第5話 勇者の記憶

「ふっ…!はぁっ…!せやぁっ!」

日もまだ上がり切らないような早朝、“元勇者”イツキは一人で剣の鍛錬をしていた。

常人では剣の軌跡すら目に映らない神速の剣捌きで風を切り裂き、呼吸を乱すことなく静かに構えを戻す。そして、脳裏に刻み込まれている強力な魔物や凶悪な魔族の姿を思い浮かべながら、淡々と剣を振り続ける。

勇者だったイツキにとって、戦うべき相手はもういない。けれど、この世界に来てから一度も欠かしていないこの習慣をやめることができないままでいた。

それが“勇者”という存在に対しての未練なのか何なのか、イツキ自身も図りかねているのだ。

(戦う意味もなければ、戦いたいという衝動があるわけでもない…。勇者としての俺は空虚なままだ…)

イツキはこの世界で歩んできた人生を思い返しながら、心の中でそう独り言ちた。


この世界での記憶があるのは、勇者となってから。その時すでに少年となっており、勇者として宣託を受けた時に自分が転生してきたことも同時に思い出すことができた。

それから七年はただひたすらに魔物や魔族と戦い続け、道中で出会った仲間たちと共に世界を旅して歩く日々。

時には燃え滾る火山を乗り越え、時には荒れ狂う吹雪の雪原を踏破し、蔓延る数々の強大な敵と死闘を繰り広げた。

それは多くの人々から見れば過酷な旅と言われてもおかしくなかったが、イツキにとってはこの上なく充実した日々だった。

“鍛えれば強くなれる”。これほど恵まれたことはない、とイツキは今でも思っている。そして、自分の成すことが世界に平和を呼び寄せ、救った人々が感謝の言葉を投げかけてくれるのだ。これほど幸せなことはないだろう。


やがて、世界を陥れようとしていた魔王をこの手で討ち取り、英雄として世界に平和を齎すという勇者の役目を全うした。

共に戦った仲間たちは平和が訪れた世界に散っていき、夢を追いかける者もいれば、余生を静かに過ごす者や魔界にとどまる者もいた。誰もが自分の中にある衝動に従って、これまでとは別の旅をはじめていたのだ。

だが、イツキにとっては“魔王を倒すこと”が全てであり、それから先のことは何も考えていなかった。勇者でなくなったイツキは、もはや何者でもなかったのだ。


「こんなものか…」

ひとしきり汗を流すと、イツキは鍛錬を切り上げて水浴びをし、身なりを整えはじめる。

一人暮らしにしては中途半端に広く、がらんとした殺風景な部屋。

生活するために必要な最低限のものしか置いておらず、それ以外の場所は武具や魔法道具、貴重そうな素材が綺麗に保管されていた。

イツキはその中からあまり目立たなそうな暗い色の装備を選び、いかにも安物に見える短剣を腰に差した。

こうして出来上がったのが、見るからに不愛想で弱そうな駆け出し冒険者である。あくまでもパッと見だとそう見えるだけで、装備自体は二級品以上の優秀な武具だ。

イツキの経験上こうした格好の方が面倒事に巻き込まれる可能性が低く、それでいてどこにいても違和感がないから便利なのだ。その代わりに元勇者の威厳はおろか、冒険者としての品格もかなぐり捨てているが…。


イツキはひとまず普段通りに身支度を終えると、曖昧なままになっている昨日の記憶を呼び起こし始める。

まず浮かぶのが、今にも吐きそうなレナエルの顔と、その様子に気が動転し過ぎて有り金をはたいてエリクサーを買ってきたシンの姿だ。

(そうだ、昨晩はニフティーメルのライブの後にジョーたちと酒場で飲み明かし、それから家に帰って寝たのだったな…)

そのせいか、起きてから身体の節々が痛む。

けれど、今思い返してみても本当に愉快な一夜だった。

酔っ払って魔物の幻覚を見たジョーにわき腹を殴り飛ばされ、見事に酒場の壁を突き破って隣の民家に首が突き刺さったのが昨日のハイライトだろう。

「ジョーのやつ、思い切り殴ったな…。まったく、二級品のナイフが綺麗に折れ曲がっているじゃないか…」

イツキは巨漢の拳が叩き込まれたわき腹を手でおさえ、家に帰って投げ捨てたナイフを見ながら愚痴る。だが、その顔には呆れたような苦笑と共に、子供のように無邪気な笑みが浮かんでいた。

そんな友人たちの遠慮のなさが、イツキにとっては逆に心地が良いのだ。


「そういえば、今日はレナエルの工房に素材を届けるはずだったな」

壊れた装備を片付けている最中に、小人族の魔法技師から受けていた依頼に気が付く。

頼み事は早めに消化しておきたい性分のイツキは、思い立ったが吉日とばかりに用意していた麻袋を持ち、すぐに家を発とうとするが、そこでふと昨晩レナエルが飲み過ぎて潰れたことを思い出した。

外はまだ早朝と言っても差し支えない程度の明るさであり、友人の自宅へ赴くにしては少々早すぎる時間帯だろう。

ましてや、相手は女性なのだ。訪ねるのならば日が昇り切ってからにするべきで、手土産の一つや二つは勿論のこと、そもそも体調を気遣って明日に予定を変えるのも一手だろう。

そして、相手に気を遣わせないようこちらから遠回しに日を改めることを提案し、さりげなく好感度を上げながら立ち去るべきだ。

――――――当然ながら、そんな紳士なことをイツキが考えるわけがなかった。


わざわざ気を遣う間柄でもないだろう、と思い直し、そもそもレナエルが勝手に潰れたのが悪いとごく自然に責任を押し付け、納品が遅れて怒られるのは御免だ、と保身に走る。

挙句の果てには――――――

「そういえばここから工房までは遠かったな……そもそも予定では昼頃だったはず。せっかくだ、途中で寄り道でもして行くか。酔い潰れたあいつを介抱するのはトロルの群れを始末するよりも面倒だからな」

と、結局乙女の頼みを後回しにして口汚く馬鹿にする始末。けれど、これが世界を救った勇者の本当の姿なのである。

そして、勝手に一人で納得をすると、イツキは荷物をまとめて家をあとにするのだった。



☆☆☆



市街地の外れにある自宅を出ると、イツキは細い路地を抜けてまっすぐに中央通りを目指した。

しっとりとした程よい湿気を含んだ風が凪いでいき、朝を告げるように木陰の中で小鳥たちが合唱をはじめる。そして、綺麗に整備された路地には石造りの家々が所狭しと並び、人々の営みが息づいていることを伺い知ることができる。

今日は特に急ぐ理由もないため、イツキはゆっくりと歩いて路地から中央通りへと足を進めた。

街を東西に横切り、市街地と商店街を抜けていく中央通りはまだ日が昇りはじめたばかりだというのに大勢の人々で溢れ、立ち並ぶ商店からは威勢のいい売り文句が飛び交っている。


「そこのおに~さん!うちの絶品ホワイトラビットシチュー食べてかないかい?」

「おめーら、今日こそはダンジョン踏破してやろうじゃねぇか!なぁ!」

『近日中に魔素脈の拡張工事が実施されます。詳しくは政府広報までお問い合わせください』

「冒険者さんたち!今日は魔石の買い取りキャンペーンやってるから、帰りに是非寄っていってよ!」


この中央通りは別名“冒険者通り”と呼ばれ、外へ抜ける東西の門につながっていることから冒険者たちの往来が多く、そんな冒険者たちを目当てに様々な商店が我先にと店を開いていた。

特にここ、エルネスタ王国は国内に点在しているダンジョンの数が世界で最も多く、その結果、他国に比べて冒険者が集まりやすいのだ。

そして、その王都であるエルネストリアはギルド連合の本部があることから、冒険者たちのメッカとなっている。


イツキはそんな冒険者で溢れ返っている人混みの中をスタスタと歩いていく。

だが――――――


『もしかして、勇者様ですか?』

『そうだが』

『キャー!握手させてください!!』『勇者様のお通りだー!!』


なんてことにはならなかった。


それどころか、普段はしつこい客引きも、誰彼構わず売り捌いている武器屋の店主も、この目立たない冒険者に声をかけるどころか気付くことすらなかった。

普通に考えて、もし世界を救った勇者が街中を歩いていたなら、誰もが寄ってたかって話しかけてくると思うだろう。

恭しく手を取り、感謝を述べ、なんなら何か物をくれるなんてこともあるかもしれない。

しかし、現実はそれとは全くの正反対だった。


なぜなら、ここにいるほとんどの人はこの不愛想でいかにも駆け出し風の冒険者が世界を救った勇者であることを知らないからだ。


「おい、あんた、そこに立たれると困るんだよな…。うちには下級冒険者が買うような品は置いてないぜ」

「そうか、悪かったな」


たまたま立ち止まっていた武器屋でも、苦い顔をする店主へ表情を変えずに返事をするイツキ。そして、手に取っていた短剣を元の場所に戻し、何も言わずに店頭から立ち去った。

たとえどれだけ酷い事を言われようとも、イツキは決して憤慨することはない。なぜなら、イツキ自身も、勇者の姿を直に見たことがある人がほとんどいないことを知っているからだ。

人々が知っているのは、『選ばれし勇者が数々の英雄たちと共に魔王を討伐し、世界に平和を齎した』ということだけ。

だが、彼らは決して勇者を軽んじているわけではない。

人々にしてみれば、リアルタイムでのテレビ中継もなければ、勇者の姿形を知っているわけでもなく、前線で勇者と共に戦ったわけでもない。ましてや、勇者はどこかの国に属していた英雄ですらなかった。

突然現れ、破竹の勢いで魔王を蹴散らし、世界を平和へ導いた象徴的存在。それが“勇者”であり、そこに“イツキ”はいないのだ。


通りの脇に露店を構えているドワーフの武器屋がせっせと下級冒険者向けの装備を並べていた。値段的にも武器の精度的にも、おそらく初級冒険者向けの小さな店なのだろう。

彼がこうして店を開いていられるのもイツキのおかげなのだ。それどころか、ここにいる全ての人が笑っていられるのもイツキが必死に戦ったからだ。

「ん?なんだ?何か買うなら言ってくれ」

「………いや、いい」

イツキは何も言わずに店頭を去り、そそくさと中央通りを通り抜け、再び細い路地へと入っていった。

いくつかの入り組んだ細道をくねくねと渡り歩き、どんどん街の外れへと向かっていく。

そして、とある建物の前で足を止めた。

人通りの少ない路地裏にある小さな酒場。そこがイツキの目的地だった。

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