第20話 お返しに

 息子だと思っていた少年を自分の伴侶とするなんて、四十路を目の前にした愛子にはとても考えられなかった。

 彼女の言葉を聞いたヒカルは、怒りをすり抜けて悲しそうな表情になっている。

 そんな顔をみるのは愛子だって辛いけれど、仕方のないことだ。彼の申し出を受けるなんて無茶は簡単に出来ない。ヒカル自身にとってだって、今は良くてもいずれ後悔するときが来るだろう。その頃になってやはり駄目だと言われるほうが、自分にとっても彼にとっても大きな打撃だ。

「ヒカル、よく考えて。貴方の人生はこれからなのよ?これまでの私を選んだりしたら一生後悔するわ。」

「ひどいよ、アイコ。・・・いつまでも僕を子ども扱いして。」

 握っていた手をさっと引き立ち上がったヒカルは、そのまま振り返りもせず病室を出て行ってしまった。

 愛子の手に銀色の輪を残したまま。

 彼が怒るのは無理も無い事だと思う。

 ヒカルにしてみれば思い詰めた挙句のプロポーズだったのだ。きっと勇気を振り絞って来てくれたのだろうに、彼の期待する返事はおろか、納得のいく返事もしてやれなかった。

 左手の薬指にはめられた銀の光をしげしげと見つめる。

 ここにリングをはめる日が来るなんて思ってもみなかった。この手に指輪が送られる日は生涯ないだろうと思っていた。

 嬉しくないわけがない。

 値段なんか本当にどうでもいいのだ。送ってもらった事に、大きな意味がある。

 右手で何度もその冷たい金属に触れては、その感触に浸る。

 たくさんの小遣いを上げられる家庭ではなかった。だから、きっとこれを買うのだってヒカルにとっては大きな出費なのだ。彼が小銭をコツコツ貯めて、アクセサリー店へ足を運んでいたのかと思うと、なんだか微笑ましい。

 そして、その行動が自分のためだと思うと、心のときめきとか胸がキュンとするとか、そう言うのが胸に蘇ってくる。なんて甘くて懐かしい思いだろう。

 嬉しくてあたたかくて自然に顔が笑ってしまうのだ。

 身体の限界まで求められたことも、女冥利に尽きること言えなくもない。まあ、若さゆえのアレだろうけど、その対象が自分であったことは消えてなくなりそうだった女としても自尊心が満足する。まだ相手が学生とは言え、指輪を贈られたという事実に喜びを禁じ得ないのだ。

 はずして返さなくてはいけないと思いながらも、その銀色の光に何度でも見入ってしまった。

 もう自分自身の方が駄目なのだな、と思う。

 一刻も早くヒカルを手放さなくてはいけない。傍に居てはいけないのだ。ヒカルのためにも、自分のためにも、一緒にいてはいけない。

 ロンドンに戻ったら、彼らが自立できるように部屋を探してやらなくては。また、大きな出費を見積もらなくてはならないと思うと、気が重くなるけれど。

 親離れ子離れの時期が来たのだ。



 翌朝、侯爵様が手配した車が警察病院に迎え来たので、ヒカルと一緒に乗りこんだ。

 運転してくれているのは、昨日も来てくれたアーサー様の護衛であるサムだ。大柄な彼は見た目も頼もしい。

「お帰りの列車は何時ですか?」

「正午初の特別列車です。」

「そうですか。アーサー様が少しお時間を頂きたいと。それからでも間に合いますよね。」

「わかりました。」

 せっかくの観光もエディンバラ城の見学しかできなかったけれど、もうしょうがない。また機会があったら来られることもあるだろう。その時はもうヒカルは一緒ではないだろうけれど。

 ヒカルはまだ怒っているのか、朝から一言も口をきいてくれなかった。

 半ば予想していたので、愛子は苦笑するだけにしたけれど、サムが気まずい雰囲気を察したのか、やけにに声をかけてくる。

「昨夜はよくお休みになれましたか?」

「ええ、侯爵様のお計らいで、警察とは思えない立派な個室病棟をご用意していただけたので。」

「その後お体の方に問題は無く?」

「問題ないわ。ありがとう、サム。大丈夫よ。」

「ヒカル様はいかがでしたか?」

 一呼吸おいて、ヒカルは渋々口を開いた。不機嫌の理由にまったく関わりないサムに当たっても仕方がないとおもったのだろう。

「うん、快適だった。叔父さんにお礼を言わなくちゃね。」

 ようやく重い口を開いた彼に安心したのか、サムはミラーの中でにっこりと笑う。



  ハワード・レジデンスに到着したのは、それから間もなくの事だった。

 慌ててフロントに行き客室へ入れてもらうよう頼むと、快くボーイが案内してくれる。どうやら侯爵様が事情を話してくれていたらしい。

 ヒカルと共に部屋へ入って慌てて荷づくりをする。スーツケースに衣類を押し込み蓋を閉めた。忘れ物が無いように、部屋中を歩き回って隅々まで確認する。

 パウダールームやバスルームはすでに掃除されていた。ダブルベッドもすでにベッドメイクが完了している。

 一昨日の晩にここであったことを思い出すと顔が熱くなる。ヒカルと眠ることさえ惜しんで抱き合った濃密すぎる時間はもう過去の事だ。

 あんなことは二度とないだろう。あってはならない。

 相変わらず黙ったままのヒカルは黙々と自分の荷造りをしていた。

 指輪を返すタイミングが計れない。ロンドンに戻る前に返さなければいけないのに、彼は愛子が声を掛けようとすると向こうを向いてしまって取り付く島もない。

 いっそ彼の荷物の中に紛れ込ませてしまおうかとさえ思ったが、それは随分と失礼な気がして出来なかった。


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