第18話 養子たち
ショルダーバッグが地面に落ちた硬い音が聞こえた。よかった、中身は出ていなそう。
首を絞める腕の力が緩んだ気がして、前のめりに倒れる。そのまま這うようにしてショルダーバッグを攫んだ。
ボロ雑巾を裂くような男の悲鳴と、硬いものが折れるような嫌な音が同時に聞こえ、振り返る。
「大丈夫?ママ」
「ミスズ」
路地の石畳の上に這いつくばった髭の男が、ひぃひぃと泣きそうな声を立てていた。さっきまで私の首を絞めていた毛深い右腕が、なんだかおかしな方向を向いている。その背を足蹴にして立っていたのは、ヒカルの双子の妹であるミスズだった。
ライオンの鬣のような金茶の髪が宵闇に浮き立つ。男の左手首をしっかりと握って、男が少しでも逃げようとするとぎりりと捻った。
跪いていた愛子を覆いかぶさるように抱きかかえるヒカルが、低く呟く。
「アイコ、大丈夫だった?」
「あなたこそ、大丈夫なのヒカル?」
反対側を向くと、茶色の髪の若い男が、ミスズとまるきり同じポーズでヒカルの背後にいた男を踏みしめていた。
「アイザック・・・」
母親を抱いたまま、ヒカルが端末をいじり始める。多分警察に連絡してくれているのだろう。
「アーサー様の方が警察より速いでしょ、ヒカル。」
双子の兄に向ってそう告げると、ミスズはもう一度きつめに男の右腕を捻った。ぎえぇと男が呻く。
「護衛のサムが来てくれるそうだ。」
「そう。なら安心ね。」
ゆっくりと母の肩に手を回したヒカルが、
「立てる?アイコ。凄く顔色が悪いよ?」
耳元で尋ねるので、愛子は正直に言った。
「・・・その男、体臭がきつくて・・・普通の匂いじゃないわ。変な薬かなんかやってる匂いよ。」
すると、ヒカルがミスズの方を見る。
「確かに、匂うけど・・・アイク、わかる?」
アイクはアイザックの愛称だ。ミスズの質問に、茶色の髪のイケメンは軽く頷いた。
息子の腕を借りながら立ち上がると、サイレンの音が聞こえる。大通りの方に何台かパトカーが停まった。赤や青のランプが路地の隙間から眩しいくらいに照り付ける。
大柄な男性がパトカーを飛び出してくるのが見えた。ヒカルの言っていた、侯爵様の護衛係のサムという人だろうか。
「ミズ・ハギワラ!大丈夫ですか?」
見覚えのある顔だ。ホテルのラウンジで、アーサー様の背後の席に座っていたSPの一人。軽く手を上げて彼に無事を伝える。
「ヒカル様、ミスズ様、お怪我はございませんか?」
可愛い双子はどちらも首を横に振った。
制服の警官が5人程この場へ辿り着いた時、アイクがようやく踏みつぶしている男の背から足を下ろす。警官の耳元で、ぼそぼそと低い声で何事かを告げていた。
警官はアイクとサムの顔をを交互に見て、重々しく頷く。警官が地面に這いつくばっていた男二人をパトカーに連行した後に、一人だけ戻って来た。
「被害者の方は念のため病院で精密検査を」
「そうだね、それがいい。アイコ、一緒に行こう。事情聴取もあるから。」
「え、ええ。それはいいけど」
自分はとにかく何故ここにミスズがいるのかを知りたい。なので、促されても躊躇してしまう。
「後で会おうね、ママ。ウィスキー堪能したんだって?後でアタシにも飲ませてよね。」
ヒカルに引っ張られる私の頬に、まるで風のように素早くキスをすると。
ミスズはアイクを連れてそのまま旧市街の路地裏へ消えてしまった。
髭の男は確かに薬を服用していたらしい。
それもありふれた麻薬のようなものではなく、最近になって出回るようになった新種だ、と警察官のオジサンが教えてくれた。
欧州では、国や場所によっては、そして薬の種類によっては合法とされることもあるが、この新種を合法として扱う場所は世界中どこを探しても無いのだと言う。
そんな話を聞いて顔色を変えずにはいられないが、とりあえずヒカルもミスズもアイクも無事だったから良しとしよう。
アーサー様からも連絡がきた。画面に映った侯爵様の顔にはひっかき傷が見えたので、笑いをこらえるのに苦労した。自他ともに認める俳優張りのイケメンの顔をこんなふうに扱うのは、奥様のアンジェリカ様だけだ。
「すまなかったな、巻き添えを食わせて。」
「侯爵様が悪いわけじゃありませんわ。」
「しばらくはアイコの家にも護衛を付けるように手配するよ。心配だ。」
「そうですか?・・・わかりました。仰る通りに。」
ティル侯爵家は有名過ぎる貴族で、広大な領地と莫大な財産を持ち、いくつもの会社を運営する複合企業でもある。誘拐犯のターゲットにされるのは今に始まった事ではない。
だから、愛子は養子にしてすぐ双子を自分と同じハギワラ性に変更したのだ。
「精密検査に異常は見られなかったのか?」
「ええ、なんともありませんでしたわ。お気遣い感謝いたします。・・・それよりアーサー様、ミスズが」
双子の娘の名前を出した途端、侯爵様は片方の眉を上げる。
「後で、事情を話すから、とりあえず今夜は警察病院に泊まってくれ。今スコットランド内で最も安全なベッドだからな。」
「でも」
「大丈夫だって。心配なら電話してみな?大丈夫だから。それじゃあまた明日、病院まで迎えの車を出すからな。」
「・・・わかりました。」
腑に落ちないけれど、それ以上は何を聞いても無駄だ。アーサー様は自分に話してくれる気が無いのだから。
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