第72話 影の者(4)

極大な魔法が消滅し、一瞬にして部屋の中が嵐の過ぎ去った後のような静寂に包まれていた。

張り詰めた糸のように緊迫した雰囲気。

崩れかけた天井から落ちてきた小石が砕ける音だけが、どこか間の抜けたようにこの小さな空間に響き渡る。

そんな部屋の中央付近で、薄汚れた格好の冒険者と黒装束の男が向かい合っていた。

そして、未だに目の前で起こった現象を飲み込めないまま、黒装束の男が苦々しい表情で口を開いた。


「貴様……一体何者だ?ただの冒険者ではあるまい」

「お前に教える義理はないな。俺は依頼をこなしているだけだ」


イツキは男の質問を無下に切り捨てると、地を蹴り上げて瞬時に距離を詰める。

無慈悲な宣告。

神速の冒険者は低く屈んだ姿勢で男の真下に到達すると、既に固く結んだ拳を構えていた。

食らえば、それこそ敗北が決定する必殺の一撃。

だが、黒装束の男は何も言わずにそれを受け入れた。なぜなら、魔力を使い果たした男に抵抗する術は残っていないからだ。

そして、巨竜をも沈めるイツキの拳が無抵抗な男の腹部に突き刺さった。


「ぐっ……がはっ……!!」

「さあ、吐け。お前の主がレーベン伯爵だということはわかっている。お前たちがこの街で成そうとしていることは何だ?何故あの辺鄙な劇場にこだわる?」


悶え苦しむ男の胸倉を掴んで持ち上げると、イツキは矢継ぎ早に質問を浴びせた。

問い質したいことは無数にある。それこそ裏で動いている思惑を全て吐いてもらわなければ、この男を捕えた意味がない。


「ク、ク……ククク……」


だが、そこで黒装束の男は笑った。

イツキが放っている身が竦むほどの威圧感を前にして、愉快だとでも言いたげに笑い声を上げたのだ。

嗚咽にも聞こえるほど不気味な笑い声が部屋に響き渡る。

そして、ひとしきり笑い終えた後、黒装束の男は唐突にカッと目を見開いた。


「クハハハハ……!冒険者が探偵気取りのつもりか?なら、まだ貴様は何も掴めてはいないようだな」

「どういうことだ?」

「死にかけで頭おかしくなっちゃったんスかね?」


突然狂ったように笑い出した黒装束の男を見て、イツキとフィーネが怪訝な表情を浮かべる。

こうした犯罪者の中では、追い詰められた末に精神に異常をきたす者もめずらしくはない。

だが、黒装束の男ははっきりとした口調と眼差しで、自分を見つめる二人の視線を打ち返してみせた。


「狂ってなどいないさ。私は事実を口にしているまでだ。貴様らは自分たちが手を出しているモノの危険さを理解していない。それがどうしようもなく面白いだけだ」

「そうかもしれないな。だが、お前から全部聞き出せばいいだけだ」


我関せずと言いたげに男の言葉を無視すると、イツキは答え代わりにもう一度腹部へと拳を叩き込んだ。

ズンッ……と地響きのような揺れが起こり、黒衣に包まれた男の体が殴られた衝撃で少し浮き上がる。


「ぐふっ……!!ハ、ハハ……無駄だ!!」


そこで、黒装束の男が微かに残っていた魔力を振り絞り、僅かに緩んだイツキの腕を強引に振りほどいた。

命の危機に瀕した者の最後の抵抗というわけだ。

しかし、いくら逃げたとしても魔力のない魔法使いには抵抗することはおろか、この部屋から出ることすら叶わないだろう。それだけ天と地ほどの力量の差があるのだから。

それがわかっているイツキは急ぐことなく、ゆったりとした足取りで男を部屋の隅へと追い詰めていった。


「何をしても無意味だ。お前にもそれぐらいわかるだろう」

「フ、フフフ……無意味だと?」


冷たい岩石の壁に囲まれた部屋の隅へと追い詰められても尚、満身創痍のはずの黒装束の男は傷だらけの体を庇いながら余裕を見せる。

そして、イツキの諭すような言葉にも不敵な笑みを浮かべ、懐に隠し持っていた黒いナイフを引き抜いた。

多少の魔力は込められているようだが、何の変哲もない凡庸なナイフ。

たとえ切りつけることができたとしても、非力な魔法使いの腕力ではイツキの肌に傷の一つすら付けることも叶わないだろう。

その様子を見て、まだ抵抗するのか、とイツキが呆れながら短剣を手に取る。


「なら、そんな刃物おもちゃで戦いになると思うのか?」

「たしかに……戦いにはならんだろうな。だが、こういう使い方もできるのだ!」


そう叫ぶと、黒装束の男は振りかざしたナイフを自分の胸に突き刺した。

鈍く光る刃物が男の体に飲み込まれていき、代わりに赤黒い血が溢れるように流れ出してくる。


「わぁ~お!」

「自害……?」


黒装束の男の取った行動にフィーネは好奇の目を輝かせ、イツキは腑に落ちない視線を向けた。

違和感がある。

不可解な奇行の数々はもちろんのこと、自ら命を絶つという非合理的な選択がイツキにとっては不思議で仕方がなかった。

そして、そんな彼らの視線の先で、黒装束の男は血を流しながら覚束ない足取りで彷徨うようにふらついていた。

命の灯火が既に尽きようとしている。

だが、それでも尚、男の表情には愉快そうな笑みが仮面のように貼り付いていた。


「ク、クハハ…奥の手は……取っておくものだと、言ったはずだ……!」


すると、それまで点々と流れていた赤黒い血が少しずつ漆黒に染まっていく。

それこそ“影”のように。

よくよく見れば、黒装束の男の体も同じように、ナイフを突き刺した箇所から広がるように黒ずんでいっていた。

血が、体が、男を構成する全てが影に溶け込むように染まっていく。

そこでようやくイツキも男の狙いに気付いた。


「お前……まさか……!」

「フ、フフフ……そう、私は影だ。捕まえることなどできはしない。そして、世界は再び混沌に包まれることになるだろう。また相見えることになるかもしれないな。規格外の冒険者よ」


黒装束の男は黒い霧のように掻き消えながら、最後まで不敵な笑みを浮かべていた。

まるでこれから起きる出来事がわかっているかのように。

そして、イツキが何かを問いただす前に、その体は空中に溶け込むように消え去ったのだった。

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