第29話 普段は起きないのに

 

 綺麗な綺麗なあの人が、いつものように美味しい紅茶を淹れている。その湯気が香る店内で、あの人の妻である双子の母親が二人を両手で抱き上げてあやしていた。

 そっくりな二卵性の双子。長男であるヒカルが、ベルの音に気が付き母親の腕から下ろせともがく。

 愛子は両手に持ったお菓子と玩具でドアを開けられないで、出入り口で立ち尽くしている。

『いらっしゃい愛子。よく来てくれたね。』

 少し掠れたあの人の声が歓迎を示してドアを開けてくれた。

 自分はその笑顔が見たくて、毎週毎週このカフェへ足を運んだ。邪魔だとわかっていても、双子のお守りに過ぎないと知っていても。

 あの人の妻が、ミスズだけを抱いて友人でもある愛子に屈託ない笑顔を向ける。よく来たね、今ちょうどお茶が入ったよ、飲んでかない?そんな声をかけてくれる。その足元には、少し興奮に顔を赤くしたヒカルが、こちらへ向かおうとうずうずしたように立っている。

 愛子は荷物をカウンターテーブルに下ろし、空いた両手を広げてゆっくりとしゃがんだ。

 少しだけ恥ずかしそうにしたヒカルが、駆けてきて愛子に抱き着いた。頬ずりするように頬にキスを繰り返す。子供ってこんなにも温かくて、やわらかいのだと抱きしめる度に思う。背中にちょっとした重みが加わり、ミスズが自分も抱っこして欲しいと言っているのがわかった。

 子供とは言え二人を同時に抱き上げるような腕力は持ち合わせていない。双子の母親と違ってか弱いのだ。一度、ヒカルを膝から下ろし、それからミスズを抱き上げる。

「アイコ、アイコ大好き。来てくれるの、ずっと待ってたんだよ。」

 膝から下ろされたのが不満なのか、愛子の膝にしがみつくようにしてヒカルが言う。

「ありがとう。私もヒカルとミスズが大好きよ。飛んできたかったくらいだわ。」

 そんなヒカルが可愛くて、そっと綺麗な金髪を撫でた。柔らかな髪は、きっとあの人譲りなのだろう。

「だっこしてアイコ。アイコはいつもいい匂い。大好きアイコ。」

 下ろそうとするとまたしがみついてきて何度でも抱っこをせがむミスズ。彼女は愛子のうなじ辺りに鼻を押し付けてふんふんと匂いを嗅ぐ。身だしなみとして身に付けている香水の匂いが大層お気に入りらしい。

「ふふ、ミスズが大きくなったらいい匂いの秘密を教えてあげるわね。」

 双子は何故か愛子とても懐いてくれていた。

 あの人によく似た双子を抱きしめていれば、まるであの人の妻になったかのような錯覚を覚える。

 双子のお守りをする自分を、青い眼を細め眩しそうに見つめて笑うあの人の顔がとても素敵だった。その隣に、彼の奥さんがいつも寄り添っていたとしても。

『ヒカルとミスズは本当に愛子が大好きね。ヒカルは愛子と結婚するんだって宣言してたのよ。どうする?愛子。ちょっと年下だけど、わたしの義理の娘になってくれちゃう?』

 嬉しそうに笑いながら、彼の妻はそう言った。いっそそれが実現してもいいと言っているかのように。

 愛子はその現実感のない話を当たり前のように受け流す。

「あはは。ヒカルが結婚できる年になれば、ヒカルの方がこんなおばさんは嫌だって言うようになるわ。」

『それでもいいって言ったらどうする?ヒカルと結婚して、僕らの娘になるかい?』

 あの人がくすくすと明るく笑って言う。

 私は貴方を舅にしたいのでないのよ、と飲み込んで。私は貴方を夫にしたかったのよ、と飲み込んで。

「だとしても十数年も先の話でしょう。とても婚約は出来ないわ。」

 同じように笑って答える。

 それは残念、と肩をすくめたあの人がそっとカップに紅茶を注いだ。それを双子の母親である彼女がここまで運んでくる。

 ほんの少しだけ胸が痛くて、とてつもなく幸せだったあの頃。

 あの時にはもう、あの人を彼女から奪おうなどと思う気持ちなどとうに無くなっていた。

 あの人がいて彼女がいて、双子がいるこの優しくてあたたかい場所に、自分が受け入れて貰えている事。それだけで嬉しくて。

 ただ傍に居ることが出来る。あの人の笑顔を見る場所にいられる。

 愛子の思いは、そんな所にまで行きついていて。彼が親しい友人として向けてくれる親愛以上のものを求めることも諦めていた。こうして彼らの傍で彼を思い続けながら年を取っていくのだと、それもまたきっと一つの幸せの形なのではないかと。そう思っていたのだ。彼らが同時に事故死したあの日まで。



 このミルクティーの香りのせいだろうか。久しぶりに双子の両親の夢を見た。

 ヒカルは父親が淹れていたお茶の手解きを受けていたわけでもないのに、本当に同じミルクティーを作ってくれる。遺伝の不思議さを痛感する事実の一つだ。

 さんざん茶葉を躍らせ、温めたロウファットミルクを注いだそれに、僅かな、本当に少量の蜂蜜を足してくれるのがヒカル流である。愛子専用に作ってくれるそれは、ミスズが出て行ってから彼が覚えた料理の一つと言っていいだろう。

 レンゲ蜂蜜を好むのは、ちょっぴりローコストだからである。本当は、オレンジなどの柑橘類の蜂蜜を買いたいけれど、あれは高価な上にミルクと余り会わない気がする。

 薄眼を開けると、愛子の鏡台の上にミルクティーを置いたヒカルがご機嫌な様子でこちらへ歩み寄ってくるのが見えた。

 敢えてまだ覚醒していない振りをして、毛布の中で丸くなる。

「アイコ、お早う。休みだからっていつまで寝てるの。」

 柔らかな声でそう呟いて、寝台にちゃっかりと乗り上げてくる。毛布をまくって隣りに身体を入れると、耳元に軽くキスをした。

「お早うってば。お茶、持ってきたよ。アイコの好きな蜂蜜入りミルクティー。温かいうちに飲んで欲しいな。」

「普段は起こされても起きないくせに、休みの日だけ起きてくるってどうなのかしらね?・・・頂くわ。」

 軽く彼の髪を優しく撫でてから起き上がる。

 すると彼は不満顔だ。何が気に入らないのか知らないがそれには頓着せず、冷める前にとベッドを下りて鏡台のカップを口に含んだ。

 温度もちょうどよくて、ミルクがしつこくなくて、僅かな甘さが心地よい。起き抜けには最高の紅茶を頂いた。余りの美味しさにため息が出る。何より香りがたまらない。

 至福のひと時にまどろんでしまいそうだ。鏡台の隣りにあるブラインドを動かして朝日を入れる。夜明けが遅くなったとはいえ、もうこの時間では日が高い。

「アイコったらつれない。」

「何がよ?」

「キス、して。」

「・・・・・・。」

 それでご機嫌が悪くなったわけか。起き抜けにチューしてやらなかったから怒ったと。

 それには理由があるのだ。若いヒカルと違って、アラフォーの愛子の起き抜けは口臭が気になるため口づけは出来ない。若い頃は自分も気にしたことなど無かったのだが、この年になれば自覚があるため、とてもじゃないがしてやれるもんじゃないのだ。相手のためを思っての気遣いである。

「・・・顔洗ったらしてあげるから。」

 口を尖らせるヒカルがベッドを下りてきた。

「今、して。」

 片手にカップ、片手で頭を抱える。

 女子学生みたいな我儘を言い立てる息子に頭痛を禁じ得ない。

 朝にしては珍しくヒカルの方が朝シャワーを済ませて身綺麗にしている。だから彼はいいけれど、こっちはそうではない。歯磨きどころかトイレさえ済ませていないのだから勘弁してほしい。

「してくれないなら襲う。」

 女子学生が居直り強盗みたいに開き直った。

「わかった。するから。ちょっと待って。」

 慌ててカップを置いて洗面所に向かおうとスリッパに足を突っ込んだ瞬間、背後から両肩を捕まれる。


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