第27話 今夜は遅くなります。


 今日は珍しく残業になりそうだ。

 滅多に残業になることはないので、息子のヒカルに一声かけておくべきだろう。席を立って上司に許可を求める。

「田中さん、ちょっとだけいいですか。家族に連絡入れておきたいんですが。」

 年内に英国内で起業したいという邦人の申請が、今回は予想外に多かったせいである。愛子の職場は、異国における自国の出先機関かつ代表機関であり、この国に滞在している邦人の企業支援も行っているため、申請が立て込むと忙しくなる。そう言った申請が立て込むことは余りないのだが、年末や年度末が近づくと、稀に忙しくなることもあるのだ。

 またこんな時期に限って犯罪が頻発したり、旅行者の数も増える。そうなると、一層愛子の仕事場は忙しくなった。

「いいよ。残業は出来るだけ短めにね。」

 部下が残業すれば上司の評価が下がるため、上司も出来れば残業をさせたくないのだ。どうしてもという時は出来るだけ減らしたい。申請して上司の許可が降りなくては残業と認められないのもそのためだ。そもそも、時間外労働のための予算はそう多く計上されないのが常である。

 勿論それらの事情は熟知していた。軽く会釈して席を立つと、デスクの引き出しの中から端末を引っ張り出し、それを手に居室を出る。

 気分転換にもなろうと上着をひっかけ職場を出てエレベーターへ足を運んだ。フロアを出ると、寒さに息が白くなった。上着を持って出て正解だ。

 17時を回る時刻ともなれば、通りが忙しくなり始める。道路も混み始め、バスや列車も本数が増えた。交差点へ出て向かいのビルの一階にある小さなカフェへ足を運ぶのも面倒になるから、今のうちに行っておきたい。

 カフェでコーヒーを注文し、出来上がってくるのを待つ間端末を見る。

 画面には双子の幼い頃の写真。まだヒカルが金髪碧眼だった頃のものが映っている。双子の妹であるミスズとそっくりに見えていた頃のものだった。

「あれ」

 タイミングを見計らったかのように着信があり、通話に出ると、そのミスズからだった。

「ママ、今夜寄ってもいい?」

「今日はまだ週末じゃないのにどうしたのよ?」

「ママのご飯食べたくなった。」

 多すぎる頭髪のためにライオンのような彼女の姿が、画面いっぱいに映っている。相変わらずの彼女に何故かほっとした。

 ミスズが家を出てから半年近く過ぎた。彼女は自立して別の場所から学校に通っているが、週末の度に愛子の家に戻ってきて夕食を食べていくのだった。

「・・・もしかして、ボーイフレンドも一緒かしら?」

「うん。」

 照れもせず明るく笑って答える娘には、常に傍に居るボーイフレンドがいる。彼女曰く、友人ではなく彼氏でもないがいつも傍に居なくてはならないパートナーなのだそうだ。

「わかったわ。ただ、今夜ママは仕事が押してて少し遅くなるのよ。それでもいい?」

「構わない。今夜もステーキが食べたいな。ねぇ、お肉は買っていくから、ママが焼いてくれる?」

「買い物を済ませて置いてくれるなら有り難いわね。じゃ、メールで買い物リスト送るからついでにお願い。8時くらいには帰れると思うの。」

「はーい了解。」

 用件が済むとすぐに通話が切れる。余計なお喋りのないミスズはいつもシンプルだ。

 彼女の兄であるヒカルへ残業する旨をメールで送ると、すぐに返信があった。彼の方も、学校の課題で遅くなるとの事だ。

 ふむ、と鼻を軽く鳴らす。夏休みが終わって以来、ヒカルの帰宅が遅くなったことはほとんどない。友達との付き合いだってあるだろうに、彼は学校からまっすぐ自宅へ戻り愛子の帰りを待っていた。

 仕事で疲れきった愛子にとって、嬉しそうに帰宅を待っていたヒカルがお帰りと言って迎えてくれるのはとても嬉しい事だったが、その一方で彼の交友関係は大丈夫だろうかと心配してもいたのだ。



 学校内のカフェテリアで偶然見つけた双子の妹に声をかけたのは、勿論用事があったからだ。

「ハイ、ヒカル。元気?ママも元気かしら?」

 目立たぬようにしてはいるが、彼女の後ろにはいつも影のように寄り添って離れないアイザックの姿があった。以前は学校までは付いてこなかったのに、最近は学校でもミスズに張り付いているらしい。

 隅っこのテーブルで注文を待っていたミスズは飲み物をすすりながら双子の兄を見上げる。

 放課後の時間を過ぎて休憩を入れる学生たちで賑わうカフェテリア。ここのメニューにはミスズのお気に入りがあるのだ。肉食女子の彼女にふさわしい肉厚バーガーと呼ばれる巨大なハンバーガーは、予約をしていないと食べられない。主に運動部御用達と思われるハンバーグが4枚も入ったそれを食べる女子は、校内広しといえども恐らく妹のミスズだけだろう。

 運ばれてきたそれに目を輝かせた彼女は、ウキウキとバーガーに差し込まれているピンをはずした。

「相変わらずそんなもん食ってるんだ。太るぞミスズ。」

 憮然とした顔で兄は呆れたように言う。

「体が資本なのよ、食べなくちゃ持たないわ。で、何か用?」

 食生活についてとやかく言われたくないミスズは、青い眼を大きくして見せてから尋ね返した。

「今夜、うちに寄れないか?僕が遅くなると、アイコが一人になってしまう。」

「別にいいけど・・・。ヒカルが遅くなるって珍しいじゃない?」

「例の講師に呼び出された。」

 兄の、いかにも面倒くさそうな口振りに、ミスズの眉が片方だけ上がる。ヒカルの黒い眼がちらりとアイザックの方を見た。

 彼の視線に気づいたのか、すっと目線を上げたアイザックが軽く頷く。

 ミスズは青い眼を見開いた。

「まだ、切れてなかったの?」

「切ったさ!少なくともこっちはとっくに切れてたつもりだったんだよ!だけど、今頃になって急に呼び出すなんて気になるだろ。」

 剣呑な声で言う妹に、ヒカルは弁解するように答える。

「アイコに迷惑かけたくない。二度と関わることが無いように、今日もう一度話をつけるつもりだけど。」

「ん~、あの人ってそういう人だったのかな?なんか来るもの拒まず去る者追わずってタイプじゃなかったっけ?なんか特別なわけでもあるのかな。・・・で、説得できるの?」

「努力はする。」

 そうは言ってるが、自信が無さそうな兄の姿にミスズはため息をつく。

「わかった。ママに連絡して今夜行くって伝えておくわ。」

「頼む。僕からも遅くなることは連絡するけど・・・、アイク、うちに来たら一応周囲を調べておいてくれないか。」

 バーガーにかぶりつくミスズの背後で、彼女のボーイフレンドは静かにもう一度頷いた。

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