第19話 プロポーズ
入院着に着替えたままベッドに入ると、端末が鳴った。
画面で、手書きの似顔絵がにやりと笑っていて、『おやすみなさい、ママ。良い夢を』と英語で綴られている。ミスズが送ってきたものだろう。
愛子は端末で発信先を特定しようと、サーバーへアクセスする。程なく位置情報が送られてきた。そこはまさしくロンドン市内の自分達の自宅。
彼らを旧市街で見送ってから3時間余り。交通手段を問わなければ戻れない距離ではないけれど。
今朝、資源回収のために電話が来たことを考えると、彼女とアイザックはこの僅かな時間にロンドンとスコットランドを往復したことになる。飛行手段を取れば不可能ではないけれど、そんなことをする意味がわからないのだ。
勿論、助けられたことには感謝している。
確かにミスズは彼女の実の母親譲りでスポーツ万能だけれど、大の男を一撃で叩きのめすような技をどこで習得したのだろう。後ろ手にして引き倒し、うつ伏せの男の腕を捻り上げていたあの時の手際は、明らかに修練したものだったように思える。
そして、一緒にいたアイザック。ミスズのボーイフレンドの一人だという認識しかなかった無口な少年も、ミスズと同様の技を会得しているように見えたのだ。
ノックの音がして、返事も待たずにヒカルがドアを開いた。
彼は入院着を脱いで私服に戻っている。ドアからまっすぐに愛子の元へ歩み寄って来た息子は、ベッドに腰を下ろした。
「怖い思いをしたね、アイコ。・・・守ってやれなくてごめん。情けないよね。」
眉根を寄せて見せるヒカルの手が、優しく愛子の頬に触れた。
「そんなこと!貴方にも怪我がなくてよかったわ。私こそ役に立たなくて」
触れた手に、自分の手を重ねる。白くて大きくて骨ばった手だ。なんとなく複雑そうな表情なのは、妹に助けを求めたことを恥ずかしいと思っているからだろう。
「貴方はどうしてミスズが来てくれるって思ったの。どうして助けてくれるって思ったの?」
「ミスズはアーサー様が大好きだから・・・、でもってアイコの事も大好きだからね。」
「それだけじゃわからないわ。あの子は自宅で留守番するって言っていたじゃない。どうしてここに来たの。」
苦笑したヒカルが、そっと唇を目の前の人の頬に付ける。
そう言えば、昨夜あんなことやこんなことを散々やらかしてしまったが、今後どうしようかと言う方針については一切話し合っていないことを今更ながら思い出す。ミスズに合わせる顔がないと思いながらも、今夜助けられた時にはそんなことを考える余裕がなかった。
ヒカルの右手がおもむろにポケットに入った。中々出てこない右手に何があるのか気になって、その手先を凝視する。
望みの物を見つけたのか、僅かに安堵の表情を見せた彼はポケットから手を出した。小さなものらしく、握られた手を見ているだけではそれがなんなのかわからなかった。
黙って見ていると、彼は少しだけ照れたように笑う。
「・・・どうしたの?」
「いや、照れるなって」
「何が?」
躊躇いがちに愛子の左手を握ったヒカルは、薬指に小さな輪を素早くはめた。
「ヒカル・・・!」
その意味するところの重さに、怯んでしまう。
まだ18歳の少年が、生涯の伴侶を今ここで決めようとしているなんて。
アラフォーの自分が彼の未来を束縛するわけにはいかないのに。
「ごめんね、高いのは買ってやれない。でも、二十歳になったらもう一度ちゃんと求婚するから。その時には、もっといい奴を買うから。」
恥かしそうにそう言って何度も愛子の指を撫でる。
そうではない。指輪の値段なんてどうでもいいのだ。問題はそんな所にあるのではない。
「ちょっと待って。ねぇ、昨夜の事は忘れてもいいのよ?何もなかったことにして。貴方にはもっと若い」
「忘れられるもんか。昨夜はあんなにも素敵な夜だったのに、貴方は忘れられるって言うの?そんなに浅いもんだった?もっと深く貴方に刻み付けなくちゃ駄目?」
相手の意見を遮って自分の主張を通すヒカルが両手で愛子の手を握った。
勘弁してほしい。あれ以上深くってどういうことだ。
彼の倍近く生きている彼女にとって、昨夜の経験は最初で最後と言っていいほど鮮烈なものだった。当然忘れられるような出来事ではない。
しかしそれは愛子にとっての話だ。彼女の人生はもう半ば終わっているも同然なのだ。これからを生きなくてはいけないヒカルとは全然違う。そんな愛子とヒカルが同じ道を歩むことなど出来るはずがない。
昨夜は、身動き取れなくなるほど愛された。ヒカルの思いはよくわかったつもりだ。
確かに彼は愛子を異性として愛してくれている。今は。
けれどこの先もずっと、というわけには行かないだろう。
それに、よくよく考えてみれば昨夜の事は下手をすると犯罪になってしまう。年増女が少年を不純異性交遊にたらしこんだことになってしまうではないか。でる所に出れば、愛子は捕まってしまうかもしれない。しかもまずい事に養子を相手に、だ。罪状は一層重くなるだろう。
「今はそうかもしれないけど、時間が経ったら貴方の気持ちが変わるかもしれないでしょう。軽はずみにプロポーズとかしちゃ駄目よ。」
「軽はずみじゃない!!何度言ったらわかるのさ!?十年以上も片思いしてるんだって、言ってるじゃないか!」
それは、多分恋愛感情ではないと思うのだ。
愛子が彼の父親の焦がれたようなそれとはきっと違う。
報われない片思いの彼女を見て同情したのかもしれない。あるいは、育ててくれたことに恩を感じているのかもしれない。ずっと一緒にいるから好きになってしまったのかもしれない。
だがそれは、恋ではなく別物なのだと思う。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます