用しながら、図形重視の、視覚型アプローチとでもいうべき問題分析と解法パタンを展開したのだった。

「ま、こんな具合で、物理の問題は図を描くと結構分かり易いんだ。力学法則にしたがった簡略な図を描いて、物理を得意科目にしてもらえると、教える側としてはとても光栄で予備校の教師冥利に尽きるんだが」

 私語の全く消えた教室を見回し、城野は開校初日の一時限目を笑顔で締め括って、A1クラスの九十分授業を終えたのだった。

 その日、二時限目が終了すると、二人は講師室奥の、申し訳程度の狭いロビーのソファーに腰を下ろし暫く雑談していたが、

「どうだろう。もし時間が空いているなら、食事をして、それから軽く呑まないか。今日は車を置いて電車で帰ってもいいんだ」

 前戸が誘うと、

「‥‥‥そうだな、そうするとするか。今日は然したる用事もないし、授業も二時限で終わりだからな。ちょっと下のロビーで待っててくれ、すぐ行くから」

 城野は明日の準備と、持ち帰る問題集とテキストを取りに自室へ立ち上がったのだった。

「お先に、失礼」

 他の講師たちに挨拶を返して、前戸が一足先に講師室を後にし一階ロビーへ下りると、事務室前で松井が山路を相手に書類を作成していた。

「あ、先生。今からお帰りですか」

「うん。君も今から?」

 松井の笑顔に、前戸も自然と口元がほころぶ。

「いいえ、僕はあと暫く帰れません。これ、書かないといけないので」

 特待生に関する書類なのであろう、受付カウンターで、他に男女各二名ずつ同じ用紙を作成していた。

「城野先生は御一緒じゃないんですか?」

「いや、一緒だよ。ほら」

 山路がカウンター内から出てきたとき、エレベーターのドアが開いて城野が顔をのぞかせた。

「それじゃ、さよなら」

 山路と生徒たちに別れを告げ、ショルダー(バッグ)の前戸とブリーフケースの城野がYMCC予備校を後にしたのは、二時を少し回っていた。車と人で混み合う正面の大通りを避け、左に折れて、二人並んで人通りの少ない裏通りへ入る。JR阪和線の線路に沿って五分も歩くと、乗客や買い物客で賑わう天王寺ステーションビルに着く。

「ここも天博(天王寺博)の後、随分さま変わりしたな‥‥‥」

 駅ビルから地下街を抜け、天王寺公園へ上がって、城野は感慨深げにあたりを見回した。木々や草花が青々と芽吹いて、正に萌えいずる春に相応しい息吹きが立ち込めているのだ。

「そういえば予備校生当時、お前と石河と三人で、公園内の庭園で英単語を覚えたり、図書館の分館でよく勉強したな。あの頃は本当に充実していたように思うよ。青くっても、夢ではち切れんばかりだったから」

 当時のままの棕櫚(しゅろ)の大木を眺め、城野が二十数年前を懐かしんでいると、

「そうかな。俺の耳には『高校時代、テニスやり過ぎて浪人してしもたけど、何でもうちょっと勉強しとかへんかったんやろ』って、石河と二人でしきりに悔やんでいた、お前の言葉が残っているけど」

 前戸が苦笑いを浮かべ、城野の思い出に水を差した。

 五時までまだ三時間近くあるので、二人は美術館地下のレストランへ入って、遅い昼食をとり、ゆっくりと時間をつぶす。

「今、株はどんな様子だ?」

 コーヒーカップをテーブルに戻し、城野が壁の抽象画を眺める前戸に声をかけた。

「ひどいもんだよ。半値八掛けなんてレベルはとっくに通り越して、末期といえる症状じゃないか。バブル崩壊の後遺症に経済のグローバリゼイション、それに中国産の低価格商品によるデノミ圧力。株価の回復は当分見込めないんじゃないか。俺の売買パタンでは昨年末に売却するはずだったんだが、アナリストといわれる連中が、間もなく回復、あとしばしの辛抱、なんて言うもんだから、欲を出して持株の半分ほど残しておいたんだ。するとどうだ。驚くほどの下げだよ。一体どういう人種かね、彼らは。分析と対策能力、プロのイロハだが、それすらも持ち合わせていないのか」

 ティーカップを持ち上げ、前戸は憮然とした面持ちだった。

「そういう人たちの言うことに一切耳を貸さず、前戸式株売買パタンを考案して収益を上げていたんじゃなかったのか」

 先程のお返しのつもりで城野がやり返すと、

「そりゃあまあ確かにそうだが、一団となって声を大にして叫ばれると、ときには俺の確信も揺らぐよ」

 一本取られ、前戸は苦笑いを浮かべながらカップを口に運んだ。

「―――まあ、金は簡単には稼げないと言うことだな」

「そういうことだろうね。いずれにしても、資産としての株や土地は俺には無縁の代物だが、お前のアドバイスでマンションを買ったのは正解だったよ」

 バブル崩壊後、城野は前戸の勧めでJR阪和線杉本町駅近くのマンションを購入した。資産価値では土地付き戸建てが勝るが、城野には戸建てに住めない理由があってマンション購入に落ち着いたのだった。

「話は変わるが、今年のA1クラスは相当出来がいいよ。それにクラスの雰囲気もいい」

「そういえば、入校試験の成績は例年に較べダントツと山路君が言ってたな」

 正面のビィーナス像から目を移して、前戸も笑顔で頷いた。事務方が気負うほどの粒揃いで、名門復活! との意気込みが講師たちにも伝わってくる。

 二人の勤務するYMCC予備校は、かつて府下随一の大学進学率を誇っていたが、関東からの有名予備校進出によりレベルダウンを余儀なくされてしまった。受験産業の一つである予備校もベビーブーマー世代が受験期を迎えた昭和四十年代の牧歌的時代は今は昔で、昨今は少子化の逆風下で生き残りをかけ熾烈な競争を繰り広げていた。この生き残りの必要・十分条件が質の高い講師とコンピューターを駆使した情報収集と分析力、そして良質な生徒たちによる進学率の向上であった。

「そろそろ出ようか」

 城野に促され、椅子から立ち上がると、二人はレストランを出て通天閣近くまで足を運び、学生時代行き付けだった店へ顔を出した。

「‥‥‥うん。変わらないな、この味」

 一OO%の牛脂(ヘット)を使っているので植物油などより融点が高いからであろう、この店のカツはカリッとした仕上がりで、歯触りの良さは以前と寸分変わらぬ懐かしい味だった。立ち呑み客に混じり、カツを肴に呑むビールは喉に爽快で、胃にも心地よかった。

「今年のA1クラスは、‥‥‥十九年前の再来みたいな感じだな。ほら、遼子クンの出た、あの記録ずくめの年だよ。クラスの雰囲気もなんとなく似ているんだ」

 城野は終始、上機嫌だった。特待生を選抜し、彼らに命運を託さねばならぬほどの競争下にあって、久方振りに千里の馬たちを手に入れたのだ。寡黙な伯楽も名門復活の確かな手応えを感じとって、躍動の季節に相応しい一日を味わったのだった。

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