先が見えない愛だけど

第26話 追憶の向こう


 初めてあの人を見たのは日本にいた時だった。

 彼が実姉と一緒に神戸を訪ねて来た時、陰に隠れて見ていた私は、その美貌に見惚れた。

 私はまだ学生で、姉の蓮子れんこの陰から彼をこっそり見つめるだけしか出来なくて。

 輝くような金色の長い髪と、冬の空のような澄んだ青い瞳は、それまでに出会った異性の全てが平凡に思えるほどの衝撃だった。彫りの深い顔立ちに、シャープな顎のライン、そして高く通った鼻筋、その長身はモデルのようにスタイリッシュだ。

 ふわっと笑う顔は信じられないほどに優しくて、目元が少しだけ下がっているのが一層女性的に見えた。

 なんて綺麗な人なんだろう。

 平凡な白いシャツに黒の綿パンツを身に付けているだけの、ごく地味な格好なのに、彼だけが輝いて見える。

 彼が彼の姉に向ける笑顔が眩しくて、その笑顔を自分に向けて欲しくて、私は自分の姉に紹介して欲しいと頼んだけれど、むげに断られた。

「見ればわかるでしょう。彼は日本人じゃないのよ、いずれはイギリスに帰ってしまうの。貴方のような子供の相手じゃないの。」

 姉は意地悪で言ったわけではないだろうけれど、私は傷ついた。

 子供なんかではない。学生ではあるけれど彼氏だっているし、もうすぐ高校だって卒業する。

 年の離れた姉は、そんな私の言葉など一笑に付した。

 今ならば姉が自分を子供だと言って笑った気持ちも理解できる。

 自分の子供たちが、当時の自分の年齢に追いついた今となっては。





 トーストを焼いて玉子とベーコンを同じフライパンで加熱する。コーヒーメーカーをセットしたら、洗濯機の中のものを乾燥機に移さなくてはならない。

「ヒカルっ!起きなさい!!」

 自分の寝室のドアをガンガンと叩いた。それから、入室してもう一度大声で覚醒を促す。

「う~ん・・・アイコ、後、五分・・・」

 愛子のベッドの中で高鼾のヒカルが、唸るような声を上げて寝返りを打つ。

 お決まりの台詞をぼそぼそと言う彼の形のいい耳を思い切り引っ張った。

「アウチっ!!痛いっ耳が千切れるよ、アイコ!!」

「とっとと起きないからよっ。私だって出るんだからね。もう、ミスズがいないと貴方と来たらもう、朝も起きられないの!」

「ミスズは関係ないよ。・・・昨夜はいっぱいしちゃったからさ~、ね、アイコ。今日はもう少しだけ寝かせ」

「馬鹿言ってないで学校よ!」

 息子の譫言をぴしゃりと遮って睨み付けると、ヒカルは渋々ベッドから降りた。

「早く服を着なさいっ!!」

 彼の身体を隠していた毛布が落ちると、全裸だった。見慣れたとは言っても、若い男の裸を直視できるほど太い心臓ではない。しかも、朝だからか、アレが勃ち上がっているのが見えてしまった。

 赤面した顔を隠すために彼に背を向けると、背後からヒカルがしなだれかかる様に抱き着いてくる。

「うふふ、えらいなアイコは。僕と一緒に寝たはずなのに僕より早く起きて・・・睡眠時間足りてる?肌荒れてないかなぁ?」

 さわさわと頬や首筋に触れてくる手を、抓った。

「大きなお世話よ。さっさと支度しなさい。」

 厳しく叱りつけると、ヒカルは引き下がって大人しく脱ぎ散らかした下着だけを身に付けてそのまま自室へ戻って行った。

 彼が昨夜脱いだ彼の部屋着は、結局愛子の部屋の床に落ちたままなので自分が片付けることになる。

 まったく呆れてしまってため息が出た。

 あれで自立できているつもりなのだろうか。朝も自力で起きられないくせに。

 昨夜、鏡の前でぺちぺちと化粧水を顔に塗りたくって保湿をしていたアラフォー女の所へ押しかけて来たヒカルが、そこらに勝手に部屋着を脱いだのだ。

「どうしたのヒカル、寝ないの」

「アイコを抱かないと寝られそうにない。・・・ね、いいでしょ?」

 壁ドンならぬ鏡ドンをされ、半裸になった彼に向って首を横に振った。

「明日は貴方学校もあるし私だって仕事があるのよ。今夜はナシナシ。」

「ええ~いやだ。貴方が欲しい。したいよ。」

 店先で欲しい玩具を買って欲しい駄々っ子みたいな顔をしないでもらいたい。こっちは玩具ではない。そして、息子はもう18歳を過ぎたいい年なのだから。

「駄目。明日起きられないでしょ?」

「起きられるから。大丈夫、僕若いから全然平気。アイコが起きられなかったら僕が起こしてあげるから。」

 とかなんとか自信ありげに言ってたくせに、このていたらくである。

 若いから大丈夫、ではなく、むしろ若いから眠いのだろう。

 ある程度年を取ると、寝不足でも疲れていても、決まった時間には目が覚めてしまうのだ。

 無理やり言い包められて一緒にベッドに入ってから実質的に眠りにつくまで三時間以上かかっている。ヒカルよりも二時間は早く起きて炊事洗濯を済ませるので、愛子の睡眠時間は4時間にも満たないくらいだ。

 あと五分寝たいのはこっちである。




 あの人に会いたくてロンドンまで追いかけて来たけれど、あの人には既に恋人がいた。もう、10年以上前の事だ。

 その恋人は彼には不釣り合いとしか思えない、まるで少年のような地味な女の子だった。日本人だと言う点を差し引いても、到底魅力的とは思えないその少女は、恋敵だと知っている私に無邪気に笑いかけ、「仲良くしてね」と言ったのだ。

 正直、ちょろいな、とさえ思った。この程度のレベルの女子なら勝てる、と思いあがっていた。

 美人だともてはやされた覚えのあった愛子は、この地味な少女から簡単に彼を奪うことも出来ると思っていたのだ。

 けれども、あの人は愛子の誘惑に負けることは一度として無く、彼女が双子を身籠った事を機に結婚してしまった。

 それでも諦めきれなかった。結婚してしまっても、子供が出来ても、彼の元へ通いつめ、彼の奥さんになった少女とも親友と言えるほど親しくなって。

 彼の子供である双子は愛らしくて、彼の子供だと思えば一層、可愛くて、足しげく通っていたから懐いてくれて。家庭を持った彼を傍らで見つめている、そんな片思いを続けることも悪くはないのかもしれないと思い始めていたある日、仲睦まじい夫婦は突然事故死した。

 それからいつしか、彼が亡くなった年齢を超えた自分がすっかりおばさんになって、このまま老いていくのだろうなと思っていた。そんな愛子にとって双子の成長は何よりも楽しみで、中でも父親によく似て来たヒカルが大きくなるのを見ているのは、誰にも言えない密かな楽しみでもあったのだ。

 彼の双子の妹であるミスズは自立して家を出て行ってしまった。

 そして双子が18になった今年、ヒカルに愛を告白された。

 ずっと好きだったと言われ、困惑しつつもついつい受け入れてしまったのだが、正直なところ本当にこれでいいのかと常に迷っているのだ。

 10代の若者がアラフォーのおばさんを相手に本気になるとかあり得ないだろう、と愛子は考える。

 何しろ愛子は彼の実の母親よりも年上なのだ。双子の母親は、現在の双子と同じ年齢で双子を妊娠したのだから。

 若すぎる母親だった彼女は、その事に戸惑う事も無く、周囲のサポートを受け優しいあの人と協力して双子を産み育てていた。それは例えようも無く幸せそうな光景だった。そんな彼らに代わって、双子を育てたいと思ったのだ。

 決して育ちあがったヒカルを目当てに育てたわけではない。本当に、そんなつもりなど無かったのに。

 ご丁寧にプロポーズまでされてしまっては、冗談だろうとはぐらかすわけにも行かず。

 ミスズのいなくなったこの家で現在は二人きりで暮らしている。

 ヒカルいわく、

「新婚みたいで僕とても幸せだな。早く稼げるようになって、アイコには家にいて貰うんだ。それまでの間だけ、がんばろうね。」

 だそうだ。

 愛子は公務員なので辞めるつもりなどはないし、彼が稼げるようになっても彼の収入に頼るつもりはない。

 彼は今も学生で、愛子は変わらず勤めながら主婦をする。

 つまりは、双子の妹がいなくなっただけで、生活そのものには大きな変化はないのだけれど。

 今まで我慢していたのかどうだかは知らないが、同じ屋根の下で暮らす養母であった年上の恋人に甘えること甘えること。

 何より困るのは、10代の少年にはとても体力的に敵わないという事実であった。

 毎日の主婦業と仕事に行っているだけでも大変だと言うのに、プラスで深夜に若い恋人の相手である。

 彼に負けないようにと、仕事終わりにはジムへ通うようにしたけれど、焼け石に水もいいところ、むしろ、逆に負担になっているのかもしれない。

「ちゃんと鍵をかけるのよ。それじゃあ、先に出るわね、行ってきます。」

 低めのパンプスにかかとを押し込んで玄関に立つと、朝シャンを済ませたヒカルがすっ飛んできて出かけようとする愛子の首に手を回した。

「いってらっしゃい、アイコ、気を付けてね。今日も綺麗だよ、愛してる。」

 まさに新婚そのままで甘い言葉を囁いて口の上に軽いキスをする。

「・・・い、行ってきます。わ、私も、よ。」

 照れて恥かしくなりながらも、慣れなくては、と自分に言い聞かせてヒカルのキスを返した。

 彼の濡れた髪が頬に当たって冷たい。シャンプーの匂いが強く香る。

 ドアに鍵をかけながら、大きく息をつく。

 手を振って見送ってくれる息子の笑顔は濡れ髪であっても勿論嬉しい。嬉しいけれど、とてもつもなく照れてしまうし恥かしい。

 顔が火照るのは、その恥ずかしさのせいだ。

 年甲斐も無く照れてしまう自分を叱咤しながら、地下鉄の駅へ足早に向かった。

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