襲い来る巨獣人との乱闘

 ――時間は、少しだけ遡る。


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族長オサよ。ガラバミッダだ。話がある」


 コラテラ大森林を棲息範囲とする獣人部族の中で、最も縄張りが広く、最も数が多く、最も好戦的なのはアールゥバイ族だ。

 彼らはコラテラ大森林の東側にある窪地に、切り倒した木々と狩りで得た獣の皮を貼り合わせて建てられた簡素な住居を寝床にして集落を築いている。その住居のほとんどは、人族の美的感覚からすれば倒壊寸前のあばら屋か、枯れ木を積み上げただけのゴミ置き場にしか見えない。

 しかし集落の中心には、ひときわ大きな木材と、苦草と泥を混ぜた土壁で囲われた平屋があった。獣人部族の風習では太い木材を使って住居を建てられるのは、権力者である証だ。入り口の見えるところだけでも、多種多様な獣の頭骨――無論、人骨も含めて――で装飾された幹の太い丸太が屹立する姿は、威圧感とともに家の主である族長が、部族でどれだけの力を有しているかが容易に想像できる。

 集落の中でも最も大きい家の奥で、部族の戦士階級に属するガラバミッダ――彼らの言葉で『まぐわう二匹の犬』を意味する名を持った雄獣人は、大鹿のなめし革で作られたカーテンの前にひれ伏し、中にいるであろう族長へ入室の許可を求めた。


「入るがいい。戦士ガラバミッダ」


 しわがれた声に差し許され、戦士ガラバミッダは獣革のカーテンを持ち上げ、奥の間へと入る。部屋に充満した甘ったるい香の臭気が、彼の犬めいて伸びた鼻先マズルに触れた。食欲のそそられる臭いだが、彼は頭を振り払った。この奥の間で、そのような欲望に取り憑かれるのは、祭壇に祀られた救い主様への無礼にあたる。

 祭壇に座するは、何かを抱きしめるような形で鹸化した、魔導師風のローブを纏った人族の屍。いわゆる屍蝋と呼ばれる腐敗しない死体ミイラだった。

 族長から伝え聞いたことが真実ならば、二百年前、彼らの部族に知恵を授けたという人族の女魔導師の屍だという。

 戦士ガラバミッダの名付け親でもある族長テフテウテグヌ――彼らの言葉で『ミミズにひっかけた小便』を意味する――は、ガラバミッダに背を見せたまま、奥の間に設置された大祭壇に向かって床に額を擦り付けていた。

 五体投地。かの救い主とともに、この地を訪れた異世界の民が部族に伝えた最大の感謝と帰依を表す方法である。この奥の間で、祭壇に祀られた彼女に己の醜い顔を見せることは不敬にあたるため、ガラバミッダも族長にならい、五体投地にて深々と土下座した。


「何用だ。戦士ガラバミッダ?」


 祭壇に土下座したまま問う族長にガラバミッダも土下座の姿勢のまま答えた。


「縄張りの西の端、人族を二匹発見しました。動き回っているのはオス。メスは負傷しているのか、今は寝ているようです」

「……戦士ガラバミッダ。部族の勇者たるオヌシが、かような報せを我に伝えに来るとは――そやつら、ただの人族ではないのだな?」

「微かだが風に乗って魔石の臭いがした、と斥候『両手で擦るものンテポツコツコ』が言っている。奴の鼻は部族の中で最も鋭い。奴に嗅ぎ分けられぬ臭いはない」

「なんと! ならば、手がかりか?」


 族長が驚いたように身を震わせた。お互いに祭壇を向いて土下座しているので、表情までは分からないが、歓喜に打ち震えているのは声の震えからガラバミッダにも推測が出来た。

 ガラバミッダは言った。


「いや分からぬ。だが喰えば分かる。そうやって我らは知恵と力を蓄えてきた」


 獣人部族とは『人喰いマンイーター腐肉喰らいスカベンジャーの悍ましき同族喰いカニバル』という人族の認識は正しい一方、彼らの同族喰いが肉体的な餓えから発生したモノではないと知る人間は、もはやいない。

 唯一、そのことを知る人間は、祭壇の上で物言わぬ屍になっている。

 獣人部族にとって食事は知恵と能力の継承だ。強き者の手足を喰らえば手足の筋肉が増え、賢き者の頭を喰らえば賢き知恵が湧いてくる。そうやって獣人部族は強き力と知恵を継いでいった。ガラバミッダもまた、今までに同族の戦士と祭祀を合わせて八人、別部族の戦士を三十五人、森に迷い込んだ冒険者を四人、南の人族の都市から攻めてきた兵士を九人喰らって今の強さを得た。


「しかし、魔石の使い手ならば苦戦を強いられよう」

「分かっている。だから私を含めて二十名の戦士階級を連れて行く。念のため『肉離れの悪い豚ジョヂイウェ』『気短な骨なしウナギンーロタソツェ』『包まれた槍の穂先ゲケッホティウイ』の3名も連れて行こうと思っている」


 ガラバミッダが挙げた三つの名は、同族の中でも人喰いと同族喰いを繰り返した結果、倍以上の体躯を得た巨獣人たちだ。巨躯ゆえに単純な腕力ではガラバミッダをも超えるが、巨大すぎる身体は大森林の中での狩りには向かない。戦うことは出来ても狩りの出来ないオスの地位は奴隷と変わらない低い位置にある。部族の掟によって定められた階級と地位は絶対だ。戦士階級の頂点にいるガラバミッダの命ならば、彼らは喜んで戦いに向かうだろう。


「ふむ……あの図体のデカい三人か。よかろう。やつらには出立前に下級祭祀を喰らわせよ。あの三人でも祭祀の頭を喰えば、多少は頭を働かせるようになろう」

「ありがとうございます、族長。すぐに三人には下級祭祀を喰わせ、夜を待って襲撃を仕掛けます」


 ガラバミッダは上半身を起こして祭壇に向かって合掌し、高く高く唱えた。


「おお、祖霊導きし救い手よ! 勇者の右腕よ! ふがいなき我らを赦し、我らに加護を与えたまえ! 必ずや……愚か者より貴女の愛を取り戻して参りましょう!」


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「ネンギン! ウイスヌエ、ヌル、カラソ! カラソ!」


 前に飛び出したエイハブを迎え撃つように、角鹿の頭骨を兜にした巨獣人が地響きを鳴らして突進した。手斧と言うには大きすぎる石斧を振りかぶり、真っ正面から突っ込んでくるエイハブの脳天めがけて振り下ろす。

 その石刃の勢いは、下手に当たれば即座に肉塊が出来上がることを容易に想像させる。しかし紙一重。エイハブは身を捻って斜め前に跳び込んで、巨獣人の打ち下ろしの一撃を避けた。

 木の根を含んだ土が水しぶきのごとく真上に爆ぜ散り、転がって着地の衝撃を殺したエイハブの上に降りかかるが気にもとめず、彼は低い姿勢のまま巨獣人の股下を潜り抜け――ようとしたが、鈍重な見た目に反した機敏な動きで、角鹿兜の巨獣人は前に向かって跳躍した。

 足下に飛び込まれ、足首を斬られると察して避けたのだろうか。

 いや、違う。これは罠だ。

 エイハブの目の前には、別の巨獣人――こちらは人間と思しき頭蓋骨をネックレスのように巻いている――が振り払った横薙ぎの石斧が迫っていた。


「身の丈の割に知恵つけてんじゃねえよッ!」


 エイハブが怒鳴りつけながらジャケット裏のホルダーから短剣を引き抜いた。銀色の短剣は瞬く間に、幅広の板斧剣プランク・アックスへと変化し、雑草を刈り取るように繰り出された石斧の薙ぎ払いを受け止める。


「――くっ!」


 暴走する駅馬車ライナーにでも追突されたかのような衝撃がエイハブの全身を襲った。その巨体に見合った膂力。破壊力とは『武器を握る力』と『武器の振りの速さ』と『使い手の体重』の乗算で成り立つと言った剣士がいたが、この巨獣人の一撃は、その体現と言っても過言ではない。板斧剣プランク・アックスが折れる事はなかったが、足を踏ん張っていたにもかかわらず、勢いを殺せずにエイハブの身体が三歩分ほど押されている。

 腕力で石斧を押し込みながら、頭骨首飾りの巨獣人が、耳に入れて鼓膜を振るわすのも憚られる言語で怒鳴った。


「ゲケッホティウイ! ヨヅン、ソロヌ!」

「ネンギン! ユロヌ! カラソ!」

「ジョヂイウェ! ネンギン、ナ、アンヌ! スケネ、カラシ!」

「――マズいっ!」


 三匹目の巨獣人が逃げたマリィの方へ向かって踏み出した。エイハブは板斧剣プランク・アックスごと蹴り上げて石斧を押し返し、板斧剣プランク・アックスから長剣に変化させてマリィを追いすがる巨獣人へと身を翻す。だが、それは上から飛びかかってきた角鹿兜の巨獣人が許さない。

 再びエイハブの脳天に向かって振り下ろされた石斧を、彼は板斧剣プランク・アックスよりも細い長剣で受け止めるのではなく、剣を斜めに傾けて受け流した。火花を散らして剣の腹を石斧が滑り落ち、地面が石斧の勢いと重量に負けて吹き飛ぶ。エイハブは石斧が地面に当たった瞬間に手首を返し、伸びきった巨獣人の右手首に長剣を叩き込んだ。

 防具を全身につけていても――金属鎧でも同じ事だが――関節部分は、動きやすさを重視するために装甲が薄くなる。

 特に獣人たちのように骨を蔓草で縛っただけの、粗末な防具ならば、なおのこと。関節部分は剥き出しだ。

 しかし、刃を当てれば肉は容易く切り裂けるとは言え、手首の返しだけで、人間の胴ほどある巨獣人の太い手首を斬り飛ばせるほど甘くはない。長剣は巨獣人の手首に食い込むも、両断するまでは行かず、半ばで止まっていた。

 だが十分だ。エイハブは長剣を引き抜いた。

 長剣の刃が骨を擦って肉を削ぐ音が伝わり、角鹿兜の巨獣人が苦鳴を上げた。見た目は人族から掛け離れているが、中の構造は似ているらしい。月と星の明かりの中、角鹿兜の巨獣人は石斧を取り落とし、赤紫色の体液を噴き出す手首を押さえて後ろに仰け反った。その赤く燃える瞳は、今まで襲ってきた獣人たちの中で最もエイハブを憎み、怒り、恐怖し、殺意に溢れていた。手負いの獣そのものの雄叫びを上げ、角鹿兜が土を蹴り上げた。

 目くらましのつもりだろうが、その程度の小細工はエイハブには通用しない。蹴り上げられた土塊よりも低い姿勢で飛び出すと、巨獣人の軸足の膝を駆け抜けざまに断ち斬った。

 バランスを崩して角鹿兜が背中から倒れる。トドメを刺すまでもないと判断したエイハブはマリィを逃がした方へ向き直るが、頭骨首飾りの巨獣人が行く手を阻む。


「ネンギン! カラソ! カラソ!」

「『ネンギン』だか『粘菌』だか『インゲン』だか知らねえが……邪魔してんじゃねえぞ、ケダモノ野郎ども。こっちは高い酒が入ったスキットルを台無しにされて、それでも話し合いで解決しようって歩み寄ったんだ。その対応がこれか。テメエら絶滅する覚悟出来てんだろうな、アァ?」


 今の今まで押さえていた殺気を解き放ち、エイハブは剣を構え直した。これが気の弱い人間なら悲鳴を上げて座り込んで失禁しかねないほどの圧力だが、獣人は違うらしい。むしろ喜悦とばかりに天を仰いで雄叫びを震わせると、頭骨首飾りの巨獣人は角鹿兜が落とした石斧を拾い上げ、左手で構えた。石斧の二刀流だ。


「カラソォォォォォォォッ!!!!!!」


 巨獣人が咆哮を放ち、暴風めいた勢いで左右の石斧を振り回した。エイハブは跳び退きつつ、身体に当たりそうな攻撃だけを狙って長剣で受け流す。

 軌道を逸らされた石斧は木々を薙ぎ倒し、凄まじい轟音をたてて森の中へと倒れてゆく。巨獣人はイノシシが牙で土を掘り返すがごとく、足下に転がってきた折れた樹木を二本の石斧の背に引っかけ、エイハブ目がけて投げ飛ばした。これを受け流すには、流石にモノが大きすぎる。エイハブは長剣をダガーに変形させて大きく真横に跳んだ。


(何とかして嬢ちゃんのところに向かいたいところだが――っと!)


 二本目の倒木が投げつけられ、エイハブは思考を中断して跳び避ける。巨獣人がなりふり構っていないように、こちらも全力を出さねばならないようだ。


(……ったく、こんな連中に使うような『切り札』じゃないんだが――ま、そうも言ってらんねえかッ!)


 胸中で吐いた悪態を笑い飛ばしながら、黒ずくめの傭兵エイハブ・ロウはダガーを握った右手を左胸に当てて、大きく息を吸い込んだ。

 

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「ひゃあああああッ!? なんで、なんで、こっちに来てんのぉぉぉぉッ!?」

「ネンギン! ウイシ! ネンギン、オヂ、ウイシ!」


 酒精の回った頭と身体で、片手で持つには決して軽くはない背負い袋を左手で抱えたまま怪物に追われて走るなんて、自分は前世でどれほどの悪行を重ねたとでも言うのだろうか。王都の学院にいた頃、馬車に轢かれて死んだ女の子が異界に転生して前世の魔法の知識で大活躍する三文小説を読んだことがあったが、あの主人公だってここまで酷い目には遭ってなかったと思う。

 思い返せば、あの小説は全体的に粗筋プロットが甘く、ご都合主義的な展開も少なくなかった。

 ――が、少女のピンチに颯爽と助けが入る、というのはあり得なくは無いのだと、身をもって体験したマリィだからこそ、今再び運良く流浪の傭兵が通りかかって巨獣人を倒してくれる、などという誰か作者の都合で起きる奇跡はないと、理性も感情も十二分に理解している。自分の生命を救うのは、自分の他に無い。

 息を切らせて走るマリィの背に、血走った目で追いすがる巨獣人が石斧を振り下ろす。マリィは右腕の痛みも忘れて転がるように前に飛び込んだ。いや、実際転がった。本来なら両手をついて着地の衝撃を抑えるのだが、折れた片腕と荷物を持った左腕では勢いを殺しきれない。マリィは左肩に走った痛みを堪えながら素早く起き上がり、胃液がせり上がってくるのも堪えて走り出す。


(引っかかれ――ッ!)


 背後には視線もくれず、頭を大きく右に振って、右方向に行くように見せかけてから身体だけで左に跳ぶ。巨獣人の足音が一瞬――ほんの一瞬だけ止まり、苛立ちを含んだ足音に変わった。フェイントは成功だ。半歩分でも距離を稼げれば生き残るチャンスはある。逃走する時のテクニックを教えてくれたアンバーに感謝し、マリィは背負い袋を握る力を強めた。

 エイハブのいるであろう方角から遠雷にも似た破砕音と振動が聞こえてくる。獣じみた咆哮は、残りの巨獣人があげたものだろう。戦闘が続いているのは明らかだ。


(あっちの戦闘が終わるまで、私だけで何とか生き延びるしか道は無いッ!)


 戦術魔導スペルスクリプトの使えない戦術魔導師が取れる選択肢など多くはない。マリィは足下の突き出た根を飛び越えながら、巨木の間を縫うように走った。あの巨体だ。マリィのような小柄な相手を、障害物の多い森の中で追うのは難しいはずだ。巨獣人には通れない木々の狭間も、マリィならば通り抜けられる。


「ネンギンンンンンンン!!!! ダガダァァァァァ――――――ッ!!!!!!!!」


 マリィを追っていた巨獣人が、荒れ狂う闘牛めいた雄叫びを森に響かせる。こちらを見失った怒りなのか、踏みならす足音が地団駄に変わった。

 見失ってくれたのなら好都合だ。既にマリィの肺は限界で、息は上がりきっている。足も鉛のように重さを感じている。倒木と岩によって出来た隙間に身を隠し、マリィは呼気が獣人に聞こえぬよう口元を手で押さえながら短く息を吐いた。


(ははっ、なんか、ここ最近、隠れてばっかりだなぁ……)


 自嘲気味に笑うが、ぶり返した右腕の痛みにマリィは顔をしかめた。骨折の治療で重要なのは固定と安静だ、と冒険者になってからアンバーに教わったが、今の状況では固定は出来ても安静は無理だろう。

 折れた骨が異常な形で癒着すると、戦術魔導の治療でも治すのが難しいというのは、よく聞いた話だ。肉体の最適化処置リハビリテーションを受けたとしても、日常生活はともかく、まともに武器を握ることも出来なくなる。そのため骨折の治療に失敗した冒険者は、ランクを落とすか引退するかの二択を迫られる。駆け出し冒険者のマリィは、戦術魔導師でなければ引退の一択だった。


(……痛いのが何だ。まだ死んでない)


 なんとしてでも生き延びる。

 駆け出し冒険者の戦術魔導師マリィ・サリィ・レイニィではなく、ただのマリィ・サリィ・レイニィにとっての夢の為に、こんな森の中で死んでたまるものか。

 息を整える為に防灰マスクを被ろうとしたマリィは、今更ながら、いつの間にかマスクを無くしていることに気付いた。赤砂平原で気絶した際に落としてきたのだろうか。無事にエスカロンに着いたら新しいのを買わねばならないことに、マリィは愕然と肩を落とした。治療費でさえ捻出する目処が立たないのに、装備品だって揃え直しを余儀なくされるのでは債務者へのジョブチェンジは待ったなしである。

 だが、それ以上に――


(この森、『灰』アッシュの影響が少なくて助かった……)


 四方を背の高い木々に囲まれた森だからこそ、赤砂平原や街中とは違う土や枝葉の生きた湿り気を含んだ空気をゆっくりと肺に満たし、マリィは呼吸を整えた。この空気に、あの『灰』アッシュ独特の粉っぽさは微塵も感じられない。

 この大陸に煙を吹き出す活火山は無いにもかかわらず、空から舞い落ちる綿雪のような『灰』アッシュは、二百年以上前から不治の病として知られる肺病の原因だ。それ故、『灰』アッシュの影響が濃い土地では、防灰マスク無しでの活動は寿命を縮めるだけでしかない。

 そして、この大陸に『灰』アッシュの降らない場所は無い。この森のように地域によって降灰量に差はあるだろうが、どこに行ってもあの忌々しい、『灰』アッシュは必ず空からふわりと落ちてくる。赤砂平原も、城塞都市も、王都の学院も、生まれ故郷でも。


 ――ふわり。


「あ――っ!?」


 油断していた。大陸のどこにでも『灰』アッシュは降るのだ。例外なんてない。影響が少ないだけで、この森だって『灰』アッシュは降り積もる。マリィは思わず声を上げ、声を出したのが致命的な失敗だと気付きながらも、慌てて鼻と口元を手で覆った。

 まるで彼女が油断するタイミングを計っていたかのように、岩と倒木の隙間に身を隠したマリィの目の前を、風に吹き上げられた一片ひとひらの花びらが舞うがごとく、白い『灰』アッシュが、ゆったりとした速度で落ちてゆく。

 その重さを感じさせない『灰』アッシュはマリィの足下に落ち、地面の湿気を吸って黒く変色した。

 声を出したのを後悔し、マリィは隠れていた隙間から急いで飛び出した。

 直後、倒木が爆散した。巨獣人が渾身の力で石斧を叩きつけたのだ。石斧は勢い余って岩へとぶつかり、甲高い音を立ててオレンジ色の火花を散らした。


「ネンギン!!!! モトキテ!!!! ネギロヌゥゥゥゥ――――ッ!!!!!!!!」


 激しく肩を上下に動かして、不快な口臭で汚染された息を喘ぎながら巨獣人はマリィの姿を見つけると、石斧を掲げて倒木の破片を蹴り飛ばして突進する。

 マリィの背後、ほんの一歩後ろを横薙ぎの暴風が通過した。突然の風圧にマリィの身体は前に押し出されてしまい、前のめりにバランスを崩した。

 転ぶ――ほとんど斜めになった視界に、直感が警鐘を鳴らす。この転倒はマズい。追いつかれる。追いつかれたら、あの突風の餌食だ。


(動け、動け動け! 動いてよ! 動かないと私死んじゃうっての! 動けってんだよ、この左脚ポンコツ――――ッ!!)


 暴風の正体が石斧だと振り向かなくとも理解し、マリィは疲れ切った脚を死に物狂いで叱咤する。股関節と、それに繋がる筋が悲鳴を上げるがマリィはそれを黙殺する。出遅れた左脚を無理矢理に動かして地面を蹴りつけ、転倒を免れた。

 ――が、間に合わなかった。


「がは――――ッ!?」


 マリィの背中に何かが衝突した。

 巨獣人が振り戻した石斧の峰が直撃したのだ。刃先では無いため肉に食い込むまでは行かなかったが、肋骨の何本かが折れたかもしれない。風圧とは比べものにならない強い衝撃に、マリィの身体は赤子に投げ捨てられたボールのように地面を跳ね転がり、巨木の根元に右腕から叩きつけられるまで止まらなかった。


「ぁ……が――ぁ――――――ッッ!!!!!!」


 言葉にならない痛みに視界が白く染まる。頭を打ちつけた際に皮膚が裂け、流れ出した血が入り込み、右目を開けていられない。

 息苦しい。大きく息を吸い込めない。全速力で走ったのと、先ほど折れた肋骨が肺を圧迫しているのだろう。立ち上がって走ろうにも、無理に踏ん張ったせいか、足が言うことを聞いてくれない。

 左手で握っていた背負い袋は転がった時の衝撃でひもが解け、中の荷物がボロボロとこぼれ落ちている。

 がしゃん、とあの鉄製のガントレットがマリィの目の前に転がり落ちた。


(まずいよ。まずいってば……このままじゃ――)


 足音を響かせて巨獣人が近寄ってくる。その絶望的な光景に、何故かマリィは苦々しい笑みを浮かべていた。恐怖から気が狂ったわけではない。幸か不幸か、右腕の痛みが彼女の理性をつなぎ止めていた。

 マリィは努めて冷静なまま、今の状況を自嘲した。


(あはっ、何よこれ。これじゃあ、まるで数日前の焼き直しじゃない)


 目の前に落ちたガントレットが、まるで走馬灯のように記憶を触発する。

 鉄の魔石で作られたガントレット。

 ブート&ガントレット盗賊団に追い回されて嘔吐しながら逃げ回ってた自分は、運良く通りがかったエイハブに助けられたが、その結果がこれだ。こんな森の中でバケモノに喰われて死ぬのかと思うと情けなくて笑えてくる。あの時、盗賊団に犯されて殺されるのと、巨獣人に喰われて死ぬのは、どっちがマシなのか。


(どっちもどっちだっての……せめて、あの巨獣人が一息に喰ってくれるなら、痛くなくて良いのかな……)


 血と涙と諦めで歪む視界で、マリィは見てしまった。

 月明かりに照らされた巨獣人の下腹部、樹皮を裂いて作られたと思しき腰蓑から、ひときわグロテスクな肉が迫り上がっていることに。

 獣人の生態に詳しいわけではないが、一目見てマリィは気付いた。

 彼はヤる気満々だ。


(馬鹿かお前――ッ!? 異種姦の前に入らねえわ、そんなの――ッ!!!!!!)


 犯された挙げ句に喰われて死ぬなんて、どれだけ前世と現世で悪業を積んだっていうのだ。神とか女神はいるなら張り倒してやりたい。

 大体、怪我さえなければ、こんな獣人なんて――


(こんな怪我さえなければ――――ッ!!)


 数日前の会話がマリィの脳裏に再演される。エイハブに助けられた直後、彼に言われた言葉が。


『無理すんなよ、嬢ちゃん。腕が折れてるンだ。見たとこ戦術魔導師のようだが、治療術は使えるか?』


 ――それに対して私は何と言った?


『今は、無、理……で……す……』


 そう。、と言ったのだ。魔力切れを起こしていたあの時は。

 萎えかけた気力が急激に湧き上がってきたマリィは、おもむろにガントレットを左手で掴んだ。ぞわり、と左手の皮膚を侵すように魔石から魔力が流れ込んでくる。


(そうだ。魔力が無いなら、魔力があるところから引っ張ればいいだけだ)


 それが自分を犯そうとした奴の持ち物ガントレットというのが、しゃくに障るが、つべこべ言っている暇はない。そもそも、あの男はエイハブが真っ二つにしたし、もはや気にする必要もない。

 マリィはガントレットを握ったまま、左手を折れた右肘に押し当てた。


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 アールゥバイ族の戦士にして、もっとも体格に恵まれた肉体をもつオス、『肉離れの悪い豚ジョヂイウェ』は久々の戦闘行為に全身が高揚していた。

 戦士ガラバミッダの言うことが事実ならば、我ら部族の悲願の手がかりになるかもしれない大事な戦いである。気分が昂ぶらないわけがない。


 ああ、小さな人族のメスを追い回し、引き裂くことの何と愉悦たるや、何物にも代えがたい。


 しかし惜しむべきは、あの小さき人族のオスだ。あれは誰が見ても歴戦の戦士だ。ガラバミッダが率いる小さき同胞たち――彼らはガラバミッダやジョヂイウェには及ばずとも、敗北を知らない強き者どもだ。もっともアールゥバイ族の敗れた戦士は、すぐさま勝者の食事に変わるため、弱い者は残らない――を蹴散らし、我らの出番を与えた強き人族。あの者と一戦交えられなかったのは無念の極みだ。


 恐らく今頃は、『気短な骨なしウナギンーロタソツェ』と『包まれた槍の穂先ゲケッホティウイ』の二人が倒した頃だろう。あの二人は自分と同じく強き戦士だ。部族の掟では相手を倒した戦士が肉を喰らう権利を有する。こちらが仕留めたメスの肉を分けてやれば、彼らも足の一本ぐらいは分けてくれるだろう。


 口の中に広がる戦士の血肉を想像したジョヂイウェは、下腹に熱がたまっていくのを感じていた。

 彼ら獣人部族において、強い戦士の血肉を喰らうことは性行為以上の快楽だ。

 人喰いと同族食いを繰り返して巨躯となった今、ジョヂイウェら三匹を物理的に受け入れられるメスはいない。また最近では部族間の争いに出ることもなく、人族と戦いも無い。

 つまり、ご無沙汰なのだ。

 猛りに猛った生殖器が腰蓑を突き破り、天に向かって屹立したとしても、獣人である彼は恥じることもない。

 ジョヂイウェは樹木と変わらぬ太さの陽根を揺らして、倒れ伏して動かない人族のメスに近づくと、その足を掴んで逆さに持ち上げた。

 走り、転がりまわり泥だらけではあったが、頭の上にある黄金色の体毛が月光に晒され、きらきらと輝いていた。

 人族のメスは柔らかくて美味そうだが、残念なことにこのメスは肉づきが良くない。掴んだ足も細いし、胸肉も少ない。だらりと垂れ下がった両腕は、見るからに細い――何だ?

 ジョヂイウェは妙な違和感を覚えて身構え、そして気付いた。

 人族のメスが、こちらを見ている。死んだと思っていたが気絶していただけだったのだろうか。まあ、いい。生きたまま喰らってトドメを刺すのも一興だ。

 しかし、何と胆力のあるメスだろうか。ジョヂイウェは感心していた。

 今までにジョヂイウェが喰ってきた人族のメスは、こんな状態になれば悲鳴を上げて泣き叫び、意味不明な言葉を浴びせてきたが、このメスは違う。ジョヂイウェを真っ直ぐと見つめてを向けて――


『実行:風突槍弾』ウィンドジャベリン!!!!!!」


 人族のメスが叫んだ瞬間、ジョヂイウェの視界の右半分が爆散し、巨獣人は何が起きたかも分からぬまま、背中から轟音を立てて倒れ伏した。

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