駆け出し冒険者マリィの困惑
「こんなの、あり得ない……ッ!」
マリィは手にしたガントレットを熱病患者めいて憔悴した顔で呆然と見下ろしていた。理解し難い現実が、実態を持って今、彼女の左手の上にある。戦術魔導師だからこそ、この異常存在とも言うべき籠手――見た目は、街の防具商店で売られている最低ランクの鉄製の籠手に過ぎない――から触れているだけ流れ込んでくる魔力は、気を抜けば魔力酔いを引き起こしかねない程に濃い。どれだけの魔力を含有しているというのか、マリィには想像もつかなかった。
「うえっ」
堪えきれず、えずく。血中に含まれる魔力が減れば昏倒するのは知られているが、逆に魔力が増える場合も人体には有害だ。体内で増えすぎた魔力を自浄処理できなくなると、まるで酒精に毒されたような状態に陥る。軽微なものならば、めまいや吐き気などを覚え、最悪の場合は昏倒して死に至る。
このままガントレットを投げ捨てたい衝動に駆られたが、ゆっくりと地面に下ろすとマリィは大きく息を吐いた。
エイハブは地面に転がるガントレットを拾い上げると、代わりに水筒をマリィに差し出した。
「その様子じゃ、こいつは相当量の魔力を持ってるみたいだな。飲むか?」
「……だ、大丈夫。うぷっ……少しすれば落ち着くと思うから……」
やんわりと断り、マリィは深く息を吸った。肺が膨張と弛緩を繰り返す度に、砕けた右肘で痛みがぶり返したが、全身の血流が苺のジャムに入れ替わったかのような魔力酔いによる倦怠感と吐き気に比べれば、この痛みの方がマシだった。
マリィは深呼吸を繰り返しながら、無意識のうちにボロ布で吊られた右手をさすっていた。骨折によって血の流れが滞っているのだろう。左手に比べて右手は明らかにむくんでいる。指を動かすだけで右肘の傷に響いたが、左手で指先から甲を撫でる程度ならば障りはなかった。
しばらくして魔石のガントレットから流れ込んできた魔力が落ち着いてきたのか、喉をフリークライミングしていた不快感は潮が引くように静まってゆく。マリィは大きく息を吐いた。
「魔石で出来たガントレットかぁ……正直に言って信じたくないけど、それなら、あの連中が、
あの時、エイハブと斬り結んでいた盗賊が『オレたちに
おそらくだが、あの超人的な身体能力も瞬間強化術を連続で使用することで可能にしているに違いない。にわかには信じられないことだったが、そう考えればマリィにも理解できることだ。納得できるかどうかは別の話だが。
(いや……でも、確かに可能性という点では、ちょっとだけ考慮したけどさぁ……てか、普通あり得ないじゃん。常識的に考えて)
胸中で誰に投げかけるでもなく不満を漏らし、マリィは件のガントレットに視線を戻した。ガントレットは、エイハブが手元でガチャガチャと鳴らして弄んでいる。どうやら彼はガントレットの構造を確かめているようだった。
「あの……あまり不用意に触れていると、私みたいに魔力中毒を起こしますよ?」
「――ああ、それなら平気だ。お嬢ちゃんの心配には及ばない。ああいうのを倒すのも、こういうのにも多少なりとも慣れているンでね」
エイハブは自慢げにジャケットの上から左胸を叩いてみせた。確か、盗賊たちを翻弄した
思い返せば彼は、戦闘中に盗賊たちのガントレットとグリーブから異様な気配を感じ取っていた。
おそらく自身の武器が魔石由来の
やはり凄腕の
「あ、いや……そう身構えるなって。誤解のないように言っておくが、俺は
「はぁ……」
「ああ、待て。誤解するな。俺は殺すのが趣味の変態じゃないし――趣味ついでに言えば君は俺の
「…………はぁ!?」
「それに、その手の欲求不満は赤砂平原に入る前の宿場町で済ませてきた。おかげで素寒貧なわけだが――あと、俺は抱く相手は自分の歳から数えて下は七つ、上は五つまでと決めてるンだ。で、お嬢ちゃんは見たとこ十五だろ? 完全に守備範囲外だな。安心してくれ」
「ンな事言われて安心できるか――――ッ!!!!」
マリィは怒鳴りつけて、思わず反射的に左腕で自分の胸元を隠した。隠すほどの大きさではないのが彼女自身の長年の悩みが故に、彼が命の恩人であることも忘れて、怒りがこみ上げてくる。
「これでもッ、十七歳ですッ、私はッ! 子供扱いしないでくださいよッ!」
「十五でも十七でも
「違いますッ! 王都で十七――しかも戦術魔導師の資格持ちなら、立派に大人扱いですよ。冒険者になる前は税金だって払ってましたし! お酒だって普通に飲めるしッ!」
「そうか悪いな。俺の
エイハブは興味が無いと言わんばかりに肩をすくめると、ジャケットの裏――ナイフホルダーとは反対側から
「ま、俺も
「あー! ズルい! 私も飲みたいッ!」
「止めとけ止めとけ。ついさっきまで青白い顔して吐きそうだった奴に飲ませる酒は一滴もねえ。飲んだら飲んだで肘の傷に障るぞ」
マリィの身を気遣うような台詞を、底意地の悪い笑いを浮かべながら口にして、これ見よがしと言わんばかりにエイハブはスキットルの中身をあおった。かなり度数の高い酒だろうか。ほぅ、と美味そうに吐き出した彼の呼気からは、どことなくこの森とは違う木の香りが酒の匂い混じっていた。
酒好きにとって、この世で他人が美味そうに飲んでいる酒ほど、喉を渇かせる物はない。マリィは半眼でエイハブが握りしめるスキットルを睨んだ。
「……もしかして、上目づかいで『ちょうだい♥』って可愛らしくお願いすれば飲ませてもらえます? それとも指を、こう……艶めかしくしゃぶりながら『ほしいの……』って言えばくれたりしますかッ!?」
「やめろ馬鹿」
真剣な表情で聞くマリィに、エイハブはうんざりした呆れ顔でスキットルをもう一口あおった。じっとりと睨めつける視線に耐えかねたのか、彼は大きく嘆息すると、蓋を閉めたスキットルをマリィの前に投げてよこした。
「ったく……一口だけだぞ。馬鹿みてえに高いンだからな、それ」
「やった! ありがと!」
根負けしたエイハブには目もくれず、マリィはスキットルを片手で拾い上げ――見た目よりも手のひらに余るスキットルの大きさに顔をしかめた。
確かにエイハブならば、この大きさのスキットルでも左手だけで蓋を開けられるだろう。しかしマリィは冒険者とはいえ、その手のひらは、さほど大きくない。この大陸の平均的な女性のそれと同じか――もしかすると、少し小さいくらいだろうか。彼女の手では、スキットルの胴を握ったまま同じ左手の指で蓋を開けるのは難しい作業だった。
少し右腕が使えないだけで、これほど難儀するのだ。多くの冒険者がギルドに借金をしてでも戦術魔導による治療を依頼する理由を、今更ながらマリィは我が身をもって実感していた。
マリィは自分の手の大きさに不満を抱きつつ、仕方なくスキットルを両膝で挟んで固定する。固く閉められたスキットルは、利き腕ではないこともあって開けるのに少し時間がかかってしまったが、蓋を開けた瞬間、ふわりと漂った酒精と燻煙された木の香りにマリィの喉は唾を飲まずにはいられなかった。
思わず一口――とスキットルに口をつけそうになったマリィだったが、すんでの所でエイハブが口をつけていた事を思い出して踏みとどまった。
(命の恩人とは言え、『間接』ってのは……ちょっと……)
冒険者であるまえに女の子である事を捨てたつもりはない。年頃の少女らしい気恥ずかしさに、マリィは酒を飲む前から顔が火照るのを感じていた。
慌ててカイチュー・ジルコを飲み終えて空になったカップに、一口よりも若干多めに酒を注ぐ。琥珀色の液体に、カップに付着していた甘い赤豆の粉が浮かんでいるが気にはならない。芳しい香りに誘われ、くいっ、とマリィはカップを傾けた。
(おおっ、これは――ッ!)
美味しい。
口に含んだ瞬間、最初に
傷の痛みも忘れ、はふぅ、と自然にこぼれた吐息からは、やはり木の香りがした。
「よく味わえよ。そいつはジェレミー・ハートウッドの三十年物だ」
「――マジで? これが、あの幻の酒って呼ばれる『ジェレミー・ハートウッド』の、しかも三十年物!?」
困惑したマリィは、手にしたカップの中身と苦笑するエイハブの顔を交互に見やった。エイハブは得意げに肩を揺らすと、スキットルをマリィから取り返して、また一口あおった。
「お前さんみたいなガキンチョでも、十年前の
「ええ。そりゃまあ、王都の学院では大陸の歴史は必修科目ですし……」
「その
「そんな高い
「依頼料代わりにふんだくったのさ」
上機嫌になってきたのだろう。エイハブはさらに一口、スキットルをマリィの目の前であおった。つられてマリィもカップに残った酒に口をつけた。
度数が高いにもかかわらず、二口目であっても滑らかな口当たりは幻の酒の通り名に相応しい。この美味を、いつまでも舌と口で味わっていたい気持ちに駆られるが、喉と胃がそれを許さない。泣く泣く飲込み、吐息をこぼす。
度数の高い酒を飲んでもむせる事のないマリィに、エイハブは感心が三割、呆れが八割といった様子で苦笑した。
「ったく
「……死んだ仲間たちにも、よく言われました」
何気ないエイハブの感想に、マリィはカップの中を見つめたまま応えた。
琥珀色の水面に、ぽたん、と水滴が落ちる。雨粒だろうか。マリィは木々で覆われた夜空を見上げたが、そこに雨雲はない。枝葉に遮られてはいるが、雲一つ無い星空だと知って初めて、自分が泣いているのだと気付いた。
(なんで……?)
涙がこぼれている事に気付いたマリィの胸中に困惑が湧き上がった。
あんな夢を見たせいもあるのだろうか。何故かマリィには、彼らの死に対して悲しみや後悔などの感情が全く浮かんでこなかった。自分自身も命の危機に瀕していたせいか、仲間の死に対して感情が鈍麻しているのかもしれない。
にもかかわらず、双眸からは涙が止めどなく溢れていた。心と肉体の状況が乖離していることが、マリィの困惑に拍車をかけた。
「おい、嬢ちゃん。大丈夫か? 傷が痛むのか?」
「えっ? あ、いやいや、全然。むしろ私の方こそ、自分が何で泣いてるのか分かんなくて……」
心配そうに声をかけたエイハブに、マリィはわたわたと左手を振った。
「あの……その……こんな泣きながら言っても信じてもらえないでしょうけど、なんだか悲しいって思えないんですよ。正味の話、実感が無いし。ミルトンも、アンバーも、私の目の前で殺されたって言うのに、彼らが死んだとか全然信じられないっていうか……」
たかだか三ヶ月程度の付き合いだったとしても、マリィが知る限り彼らとの関係は良好だった。彼らと過ごした冒険者としての毎日は災難と困難に溢れてはいたものの、濃密と言って過言ではない。あの二人と冒険者として仲間意識が芽生えるのに、長い時間を必要とはしなかった。
それなのに彼らの死を嘆く事もないのは、あまりに薄情ではないだろうか――と心の代わりに身体が己を咎め、涙を流させているのだろうか。
「いや、分かってるんですよ。色々あって混乱しっぱなしだってことぐらい。自分も危なかったし、犯される寸前だったし、右肘は砕けてて、お酒飲んでないとやってけないほど痛いし、泣きわめいてる場合じゃないって。だいたい、この肘の治療費に、どれだけお金かかるか想像したくもないし!」
たったの一杯で、早くも酔いが回っているのかもしれない。相手が命の恩人だったとしても、初対面の男に延々と愚痴を聞かせるなど、常日頃のマリィならあり得ないことだった。
いかなる時も戦術魔導師は心を御せ――
「だけどっ! ミルトンやアンバーを死なせたばかりか、キャラバンだって護れなくて! 私だけ生き残って! 辛いし苦しいのに、仲間を死なせた事が『悲しい』って思えないなんて、おかしいですよ! こんなに涙が出てるのに、頭の中では悲しいと思ってない!」
だが、エイハブはマリィの独白を茶化す事なく黙って聞いていた。
そうして何分が経っただろうか。
独白が途切れ、マリィが深く息を吐いた頃、エイハブは静かな声音で言った。
「冒険者も傭兵も、親しい仲間を失う事は多々ある事だが……だからって誰かの死を、今すぐ悲しむ必要はないンじゃないか?」
「で、でも――」
「何も悲しむな、とは言ってねえよ。一晩二晩で心の整理がつくなんて、余程の覚悟が無きゃ無理だ。大体、生き残った人間ってのは多少の差はあれど『自分が生き残ったこと』を責めちまう。今のお嬢ちゃんみたいに『仲間の死を悲しまなきゃいけない』って思い込んじまっているのも似たようなモンだ」
「でもッ! 私が冒険者として未熟なせいで――」
「関係ねえよ。
「病気と殺されるのとじゃ、大きく違うと思うんですけど!?」
「違わねえさ。
「それじゃあ……仲間が死んだのは、キャラバンの護衛を引き受けたせいだって事ですか?」
「ああ。だが、お前さんは逃げる事を選んで生き延びたンだろ? まあ、偶然とは言え俺が通りかからなきゃ死んでただろうが、馬車に残って犯されて殺されるよりはマシな結果になっただろ?」
「それはそうだけど……」
なおも食い下がるマリィを無視してエイハブは言葉を続ける。彼は軽くなったスキットルをマリィの鼻先に突き出し、諭すように笑った。焚き火に照らされた男の笑顔は、牙を剥いた獰猛な狼を少女に連想させた。
「いいか。よく聞けよ、お嬢ちゃん。生き残った奴が勝ちなのさ。死人は生者に何もしてくれない。だが、死んだ奴のために
焚き火の薪が乾いた音を立てて爆ぜた。
少しの沈黙。ややして、エイハブはマリィのカップに酒を注いだ。一口分だが、この酒ならば十分な量だろう。
「飲もうぜ。こいつは、お前さんの死んだ仲間たちの分だ」
「ありがとう……ございます……」
言いくるめられたような気持ちだったが、不思議とマリィの涙は止まっていた。
(死んだ人のために酒を飲めるのは生き残った人だけ……)
エイハブが言ったフレーズを心の中で繰り返し、カップの中で揺れる酒を見つめた。ミルトンとアンバー、他の護衛、そしてキャラバンの人々を顔を思い浮かべ、マリィはカップを口元に運んで――その瞬間、エイハブに思いっきり後ろへ突き飛ばされた。
「みぎゃっ!? 痛ァ――――んげほっ!?」
背中を強か打った痛みよりも、強い酒を浴びた眼と鼻孔がツンと刺すように痛い。気管支に入った酒精があり得ない痛さで肺を刺激し、喘息患者めいた咳がマリィの喉からこぼれた。泣きじゃくって水分の抜けた眼球にも、この酒は強すぎた。目を開けていられず、マリィは焦点の合わない視界の中で起き上がろうと藻掻く。
だが――
「伏せてろッ!」
緊迫したエイハブの一喝。慌てて左腕の袖で酒で濡れた目元を拭ったが、酒精を浴びたマリィの視界は焚き火の明かりでさえ刺すように痛む。世界が霞がかったようにぼんやりとしている中、マリィは彼女とエイハブの間を遮るように一本の太い枝が生えていることに気付いた。さっきまで、そんなものはなかったはずだ。
(ああ、馬鹿。だめだ。酔ってる。枝がいきなり生えるわけがないじゃない――!)
自分を叱りつけ、酔いを飛ばすように頭を軽く振る。
ようやく焦点の合い始めた視野の中でマリィが見た物は――木立の中で赤く光る瞳だった。
イモリや蛙を想起させる両生類のように滑らかな浅葱色の肌。僅かな体毛が生えた頭部には、犬のように突き出た
「ネンギン、オヂ、ウイシッ!! ヨオセョ、ナ、オヂ、ウイシッ!!」
それは――粗末な投げ石槍を構えた、コラテラ大森林に棲まう獣人部族の戦士たちの姿であった。
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