荒ぶる獣人部族の襲撃
「獣人部族ッ!?」
こぼれた酒で濡れた顔を袖で乱暴に拭ったマリィは、周囲を取り囲む赤い輝きを見回した。目に入った強い酒を追い出そうと、身体が反射的にまばたきを増やすが逆効果だ。揮発性の高い酒精が空気に触れて眼球表面の温度を下げ、氷を押し当てたかのような痛みが走る。酔いと痛みでぼやける視界だったが、焚き火に照らされた獣人たちの姿が闇の中に浮かび上がるのが見えた。
その数、およそ二十匹。
人類の近縁種と呼ぶには、あらゆる全てにおいて醜悪で悍ましい部族は、闇の中で夜行性の肉食獣めいた瞳を興奮に滾らせて、手にした武器を振り上げた。
「ネンギン、オヂ、ウイシ!」
「ヨオセョ、ナ、オヂ、ウイシ!」
「ネンギン!」
「ネンギンッ!!」
「オヂ、ウイシィィィ!!!!」
木々が、枝葉が、大気が震えるほどの大音声。獣の雄叫びが木立の狭間に響き渡る。それも一方向からではなく、全周囲だ。すでに囲まれている。
「……参ったな。
エイハブが酒精で赤くなった頬を苦々しく引きつらせて笑った。
彼は舌打ちしつつも、素早く右手をジャケットの裏に差し込み、いつでもあの魔道具を抜ける体勢を取っている。その動きに先程までの酒が残っている様子はない。その切り替えの速さを、酔いの醒めないマリィは羨ましく思いつつ、改めて彼が凄腕の傭兵なのだと改めて理解した。
獣人たちの血走った眼は敵意に満ち溢れ、マリィとエイハブを凝視している。手にした粗末な槍――穂先は石か動物の骨だろうか。焚き火の明かりに照らされたそれには、粘性のある液体が塗りたくられている。まかり間違っても、石鹸や歯磨き粉のように無害な物ではないだろう。十中八九、毒だ。
気を抜けば斜めになる視界の中、マリィは身を強張らせた。
一般人が獣人と聞けば、その大半が狼頭人身の
だが、その認識は誤りだ。
この大陸において『獣人』とは、今マリィたちを取り囲む彼らの事だ。人狼族や猫人族が『獣に似た人族』ならば、獣人とは『獣に似た獣ならざる野獣』だった。
いわゆる魔物と呼ばれるゴブリンやオーガなどの妖魔族は、魔力は人間よりあれども、その知能は野生動物と変わらず、持って生まれた習性に逆らえない。駆け出し冒険者のマリィにとっても、ゴブリン退治は野犬を追い払うのと大差のない仕事だったし、一部では巣穴の出入り口を埋めて中のゴブリンを餓死させるという気の長い駆除方法を選ぶ冒険者もいた。低級の魔物ならば害獣と変わらず、罠にはめることも難しくない。
しかし獣人は違う。
まず知恵がある。それは彼らが手にしている毒槍を見れば一目瞭然だろう。彼らは武器防具を作るだけ知能があり、その刃に毒を塗りたくる悪意がある。
ゴブリンやオーガも武器を使うが、彼らの使う武具は農家からの略奪品や、遺跡の残留品――もしくは駆け出し冒険者の遺品を我が物顔で使っているに過ぎない。
さらに加えるなら、酒を飲んでいたとは言え、名うての傭兵であるエイハブにさえ直前まで接近を悟らせなかった。そして不意打ちが失敗したと見るや、そのまま魔物や獣のように襲いかかるのではなく戦法を変え、マリィたちの退路を奪うように取り囲む手際の良さは、コラテラ大森林の危険度を上げている要因の一つだ。
だが、他種族との一番の相違点は彼らの食性だ。
彼らは
ダンッ、ダンッ、と獣人たち次々と足を威嚇じみて踏み鳴らす。あわせて手槍を持つ腕を突き上げて吠えながら、にじり寄っている。
獣人たちから注意をそらさず、エイハブが横目でマリィを見た。
「――先に言っておくがな、嬢ちゃん」
「……何ですか!?」
ほとんど悲鳴じみた声を上げて、マリィはエイハブに視線を向ける。彼の横顔には渋面と不敵な笑いが半々で浮かんでいた。
状況は最悪だ。これがエイハブ一人であれば強行突破も出来ただろうが、あいにくと今は自分が足手まといのお荷物だ。
最悪、見捨てられることも覚悟せねばならないだろう。何としてでも生き延びる算段をマリィが考え始めた矢先、エイハブが一歩前に出た。
「ここでお前さんを見捨てて逃げる、ってぇのは――無しだ。せっかく助けたンだから、街までは安全に送り届けてやる」
「そんな無茶な!? こんなに囲まれてるし、私なんか足手まといだし――」
「ああ。だから、こういう時にぴったりな戦い方ってのを見せてやるさ」
一歩前に出たエイハブは、待て――と、餌に飛びかかる野良犬を止めるように左手を前に突き出した。
その動きに警戒心を強めたのか、今にも飛びかからんばかりに興奮していた獣人たちが足を踏み鳴らすのを止めた。無数の赤い輝きがエイハブの手のひらを睨んでいる。獣人たちの瞳は、相変わらず攻撃的な色をしていたが、明らかな戸惑いと警戒が浮かんでいるのが、先程までとは大きく違う。
しばらく睨み合いが続くかと思われたが、先に均衡を崩したのはエイハブだ。緊張が走る獣人たちに視線を向けたまま、ゆっくりと突き出した左手を頭の上に挙げてゆく。同時に右手も一緒に挙げて――
「まあ、落ち着いてくれよ、
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
「クソッ! ちったぁ話ぐらい聞きやがれ、このケダモノ野郎どもがッ!」
人喰いの獣人部族が、あの程度の安っぽい説得で獲物を諦めるはずがなく、秒を待たずに返ってきたのは、無数の手槍の投擲であった。
今も鼻先ギリギリをかすめた毒槍に青ざめつつ、マリィは自分を樽か小麦の袋のように右肩に担いで走る傭兵に怒鳴りつけた。
「馬鹿でしょ!? あんな雑な交渉で何とかするつもりだったのッ!?」
「馬鹿とか言うな小娘ッ! 世の中で大事なのはラブとピースだぞッ!? お前さん、親なり学校なりから世の中は愛と平和が大事だって習わなかったのか!?」
「ハァ? 親と学院は関係ないでしょッ!? てか、闘争が飯の種の傭兵のくせに平和主義者の真似とか頭ン中キラキラしてんのッ!?」
「うっせえな! 俺は飯の種にならない争いはしない主義なんだよ!」
空に月と星の僅かな明かりがあるとは言え、木々が生い茂り、大樹の根が天然の
それでもマリィ――冒険者なので多少は筋肉がついているし、同年代の女性と比べれば、ほんの少しだけ軽いとは言いがたいが、重たいとは認めたくない――を担いでなお、エイハブの動きは機敏であり、足下につまずく事なく森の中を駆け抜けている。あの巨大な板斧剣を振り回す膂力の持ち主だ。この程度は軽いものなのだろう。
もっとも、怪我人のマリィにしてみれば、走って揺さぶられる度に砕けた右肘に激痛が走り、頭から浴びた酒のせいもあって、気持ち悪さも倍増している。吐きそうだ。担がれて運ばれていることも忘れて、マリィは泣きながらエイハブに懇願した。
「んぐぅっ! だ、だからッ! ねえっ!! もうちょっと……んんっ……優しく……お願いだからッ! お゛ね゛が゛い゛だがらッ!! 優しく走っ……痛っでええええええええええッッ!?」
「馬鹿かお前。んな気遣いが出来ると思ってんのか、この状況で!」
「この状況って――アンタのせいでしょ!? あんな風にノコノコ前に出てきて『仲良くしよう』なんて言うヤツ、私が連中と同じ立場なら、真っ先に槍投げてるって痛ァ――――ッ!?」
「だからいい加減黙ってろ、このお荷物娘ッ! あと耳元でキャンキャン騒ぐな! 舌ァ噛むぞ!」
「……………………」
「…………おい。なんか、急に聞き分けが良くなったな」
「吐きそう。っていうか吐く」
「おい馬鹿やめろ! それだけは止めろ! 頼むから止めてくれ!」
「んむぅ――――ッ!!!!!!」
カイチュー・ジルコの匂いとジェレミー・ハートウッドの酒精の香り、そして胃酸の苦みと酸い臭いが舌の根まで駆け上がってくる。何とか吐瀉物を呑み込めたのは、怪我の功名と言うべきか、横から飛び出してきた獣人に驚いて息を飲んだからだ。だが、獣人の手にはやはり毒の塗られた槍が握られており、獣そのものを吠え声を上げながら、獣人が槍を突き出す。
「ああッ、このッ! ったく危ねえなッ!!」
「ちょ、ちょっと待って痛い痛い痛いッ! 肘ッ!! 肘ッ!!!! 肘ィ――ッ!!!!」
横合いから胴体に目掛けて突きこまれた槍の切っ先を避け、エイハブは手槍の柄を左手でつかんで襲ってきた獣人ごと引っ張った。獣人は引き寄せられるのを嫌って手槍を手放すが、エイハブは素早く手元で槍を回すと、元の持ち主の左胸に槍を突き返した。
絶叫もまた獣そのものだ。
苦悶の声を上げて仰け反る獣人めがけ、エイハブは地を蹴って跳躍し、その人と獣を醜悪に掛け合わせた顔面に膝を叩き込んだ。ぐしゃり、と西瓜が砕けるような水音が響く。そのまま背後に倒れた獣人は、地面とエイハブの膝に頭を挟まれて即死した。毒で長く苦しませない為の慈悲ではない。この悲鳴で獣人たちに位置がバレるのを防ぐためだ。
「ちょ――前ッ! 敵いるッ!!」
前方に二匹。こちらの進路を先回りしたのか、獣人が槍を構えて突進していた。さながら野生の猪のごとく、エイハブとマリィを蹴散らす勢いだ。もう既に、あと一足か二足跳びで、こちらの懐に入るほどに近い。だがエイハブは止まること無く、更に速度を上げて脇に生えていた大樹の幹を蹴って跳び上がった。突っ込んできた獣人の、近い方の首筋にブーツの踵を叩き込んで、さらに跳躍する。首の骨を蹴り折られて絶命した獣人が、もう一匹を巻き込んで横倒しに倒れた。
マリィを肩に担いでいるにもかかわらず、エイハブの着地に危うげなものは一切なかった。よろめくことも立ち止まることもなく、そのまま逃走を再開する。
駆け出したところで、頭上の枝葉が不自然に揺れる音がした。体勢的に上を向けないマリィにも、それが何であるかは察しがつく。
「上――ッ!!」
新たな獣人の襲撃。一匹が槍を下向きに構えて、大樹の上から飛び降りてきたのだ。地上の動物が頭上からの攻撃を避けるのは難しい。それは人間にも当てはまる。翼を持つ鳥ならば容易いが、獣人は鳥ではない。一歩間違えば墜落して大怪我は免れない行為だが、こちらを串刺しにして落下の勢いを殺す気なのだろう。
しかし、エイハブは走る勢いを殺さず、左足を軸に全身を捻って槍ごと落ちてきた獣人を避けると、さらに全身の捻りを加えて回転し、遠心力を乗せた横蹴りで槍の柄ごと獣人の横っ腹を蹴り折った。血の泡を吹いて吹き飛ぶ獣人に目もくれず、エイハブは再び走り出す。少しでも止まれば投げつけられた毒槍の餌食だ。
「おい、お嬢ちゃん!」
「……な、何?」
「鳥になってきなッ!!」
「え、何――わひゃああああああああああッ!?!?」
マリィが言葉の意味を聞き返すよりも先に、マリィの身体はまさに倉庫に放り込まれる小麦袋のように高く放り投げられてた。
「ああああ――――ああああぁぁ――――ぁぁぁ――」
少女の悲鳴が尾を引いて、縦回転する。満天の星空に浮かぶ月が見え――次いで森と地が見えた。真下にはエイハブ。その前後左右から獣人たちが一斉に飛びかかるのが見えたが、警告を発するよりも先に二回転目の夜空に視界が切り替わる。再び森と地面が見える頃には、左右から襲いかかってきた獣人が血しぶきを噴き上げて背中から倒れ、背後から襲った獣人が頭を支点に回転しながら宙を舞い、前方にいた獣人が、エイハブの手にした銀色に煌く長剣によって肩口から臍下まで斬り倒されていた。あの変幻自在の魔道具だ。
エイハブは魔道具を短剣に変化させてジャケットにしまうと、落ちてきたマリィを両腕で受け止めた。まるで勇者に救われた姫君のような、女の子であれば一度は憧れたかもしれない体勢だが、マリィの口を突いて出たのは歓声ではなく罵声だった。
「こぉンの――馬鹿ぁ! 馬鹿クソ馬鹿オヤジ! いきなり女の子を空高く投げるか、普通ッ!? 下手したら死ぬところだったじゃない!!」
流石にマリィを肩に担いだままでは、全周囲から襲ってくる相手を捌けないと判断したのだろうが、それならそうと先に断ってほしかった。想像を絶する膂力で高く放り投げられては、ここ数日で数多くの修羅場を体験した――今もなお獣人の襲撃という鉄火場の真っ最中だが――マリィでさえ墜落死の危険を感じてしまう。
「それだけ騒げりゃ死にゃしねえよ」
うんざりした様子でエイハブはマリィを抱きかかえたまま、唐突に怒鳴った。
「足を伸ばせッ!」
「は、はい――ッ!?」
エイハブの剣幕に驚いたマリィは言われるままに両足を突っ張った。直後、硬いものが当たって砕ける感触がブーツ越しに足裏に広がる。嫌な予感がマリィの脳裏をよぎるが、それを確認するよりも先にエイハブはダンスでも踊るかのように流麗な動きで、腕の中に抱えたマリィの足を棍棒代わりに、近寄ってきた獣人を片っ端から張り倒した。
「ちょっとぉ!?、私の足を武器代わりにしないでよ!」
「怒鳴んなよ。俺に蹴られるより、お前さんの可愛い
「蹴られて喜ぶ変態種族とか見た目以上にキモい」
「そこ、真顔で嫌がるなよ……――ッ!?」
何かを感じ取ったエイハブが足を止めるのと同時に、担がれたマリィの腹にまで響くほど大地が揺れた。小枝と葉を雨のごとく振り落としながら、木目が千切れるベキベキメリメリという悲鳴を上げて大木がマリィたちの頭上に倒れてくる。足を止めたエイハブが跳び退らねば倒木に押し倒され、致命的な傷を負っていただろう。耳を聾する轟音が薄まるや、耳障りな大音声がエイハブの足を縫い止めた。
「ネンギン、オヂ、ウイシ! ヨオセョ、ナ、オヂ、ウイシ!」
この巨体を森のどこに隠していたのだろうか。樹木を薙ぎ倒して現れたのは、三体の巨躯だった。巨獣人とでも称せば良いだろうか。獣人たちが人族と同程度の背丈ならば、こいつらはその倍はあるだろう。身体の特徴は獣人のと変わらないが、三体全員が何かしらの骨を蔓で結んで繋ぎ合わせた防具を身に着けている。手にした武器の形状は手斧に似ているが、刃があるべきところには鏃状の石器が並べて嵌め込まれ、まるでノコギリの刃か鮫の顎のような凶悪さを醸し出している。
「ネンギン! ウイシ! ネンギン、オヂ、ウイシ! ヨオセョ、ナ、オヂ、ウイシ! ウイシ!」
巨獣人の一体――角鹿の頭骨を結んで兜代わりに被っている――が、手斧を振り回し、エイハブを指差した。
「ネンギン! ウイスヌエ、ヌル、カラソ! カラソ!」
「人間の言葉を喋りやがれ、ケダモノ野郎……」
盛大にため息を吐いたエイハブは、マリィを地面に下ろすと彼女に背負い袋を押し付け、マリィにだけ聞こえるほどの音量でささやいた。
「……流石に、アレはお前さんを担いだままじゃ無理そうなんでな。悪いが預かっててくれ」
マリィの答えを聞かず、エイハブは巨獣人に向かって飛び出した――――
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