第28話 忘れかけてた過去
カフェを出てから向かったのは、学校の第三校舎の二階にある美術講師室である。
モニーク・アクランド先生は一年時担当講師だった。当時は一般教養としての美術講師でヒカルのクラスを教えていたのである。若さと美貌が自慢の女性で、生徒を食い散らかすことでも有名だった。蜂蜜のような濃い色の金髪の巻き毛に、ちょっと珍しい紫水晶のような色の瞳が印象的だ。
ヒカルにとってはただそれだけの先生だったが、彼女の方が彼を放っておかなかった。数度ヒカルを呼び出しては誘いの声をかけていたのだ。
正直授業はそこまで興味深いものでは無かったし、その作品にもそれほど心動かなかったヒカルは、大してモニーク先生に心惹かれることは無かった。彼女が学校からそれなりの給与をもらっているらしいことだけが、唯一の関心事だった。
ざっくり言えば、彼女程度の実力でもそれなりの所得が得られると言う美術講師という職業に興味を持ったのだ。
呼び出された際に彼女の経歴や作品などを知り、どうやらこれなら自分でも出来そうだと確信した。
そう思って講師室を退出しようとした時、彼女の指がヒカルの頬に触れてきた。
「貴方はこっちの道に進みたいんじゃないの?貴方ならいけるんじゃないかしら、私が教えてあげれば」
カンバスを示している指とは逆の手が、ヒカルの身体へ伸びる。
「ガールフレンドはいないの?そういうことだって、大事な芸術の肥やしなのよ?」
そう誘われ、ヒカルは彼女の手の中に落ちてしまったのだ。
若かった、と言うか幼かったのだ。
アイコへの恋も自覚し始めていて、それでいてどうしてよいかわからずに悩んでいた。
異性への興味もあったが、養母の彼女に手を出していいはずもないと思い、ずっと堪えていて、悩んでいて迷っていた。
妹はサッカーに夢中で、そんな妹の世話でやっきになっていたアイコを、思っても思っても、通じるはずもなく。
他の女性と触れ合えば、あれは気の迷いだったのだと思える日が来るのかもしれない。アイコ以外の女性と付き合えばきっと募る思いとおさらばできるのかもしれない。そんな風に思って、告白された同級生と二つ返事で付き合ったりしたこともある。それでも、ヒカルはどうしても彼女が忘れられずに。
年上の女性ならばいいのだろうか、などと、そんな風にも考えて。
モニーク先生は確かに同級生とは違っていた。始終連絡しなくても、なにかとデートに誘わなくても、何も言わない。あれをして、これをして、などと強請っても来なかった。そういう意味では付き合いやすい女性だった。進路の事にも相談に乗ってくれたし、彼女の忠告には的を得ているものが確かにあった。
それでもやっぱりヒカルはアイコが忘れられなかったのだ。だから結局先生とも関係は切れた。
関係が切れたのは昨年のはじめだ。あれから彼女の授業は取っていないので直接ヒカルと接触することは、殆どないはずなのに。
一年近く経った今、呼び出される理由がわからない。
アイコのことを忘れられなかったのは当然だ。今考えれば自然に答えが出る。いくら忘れたいと思っても養母である彼女は帰宅すれば必ず会うし、ヒカルの世話を焼くことも忘れないし、いつも見守ってくれている。彼女がヒカルに向ける愛情が恋愛のそれでないとしても、愛されていることに変わりない。純粋に母親として自分を愛してくれる彼女を、性愛の対象と見てしまうヒカル自身の方が穢れているような気持にさえなった。彼女の元を離れることも考えたけれど、それも出来ない。ヒカル自身が、寂しくて耐えられそうにない。
考えて、悩んで、苦しんだ末に。
ふと、気が付いた。
養子でなければいいのだ。ヒカルだってやがて大人になる。成人すれば育てる義務は無くなる。アイコはもう母である必要はない。そうなれば養子縁組を解消して一人の男になればいいのだ、と。
そこに行きついて、新たな不安材料を発見する。
何故、アイコは今まで独身を通したのか。
もしも、その理由が双子を育てるためだとすれば、母親を辞めた瞬間に彼女もまた一人の独身女性となる。
果たして、彼女を周囲の男が放っておくだろうか。
アイコはアラフォーとは言えまだ若く美しいし、公務員という立派な社会人だ。彼女に相応しい大人の男はきっと星の数ほどいるだろう。少なくとも、無収入の学生であるヒカルよりはずっと魅力的に映るだろう。ヒカルの出る幕など無いに等しい。
描くことは幼い頃から好きだった。なんとなくではあるが、いつか、絵をかいて生計を立てる仕事に付けたらいい、と思っていた。
だが、そんな悠長な事を言っていたら、アイコは誰かに持っていかれてしまう。
高校を卒業し専門学校を出てすぐに働けるようになるには、モニーク先生のような職業が手っ取り早いのではないか。試験にさえ合格すれば最短二年で講師になれる。ヒカルが二十歳になるころには、無収入の学生ではなくなるのだ。
だが、それまでにアイコを口説くような男が現れたら。そう思うと居ても立っても居られなかった。
だからいつも警戒していた。呼びたくはないけれどいつも『ママ』と呼んで、子離れできない風を装って、アイコが母親であることを世間の誰にもアピールし続けて。
動物の雌は子供が小さいうちは雄を寄せ付けない。それと同じように、アイコはまだ母親なのだから男と遊ぶことなど出来ないのだと、そう振る舞って。
そうして、18歳になった今年の夏。
ミスズが独立して家を出て行くのと同時に、ヒカルもまたアイコに求婚したのだ。
母親の役割を完全に終えてしまう前に、唾をつけておかなくては。
養子縁組を解消しお互いがそれぞ自立した成人となっても、アイコはもうヒカルのものであるということを彼女に教え込んでおかなくてはならない、そう思って。
アイコの方は養子と関係を持つなどというインモラルな事態に慌てふためき抵抗するだろうけれど、大したことは無い。
長年育てた可愛い息子であるという事実もうまく捲し立ててアイコの人の好い所に付け込んでしまう。
そして、アイコが独身でいる理由は恐らく、母親業に専念しているからという事だけではない。彼女は今は故人となったヒカルとミスズの父親のこと現在も忘れられずにいる。
そこにも付け込む。ヒカルには父親から貰ったこの容姿がある。色彩はともかく、強く受け継いだ父親そっくりの顔貌はアイコの感情を動かさずにはおかないだろう。
日本語を話す時の一人称を『僕』にしたのも、父がそうしていたことを叔父から聞いて知っているからだ。
ヒカルとミスズは英語と日本語を自在に操るバイリンガル。両親は日本語で会話し、外では英語を使用する生活をしているから自然とそうなった。勿論アイコもバイリンガルだが、彼女は日本語で口説かれるのが好みなのだと、叔父に聞いたことが有る。だからヒカルはアイコの前ではほとんど英語で話すことは無い。
そんなふうに二人きりの家で暮らす生活が始まって、ウハウハのヒカルの所に呼び出しが来たのは、まさに寝耳に水。
忘れたかけていたかつての愛人からの連絡に、警戒してしまうのは当然だった。だからミスズとアイザックに会ったのだ。
何かあっても、くれぐれもアイコの耳に入れないように、と。
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