獣人領域コラテラ大森林の夜
「――なぁ、どうしてマリィは冒険者になろうなんて思ったんだ?」
安い発泡麦酒の注がれたジョッキをあおりながら、耳の先まで酒精で赤くしたミルトンがしゃっくり混じりに聞いた。
彼はいつもこうだ。曽祖父の代から家系的に酒に弱いと語るくせに酒を飲むのは大好きで、ギルド直営の安酒場――炭酸水を混ぜて薄めた麦酒を平然と出すような酒場で、冒険者仲間と盃を交わすのが冒険者の醍醐味と言ってはばからない。そして聞いてくるのだ。冒険者を目指した経緯や切っ掛けを。
マリィとてミルトンやアンバーと酒を飲むのは嫌いではない。そもそも酒は好きな方だ。故郷の実家にいた頃は、蔵から拝借した蒸留酒をベッドの下に隠して、時々寝る前に一口舐めるのをささやかな楽しみにしていたマリィだが、ミルトンの
おそらく彼にしてみれば酒の席の
だが、冒険者になった・目指した・身をやつした――は、人によっては触れられたくない過去の場合もあるだろう。冒険者なんて生き方は、ミルトンのような冒険的な夢想家でなければ、好んで選ぶような生き方ではない。
とは言え、これに答えないという選択肢を選ぶと、大変な目に会うことをマリィは経験している。尋ねた相手が答えないとミルトンは、自分が冒険者を目指した切っ掛けを延々と話し始めるのだ。
しかも酔っているから同じ話を何度もするし、その上、自分で勝手に感極まってテーブルの上に乗り上がって歌まで歌い始めてしまう。
これが上手ければ、まだ笑い話で済んだだろう。残念なことに下手なのだ。酔って音程が外れている、なんて程度ではなく、ミルトンの詩を聞いた吟遊詩人の冒険者が愛用の竪琴を投げ出し、
今夜もご多分に漏れず、答えあぐねるマリィを尻目に、酔っ払った彼は二百年前の勇者が倒したという吸血鬼が遺した都について歌い出した。
「――♪嗚呼、伝説の吸血鬼。魔王カーミラの遺せし亡都よ、今いずこぉ~! 必ずや、見つけ出すぅ~! このミルトン・カークランドがァ~♪」
「馬鹿野郎。そんなモノありゃしねえよ! 北海の果てで勇者ルビィアームズ様が魔王もろとも吹っ飛ばしただろ。いい加減にしろ!」
カウンターで飲んでいたヒゲ面で年配の冒険者が、ミルトンと同じような赤ら顔で酒の入ったジョッキを振り回して怒鳴った。
勇者ルビィアームズは、大陸に住む人々なら誰もが知っている英雄譚だ。
魔王に苦しめられていたこの世界を救うため、異世界からやってきた伝説の英雄。爆炎の戦術魔導の使い手。
居城であった北海の果ての城は、勇者との最終決戦によって二百年経った今もなお炎の噴き出す死の大地と化した。血鬼領と呼ばれた魔王の支配領域には、いくつかの大きな都市があったと言われているが、それらは勇者の遺志を継いだ王国と帝国の同盟軍によって悉く略奪され、打ち壊され、焼き払われ、もはやどこにも存在しない――というのが通説だ。
しかし同盟軍による破壊と略奪を免れ、今もなお当時と同じ姿で眠る遺跡が、旧血鬼領のどこかにある――という伝説が、まことしやかに語られている。
それは、語り継がれる勇者の伝説と等しく、この大陸では――とりわけ冒険者にとっては聞き飽きた与太話だった。魔王が打ち倒されて二百年余り、その遺跡を探しに行ってハズレを掴まされた冒険者は数知れない。
もはや吸血鬼都市の遺跡の話は、冒険者にとって詐欺かハズレくじの代名詞に過ぎない。今の時代の冒険者で、吸血鬼都市の遺跡の存在を信じているのは、マリィの知る限り誰もいない。ミルトンを除いて、の話だが。
「――♪偉大なる冒険者の先達ゥ~、ウィリアム・ヘンリー・コックスのぉ~! 手記にありしぃ~、永遠の都ぉ~! 再び見つけ出すぅ~♪」
「おーい、また始まったぞ! ミルトンの野郎の『気ぶりのコックス』の歌。おいこら、アンバー、お前の仲間だろ。さっさと止めさせろよ!」
近くのテーブルで飲んでいた若い冒険者たちが、うんざりとした口調でマリィの隣でジョッキをあおるアンバーに助けを求めるが、アンバーは酒を飲むのに夢中な振りをして、あえて聞き流した。
すげなく断られた冒険者はマリィの方へ視線を移すが、マリィも三角帽子を目深に被って目を合わせなかった。
「――♪おお、勇敢なる冒険者コックスぅ~! 遺跡探索にぃ~、生涯をぉ~、捧げたぁ~、男ぉ~!」
ウィリアム・ヘンリー・コックス。
通称、気ぶりのコックス。詐欺師のコックス。冒険者を無駄に増やした男。冒険者を無駄に死なせた男。
彼は百年ほど昔に活動していた冒険者であり、例の吸血鬼都市の遺跡から生還した男として、冒険者稼業を営む者や一攫千金を目指す者なら一度は聞いた事のある名前だ。しかし、その不名誉な二つ名が表すとおり、彼の持ち帰った話は、どれ一つとして真実を確かめられた事は無い。彼が遺した手記と言う名の宝の地図は、多くの冒険者を魅惑して惹きつけ、そして落胆させてきた。
それにも関わらず、テーブルの上に乗って熱唱するミルトンは、コックスの手記を読んで冒険者を目指したと語っている。
細緻に渡る情景の描写から伝説は真実だと確信し、その遺跡を探し当てる事が夢となった――というのがミルトンの弁だが、酒盛りの都度聞かされるので覚えてしまったし、マリィとアンバーはおろか、交流のある冒険者たちは皆知っている話だった。
ちなみにマリィも例の自伝を読んでみたのだが、筆者が日ごとに正気を失い、狂気に蝕まれて行く様が手に取るように感じられたため、半分読んだところで暖炉の中に放り込んでしまった。
つまり、そのような内容の与太話を酔っ払っては毎回高らかに歌い上げるのだから、パーティメンバーのマリィとアンバーの頭の痛いところである。この悪癖さえなければ、ミルトンは優秀なベテラン冒険者なのだが。
「――♪だがしかしぃ! 獣巣くう広大なコラテラ大森林ん~! その奥深くにあるという獣人部族の聖地ぃ~! 贄を求め、血をすする獣が治めた都ぉ~! それこそがぁ~! カーミラの亡都ではないかぁ~! 俺はぁ~、信じるぅ~、自分のぉ~、直感をぉ~♪」
ミルトン個人の盛り上がりは最高潮だ。テーブルに足をかけ、空になったジョッキを振り回してリズムを取りながら、外れた音程で持論を披露している。
ちらり、と横目で見るとアンバーが赤い顔で『そろそろ取り押さえようか』と目配せを返した。マリィはため息まじりに黒麦酒――やはり炭酸水で薄められた薄味の――に口をつけて、
これが夢だと気づいた。
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うっすらと眠りの淵から浮かび上がったマリィの耳がとらえたのは、焚き木がパチパチと焼け爆ぜる音だった。
重いまぶたをこじ開ける。ぼんやりとした視界の中では、炎の明かりに照らされて橙色に揺らめく森の木々と、鬱蒼と生い茂る枝葉の隙間から星空がにじんで見えた。まぶたを擦ろうとして、いつもの癖で右手を動かしそうになったが、それよりも先に砕けた右肘に激痛が走り、マリィは声を押し殺して悶えた。
十数秒、思い出したかのように苛む痛みを堪える。寝汗とは違う脂汗が額を伝う。右腕は肘を守るように添え木が当てられ、あまり清潔とは言いがたい薄汚れた布ではあったが、動かないように身体に縛り付けて固定されていた。
引き潮のように痛みが和らいだのを見計らい、マリィは慎重に無事な左腕側に半身を向け、膝を曲げて身体を縮めると、左腕で地面を押して上半身を起こした。
「ここは……?」
首だけで周囲を見回す。
前後左右は苔むして捩れ曲がった巨木が乱立し、夜の闇も相まって遠くを見渡す事が出来ない。もう一度上を見上げれば、木々の狭間に焚き火の煙が立ち上がっている。煤の匂いに混じって、深い森特有の湿った葉と土の匂いと、乾いた汗の臭気がマリィの鼻についた。鼻を鳴らして臭気の出所を探る。臭いの元が右腕――を固定している布だと気づき、マリィは壮絶に顔をしかめた。
似たような臭いは、尻の下に敷かれた毛布からも漂っていた。
マリィが寝かされていた毛布は端々が擦り切れ、表面が毛羽立った年代物のようだった。もちろん、この毛布はマリィの持ち物ではない。よくよく見れば、右腕を縛る布と似たようなボロ切れが足下の方に丸まっている。
がさり、とマリィの背後で枝葉の擦れる音がした。マリィは慌てて振り返り、ぶり返した右肘の痛みに悶絶した。
「よう、嬢ちゃん。お目覚めかい?」
がさがさと低木をかき分けながら出てきたのは、黒いジャケットを着た前髪に一房の銀色が入った黒髪の男。マリィの生命と貞操の危機を救った傭兵。『銀腕』の二つ名を持つ――凄腕の
「ちょっとばかり用を足していた。さすがに、三十過ぎてガキみたいに漏らすのは格好つかねえだろ?」
「いや、そんなこと言われても……」
頬の引きつりは右肘の痛みだけではないだろう。焚き火を挟んで向かい側に腰を下ろしたエイハブへ乾いた笑いを返しつつ、マリィは改めて礼を述べた。
「助けていただき、本当に感謝しています。私は冒険者ギルド所属のマリィ・サリィ・レイニィ、
マリィはシャツの首元から冒険者ギルドに所属を示す
だが、冒険者の多くは
これは元々は
とは言え、赤の一本線が入った装備を身につけた冒険者なぞ『自分は未熟者です』と喧伝してまわっているようなものだ。トラブルを避けるため、また己の自尊心を守るため、余程の事がない限りは
マリィにとって、この頼りない細い鎖で結ばれた金属板だけが、自分が冒険者である事を示す唯一の品であった。
マリィは今までの経緯をエイハブに語った。要塞都市ラフトで隊商護衛の依頼を仲間と受けた事。赤砂平原でブート&ガントレット盗賊団の襲撃を受けた事。仲間は殺され、自分一人が逃げ延びた事。追っ手に追いつかれ、犯される寸前だった事。
マリィが話している間、エイハブは背負い袋から年季の入った
マリィが全てを語り終わる頃には手鍋の中からは甘い匂いが漂っていた。エイハブは手鍋の中身をカップに移すとマリィに差し出した。
「何です……これ……?」
渡されたカップをのぞき込んで、マリィは思わず問いかけた。
それは見た事のない飲み物だった。カップの中には粘性のある黒い液体。その中に水分を吸ってドロドロにふやけた狐色の皮が浮かんでいる。
あまり美味そうには見えない見た目に反し、湯気とともに漂う芳香は甘々としてマリィの鼻孔をくすぐった。
カップに口にするのを躊躇うマリィに、エイハブは苦笑した。
「カイチュー・ジルコだ。そいつは大昔、この大陸にやってきた異世界人がもたらした携帯食でな。材料は、西の湿地帯で採れる穀物を挽いた粉と赤豆と砂糖だ。かなり甘いが栄養価も高いし、身体も温まる。何よりお嬢ちゃんは三日も眠ってたンだぜ。そんな空きっ腹で、いきなり固形物を食うと腹壊すぞ」
「えっ、み、三日ぁ!?」
思わず声を上げてしまったマリィは、カイチュー・ジルコを飲む前から顔を火照らせた。
あの襲撃から三日。当初の予定通りならば、境界都市エスカロンを出立して、商都バル・ベルデに辿り着いている頃だ。
だが、それだけではない。魔力切れと疲労と粉砕骨折が原因とは言え、三日も意識を失った上に、その間、この傭兵に世話をかけてしまった事実にマリィは肩身の狭さを感じていた。マリィが気落ちしたのを感じ取ったのか、エイハブは鍋に残ったカイチュー・ジルコをスプーンで掬って口に運びながら、慰めるように詫びた。
「すまんな。もうちょっと歩きやすい道なら、今頃は眠り姫サマをベッドに寝かせてやれたンだが、見ての通りの野外炊飯だ。悪いが我慢してくれ」
「いえ……こっちは迷惑かけっぱなしですし……というか、ここ、コラテラ大森林ですよね?」
「ああ。悪いが安全策を採った。エスカロンへの
「この森を通り抜けるのも、充分危険だと思うんですけど……」
アンバーから聞いた噂を思い出しながら、マリィはカップの中身をすすった。初めて飲んだカイチュー・ジルコはマリィの想像以上に熱く、泥水のような黒々とした見た目に反して染み入るような甘さは驚きだった。豆の甘みだろうか。初体験の熱と甘味に琥珀色の瞳を見開き、二口目は慎重になりながらも、マリィは夢中でカップを傾けていた。
汁を吸った狐色の皮は柔らかく、しかしながら噛んだ時の歯ごたえも心地よい。奥歯で噛むと穀物の風味があふれ、甘さの中に旨味を与えている。カラカラの渇いた喉を撫でるように甘いスープが流れ落ち、空っぽだった胃が熱くなり、全身が気持ちよい暖かさに包まれていた。
カップの底の最後の一滴を飲み干したマリィは、安堵したように一息ついて――自分たちが今どこにいるのかを思い出し、緩んだ気を引き締めるように頭を振った。
「いやいや貴方だって、この森の噂を知らないわけじゃないですよねッ!? どれだけ危険な場所か知ってますよね? こんな風に、のほほんと甘い物飲んでる場合じゃないですって! あ、いや、カイチュー・ジルコは美味しかったですけど! 美味しかったですけど!」
コラテラ大森林は、どんなに熟練の猟師であっても日が沈む前には、この森から引き揚げると言われている。また彼らは、たとえ日中であっても、この森の奥地には絶対に立ち入らない。
一説によれば――酔っ払ったミルトンが歌っていたので真偽は非常に怪しいが――この森の奥には獣人部族の聖地があると言われ、そこに近づいた者は
この森の南に位置するエスカロンが境界都市と呼ばれる由縁も、森から南下する獣人部族と人族との『境界』だからだ。
右肘の痛みも忘れてまくし立てたマリィに、エイハブは十分に冷めた手鍋からカイチュー・ジルコの残りを飲みつつ、のほほんと答えた。
「そうかい? 魔石化した鉄で造られた籠手と具足をつけた集団に比べたら、この森は遙かに安全だぜ?」
「は? えっ? 魔石?」
魔石化した鉄――その突拍子もない単語に、戦術魔導師であるマリィは一瞬思考が停止した。そして思わず呟いていた。
「そんなの、あり得ない……」
魔石。正式名称は魔染鉱石。自然が持つ微量な魔力が長い年月をかけて金属や宝石などの鉱物に沈着し、膨大な魔力を持つようになった鉱石のことだ。その希少性は言うまでも無く、例えば同じ重さの金と魔石化した金であれば、後者は千倍以上の価値がある。何せ、魔石に蓄えられた魔力は人間の保有する魔力量を軽く凌駕し、ほぼ無尽蔵。魔染鉱石を溶かし込んで造られた武器や防具は、冒険者ギルドでも
しかし、あのガントレットとグリーブが魔染鉱石で造られた防具だったとすれば、あの盗賊たちの異様な強さや脚力――恐らくは身体能力強化の
だが、それでも信じる事が出来ない。
「私、前に魔石を見た事ありましたけど、あんな大きな物じゃなかったですよ? せいぜい、ブローチ程度だったし……」
マリィも王都の学院にいた頃に、学院長が所有する
王都の学院の長でさえ、その程度の大きさの魔石しか持っていないのだ。ただの盗賊が四人分の――否、馬車を追いかけていた盗賊たちの数はもっと多かった。
あの人数分の魔石で造られた籠手と具足などという代物は、一国の軍隊か、それ以上に匹敵するだろう。マリィの戦術魔導師としての常識と照らし合わせても、そのようなものはあり得ないの一言に尽きた。
「なら、こいつはどう説明するンだね。お嬢ちゃん?」
愕然とするマリィを横目にエイハブは、背負い袋から薄汚れた右腕用のガントレットを取り出すとマリィの前に放り投げた。
咄嗟の事だったのと、左手が利き腕ではないことが重なり、マリィはガントレットを受け取れずに地面に落としてしまった。耳障りな金属音を立てて転がるそれは、あの盗賊――マリィを犯そうとしてエイハブに胴を泣き別れにされた男が着けていたものだった。見間違うはずもない。
あの時の恐怖がマリィの脳裏に甦る。胃が、肺腑が強い力で押し込まれたように縮み上がる。カイチュー・ジルコで温まった身体が急激に冷めていく気がした。酸い物が喉をこみ上げる前に、マリィは薄汚れた籠手を拾い上げた。
そして、取り落とした。
「嘘でしょ……こんなの、あり得ない……ッ!」
別の意味で吐きそうだった。
何の変哲も無い、古びて薄汚れたガントレットから若き戦術魔導師マリィ・サリィ・レイニィが感じ取ったのは、あの学院長の
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