駆け出し冒険者マリィの受難
「どうなってンのよ、あれッ!?!?」
城塞都市ラフトから南の商業都市バル・ベルデに向かうキャラバンの護衛として
「落ち着け、マリィ!」
彼女の名を呼んだのは鹿毛の騎馬で併走する金属鎧の青年――マリィの所属する
彼は、中堅冒険者の証でもある
「いいか、マリィ。キャラバンが野盗に追われるなんてのは、よくある事だ。その『よくある事』に対処するために俺たちは雇われてるんだ」
「ああ。そうだぜ、マリィ。こんなのは……まぁ――『よくある事』だぜ」
箱馬車の屋根で周囲を警戒していた弓手のアンバーがミルトンに同意する。彼は持ち手に橙色の布を二本巻いたロングボウに構えると、慣れた手つきで矢をつがえた。
「……ま、俺も走行中の馬車を走って追いかけてくる野盗を見たのは、これが初めてだけどなッ!!」
アンバーは冗談めかしていったが、マリィの目に映る光景は、まったくの冗談ではなかった。この馬車から数えて約十馬身後方に、二十名余りの集団が追いかけてきている。
それも走って。しかも駿馬に劣らぬ速さで。
「やべえぞ、旦那方! ありゃあ、きっとブート&ガントレット盗賊団だ!」
御者の老人が、恐慌一歩手前と言わんばかりに叫ぶ。ブート&ガントレット盗賊団の悪名は駆け出しのマリィも聞いた事があった。
一年前に突如として現れて以来、大陸各地を荒らし回っている流浪の盗賊団。レミーナ侯爵領で最強を謳った姫騎士を陵辱して殺害した事をきっかけに、大陸各地で暴れ回り、非道の限りを尽くしたと言われている。そのため、一味と首領には各国から多額の懸賞金がかけられていた。
冒険者ギルドでも討伐依頼が掲示されているのだが、依頼を受ける資格は
もっとも特徴的なのは、その装備だ。
伝え聞くところによれば、盗賊団の構成員は全員が揃いあつらえたように、赤茶けたフードと防灰マスクを被り、肘まで覆う
今、マリィたちを追いかけている連中も、同じ装備を着けていた。
「チッ! あれが本当にブート&ガントレット盗賊団なら勝ち目は無いぞ! 何とか距離を引き離すんだッ!」
「わかったッ!」
平原とは言えど、未舗装の街道を全速力で走っているため馬車の揺れは荒れた海上の小舟に等しい。しかしアンバーが放った矢は、馬車の揺れなど無いかのごとく的確に、砂埃を立てて走る野盗たちの先頭に直撃する――
直前、防灰マスクで覆われた頭に突き刺さるはずだった矢が、見えない腕に阻まれるかのように叩き落とされた。
「おい、嘘だろ――ッ!?」
引きつった悲鳴はアンバーのだ。間違いなく、アンバーの放った矢は寸分の狂いも無く野盗の先頭に当たるはずだった。
アンバーは、冒険者ギルドの階級では
そして駆け出し冒険者とは言え、王都の学院で学び、戦術魔導師としての資格を得たマリィは、アンバーの矢を阻んだ仕掛けの正体に気付く事が出来た。
「冗談でしょ……
少なくとも野盗程度が使うようなシロモノではない。
「あり得ない。あの
「爺さん! 前方に信号ッ! 状況最悪、全速力で逃走!」
いつもは冷静なミルトンでさえ声音に焦りを隠せていない。御者が手綱を振るって、警笛を甲高く吹き鳴らした。とにかく逃げろ、の合図だ。前方を走るキャラバン隊の馬車たちが、寝床から飛び起きた犬のように大慌てで速度を上げた。
「先頭にはバリウィスたちの護衛馬車がいるが、こちらまでは下がれない! 俺たちで何とか連中を引き剥がすしかない!」
「ったく、ツイてねえぜ! 昨日ならバリウィスのパーティが
盗賊団との距離は十馬身程度だが、徐々に差を詰められている。毒づきながらアンバーも続けて矢を放つが、やはり
「こンのぉっ!」
マリィは曇って視界を遮る防灰マスクを、半ば自棄気味に外した。帽子の中にしまっていた金色の前髪がぞろりとこぼれる。活火山があるわけでもないのに空中を綿雪のように舞う
頭からローブをすっぽりと被っていた古の魔術師と異なり、この大陸での旅装に必須である防灰マスクを除けば、冒険者であるマリィの服装は動きやすさを重視している。上着は鋼線を仕込んだ耐刃革ジャケット、膝丈まであるキュロットも同じく対刃製だ。靴の爪先にも鉄板が仕込んである。マリィは肌身離さず身につけているサイドポーチ――虎の子の全財産が入った財布もこの中だ――から小石を取り出し、手のひらに乗せた。
「
マリィの紡ぐ言葉に何の変哲もない小石が震え、ギチリと音を立てて小石の中から金属光沢のある立方体結晶が飛び出した。立方体はマリィの目の前で震えながら高速回転を始め、虫の羽音にも似た高音を奏でる。
「
ゴム底を擦るような甲高い音とともに、マリィの
それこそがマリィの狙い目でもあった。
「
再び撃ち出された回転立方体が地面に着弾し、轟音をあげて派手に土砂を巻き上げる。アンバーが箱馬車の屋根をゴンゴンと叩いて喝采した。
「いいぜ、マリィ! その調子だぜ! そのまま足止めしてくれ! 連中との差が開き始めたぞ!」
「りょう……か、いッ!」
集中力を途切れさせぬよう慎重に魔力を注ぎながら、マリィは次弾を生成し始めた。本来
この術は
しかし、人間一人を昏倒させる程度の振動であれば、初歩の術だけあってそれほど難しいでもない。だが、地面を吹き飛ばして土砂の煙幕を作るほどの振動となると話は違ってくる。充填させる魔力量を見誤れば自分の手が吹き飛びかねないし、何より礫弾一つ生成するのに魔力を大量に消費する。
「ふ――っ、は――……っ!!」
視界が瞬断し、息が詰まる。足を踏ん張らねば、馬車の揺れに転びそうになる。深く息を吐きながらマリィは再び手のひらに意識を向けた。
貧血にも似ためまいは体内から魔力が失われた証拠だ。油断すれば嘔吐とともに気絶しそうだった。今生成しているものを含めれば、礫弾は残り二つしか作れないことが、マリィには容易に想像がついた。
「
三発目を放ち、衝撃に備えて馬車の窓枠にしがみつく。三度目の爆音と振動に胃の腑の不快感が喉元に跳ね上がる。粘性のある黒い液体が鼻孔から流れ、唇に触れた。鼻腔に鉄臭さが広がり、舌先は血の味を感じ取っていた。鼻血だ。赤よりも黒みの強い血液は、魔力を使いすぎた戦術魔導師によくある症状だった。マリィは流れる鼻血をそのままに、血の味と酸い匂いのする唾を飲み込んで最後の礫弾生成を始めた。
そう。これが最後だ。これ以上、この破壊力を持った
だが、その懸念は屋根上のアンバーの歓声が打ち消した。
「やった! 連中、足を止めたぞ!! ミルトン、御者の爺さん、今のうちだ!」
巻き上がる土煙の向こうで、盗賊たちが足を止めたのがマリィにも見て取れた。キャラバン隊の御者たちが次々に雄叫びをあげ、馬を打つムチの音を響かせる。護衛馬車の御者も馬車を加速させた。盗賊たちの姿が遠くなってゆく。馬車に並走するミルトンも馬の腹に蹴りを入れてスピードを上げた。
「いいぞ! このまま逃げ切ろう! この速度で半日走らせればエスカロンにたどり着く。あそこにはバル・ベルデの騎士団が常駐している!」
たとえ悪名高い連中でも騎士団とコトを構えるのは避けるはず――何一つ根拠は無かったが、ミルトンの案に異議を唱える者はいなかった。
「か、は──っ」
息を吸っていたのか吐いていたのか、その程度のことさえ忘れるほどの緊張が解け、マリィの喉で砂っぽい外気と湿った呼気がぶつかって咳き込んだ。十七歳とは思えない中年じみた盛大な咳に、アンバーが屋根上から笑った。
「マリィ、吐くのはエスカロンに着いてからにしてくれよ!
「う──げっへぇ、げっほ──っさいな! ちょっと気管に──ごほっ、うええっほ──入っただ……うぼぇぇぇぇぇ」
「……マジで吐いてンのか」
密室での大惨事だけは避けられたのは重畳だと褒めてほしい。窓から頭だけを出して盛大に戻すマリィの頭上に、呆れたようなアンバーの声が降る。吐き戻しながら、マリィは頭上に怒鳴り返した。
「仕方ないじゃんか! あんなに魔力使ったの学院の連続耐久試験以来だもんっ! 体内魔力を急激に消費すると劣化して黒化するのっ! そのせいで頭や内臓が気持ち悪くな──おげぇぇぇぇぇ」
「あー、よく分かんねえけど運動不足のくせに長距離走ったヤツと同じ顔色だぞ、お前さん」
「だいたい、そんな感じ……あ
今朝の食事だったものをすべて吐き出したせいで、脇腹が縮むように痛む。腹筋が引きつる痛みに涙がにじむ。直接殴り合ったわけでもないのに満身創痍と行って差し支えのない状態でマリィは、ぼんやりと後方に視線をやった。盗賊たちの姿は、既に遥か彼方──
ゴトン、と屋根で音が鳴った。
硬くて重たいものが、屋根に当たったような音だった。
「アンバー?」
マリィは振り返るように屋根を見上げ、上にいるはずのアンバーに声をかけた。
がたん、と馬車が小石を跳ね飛ばして大きく揺れる。
まるでマリィへの返事の代わりとでも言わんばかりに、革鎧を着た胴体が──首のないアンバーの身体が、鮮血を噴き上げなから屋根の上から落ちていった。
酸鼻極まりない光景に、全て吐き出したはずにも関わらずマリィの胃の腑は震え、肺がすくみ上がって声が詰まった。
「アンバー────ッ!!!!」
並走するミルトンが絶叫した。
彼は驚きの表情を浮かべていたが、身に染み付いた冒険者としての彼の経験が、反射的に視線を屋根の上に向けさせ、腰の長剣を抜き放たせていた。
直後、長剣がへし折れる音とともにミルトンが落馬する。
まるで猛禽がネズミに襲いかかるがごとく、屋根の上から飛びかかった男の蹴りがミルトンを鞍の上から、文字通り蹴落としていた。
信じられない光景だった。馬車と同じ速さで走る馬上の騎手に蹴りを叩き込むなど人間業ではない。男は乗り手を失って困惑する馬の背を蹴って跳躍し、落馬したミルトンに襲いかかった。
「ミルトン──ッ!!!!」
よろめきながら立ち上がった彼の姿が遠のいてゆく。落下の衝撃で意識が朦朧としているのだろう。ミルトンは緩慢な動きで折れた長剣を振り上げ、襲撃者の攻撃を防ごうとする。だが遅すぎる。襲撃者の黒鉄色に鈍く光る拳は、ミルトンの兜を中身ごと打ち砕いた。
「だ、旦那方! いったい、どうしたんで──ひぎゃあああああッ!?」
今度の悲鳴は御者台からだ。
何者かによって御者が放り捨てられた。馬車が跳ね飛ばした小石のように、しかし肉が潰れ、骨が砕ける音を立てて痩せた老人が転がってゆく。
マリィは慌てて顔を引っ込めて窓を閉めた。
(どうなってンのよ、これッ!?!?)
心臓が早鐘を打つ。冒険者になって三ヶ月。ゴブリン退治の依頼でゴブリンの巣穴を燻したら、たまたま中にいたオーガの群れに囲まれたり、薬草採取の依頼で
(どうする……どうするって言っても、このまま立て籠もったところで勝ち目はないし、なんとかして逃げないと──)
御者台から聞こえる馬をなだめる男の声は、当たり前だが投げ出された御者ではない。馬車の速度はゆっくりと落ちていた。これだけのスピードが出ているのだ。いきなり馬を止めれば馬車が横転しかねない。相手もそれぐらいは考えているようだ。
(もう、これしかない……ッ!)
マリィは意を決し、脱ぎ捨てた防灰マスクを拾って懐にしまうと箱馬車のドアに身体ごとぶち当たった。
赤砂平原は、その名前の通り、平原の大半が赤い砂で覆われているが砂漠というわけではない。まばらに生えた草むら目がけ、マリィは馬車から飛び降りた。
「が──――ッ!」
いくらスピードが落ちていたとはいえ、走行中の馬車から飛び降りるのは自殺行為だった。放り出された御者のように首が折れ、頭が陥没してしまっては飛び出した意味がない。
以前アンバーに教わった受け身の取り方を、もう少し練習しておけば良かったと後悔しながら草の上を転がる。幸い、首が折れることはなかったが強かに打ちつけた手足が痺れるように痛む。露出していた肌が枝葉で擦れて血がにじんでいる。
だが、痛いのが何だ。まだ死んでない。
マリィは歯を食いしばって立ち上がり、生き延びるために駆け出した。
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
とは言え、
この心音も呼吸音すらも、あの盗賊たちに聞こえてしまうのではないか――そんな恐怖心が湧き上がってくるが、マリィの理性はそれを否定した。
確かに
だが、それらの術は基本的に瞬間的な効果しか発揮しない。言ってみれば
(……いや、一つだけ連続で
いや、あり得ない。思い浮かんだ可能性は冗談じみたものだ。マリィは思考から推論を追いやると、サイドポーチから応急手当用の軟膏を取り出して擦り傷に塗り込んだ。声を上げたくなる痛みを飲み込み、息を整える。
(さて……これからどうしたものか……キャラバン本隊は逃げ切れたと良いのだけど……)
一息ついた事で状況を整理する余裕が出てきたようだ。マリィはポーチの中身を確認しながら、次に取るべき行動について思考を巡らせた。
(追っ手に見つからないのは当然としても、さすがに、ここからラフトに戻るのは厳しいかな……せめて途中に立ち寄った村落まで戻れたら良いのだけど……)
これは距離の問題だ。出立して一日目ならば採用する出来る案だが、馬車で三日と離れた都市に徒歩で戻るのは、体力的にも厳しい話だ。だからと言って、補給で寄った小さな村を目指すのも、今のマリィには選べない選択肢だった。
(……野生動物やゴブリン程度なら、あの小村でも大丈夫だろうけど、相手がブート&ガントレット盗賊団じゃあ余計な被害を出すだけ。少なくともエスカロンみたいに騎士団が詰めている街か、バル・ベルデの巡回騎士隊が逗留している村にたどり着かないと駄目)
単純に戦力的な問題だった。ミルトンとアンバー、ランクは低いがベテランの冒険者二人をあっと言う間に倒してしまった連中が相手では、ただの村人たちに勝ち目は無い。あの光景を目の当たりにしたマリィには、騎士団なら勝てるとも断言は出来なかったが、それでも数と武力があれば援軍が来るまで持ちこたえる事も可能だろう。
(やっぱエスカロンに向かうのが一番か……)
ポーチの中にあったのは、非常食の干し肉と携帯水筒。方位磁石。財布。替えの下着。火口箱。折りたたみ式の手鏡。東国伝来の藁半紙と万年筆。
マリィは十数秒間だけ――この水薬に支払ったファラミィ金貨七枚は、駆け出し冒険者の一ヶ月の宿代と同額――逡巡していたが、意を決して小瓶を開けて中身に口をつけた。
(げ――ゲロ不味……っ!!)
口に含んで後悔する味とはこのことか。甘い香料と砂糖で誤魔化しているようだが、獣の胆汁と古びた車輪油を煮詰めた液体に三日三晩呪いの言葉を注いだかのごとき地獄の体現が、マリィの舌の上で「俺様の前衛的なワルツを見ろ」と言わんばかりに跳ね狂っている。
まさか間違って長く苦しんで死ねる毒薬を買ってしまったのか。金貨七枚で――と後悔するも吐き出すのは勿体なくて出来ない。マリィは馬車を飛び出した時以上の勇気でポーションを飲み干した。
胃酸で荒れた喉を吐瀉物以下の味をした液体が滑り落ちてゆく。水薬の染み渡った胃の腑が火酒を飲んだかのように熱くなった。味は最低最悪を通り越して呪術か地獄の何かであったが、効果に間違いは無かったようだ。マリィは体内の魔力が戻ってきているのを感じていた。
マリィは岩のくぼみに空き瓶を無造作に置くと、ポーチから取り出した地図を開いた。旅道具屋で買った安物の地図だが精度は悪くない、というのが店主の言だ。この地図ではエスカロンは赤砂平原の南、コラテラの大森林を越えた先にある。
大森林は腕の良い狩人でもためらう悪路だ、とマリィは以前にアンバーから聞かされていた。彼曰く、コラテラ大森林には人間に敵対的な獣人部族が集落を作っているとの噂がある。エスカロンに向かう旅行者や隊商は余程の理由がない限り、大森林を迂回する街道を通るのが一般的だ、とも。
現在地は赤砂平原の――どの辺りかは分からないが、地図に描かれた目印になるような物は見えなかったはずだ。光を反射しないように注意を払いながら、岩陰から手鏡を使って周囲を確認する。だが、やはり地図に書かれた目印は視認できない。
襲われたのは午前中だった。マリィの体感では、それほど時間は経っていないように思えたが、太陽は既に直上を過ぎていた。あと数時間もあれば、沈む夕日が西を教えてくれるだろうが、それを待っている余裕は無い。方位磁石があるのだから、それで方角を知れば良いだけの話だろう。
(……やっぱ、ここからエスカロンに向かうには、一度、街道に戻った方が良いのかもしれない。だけど、このまま南に進んで森を突っ切るのと街道で連中と鉢合わせるリスク、どっちが最悪かと言ったら――)
自分のような駆け出し冒険者程度なら、あの盗賊団が見逃す可能性もあるだろう。だが、マリィはその可能性は思い抱かないようにしていた。
自分に都合の良い可能性は排除すること――パーティリーダーであったミルトンが、常日頃から彼自身に言い聞かせていた言葉だ。見通しの甘さでよく失敗する、と苦笑していた彼を思い出して、マリィは唇を噛んだ。
ここ三ヶ月の想い出が次々に浮かんでくるが、感傷に浸っている場合でも、仲間の死を悼んで泣き叫ぶ場合でもない。
だが――
「おーい。魔導師のガキはいたか?」
「いいや。こっちにはいねえな。そっちはどうだ?」
「こっちにもいねえな。だが、足跡はこっちの方に向かってた。アレが大魔導師でもなきゃ、
「あとは……そっちの岩陰か。おい、カルロ。ちょっと、その岩陰見てこい!」
「……おう」
目頭にたまった涙を袖で拭ったマリィは、不意に聞こえてきた男たちの笑い声に身体を強張らせて息を飲んだ。
追っ手だ。声と気配は四人。そのうちの一人の足音は、マリィの隠れる岩陰に近づいてきていた。
(マズい――っ!)
マリィの鼓動が早まる。想定以上に最悪だ。
なるべく音を立てないように息を潜めながら、ポーチに手を突っ込んで中の小石袋をまさぐった。いざとなれば、多少回復した魔力で
いっそ触媒無しで術を使うか――いや、それは最悪中の最悪の選択だ。
触媒無しで精霊と契約するのは不可能ではない。駆け出しのマリィであっても、背にした岩や、それこそ大地そのものと
カルロと呼ばれた盗賊の足音はどんどん近づいてくる。発見されるのも時間の問題かもしれない。
(この方法は取りたくなかったけど――)
マリィは小石を取り出すのを諦め、最後の手段の実行を視野に入れた。背にした岩を触媒にする。小石に比べれば遙かに大きい触媒だが、大地そのものを
「――――おーい!
あと三歩、と言ったところで盗賊の足音が止まる。カルロに岩陰を見るよう命じた男の大声は、マリィの耳元にも届いていた。かすかな衣擦れの音はカルロが振り返ったのだろう。
「はぁ? あの魔導師のガキは追わなくて良いンですかい? きちんと見つけ出してシメときましょうよ」
いいから! 追わないでいいから――と叫びたい気持ちを喉奥に押し込める。
「
「兄貴ぃ、勘弁してくれよ。キャラバン隊に居た他の女は、
「愚痴ってねえで、さっさと戻れよカルロ。
「へいへい。分かりました、よッ!」
引き返す間際、カルロが岩を腹立ち紛れに蹴りつけた。鉄棒でも叩きつけたかのような強い振動がマリィの背中に伝わる。
(――――――――ッ!?)
思わず声が出そうになるのを手で押しとどめ、マリィは息を殺して数分前の自分を呪った。岩のくぼみに置いた水薬の小瓶が、岩が蹴られた衝撃で、くらりと傾き――マリィの肩に当たって、地面に落ちて、割れた。
「そこにいるのは誰だッ!」
「
カルロの誰何の声が飛ぶやいなや、マリィは術を発動させた。大岩から突き出た一抱えもある円柱が、真横に居たカルロを盛大に弾き飛ばす。
「くぅ――っ!」
ぞろり、と岩に触れた手のひらから血が抜けていくような錯覚。急に立ち上がって走り出したせいもあり、ひどい目眩いもする。だが構わずマリィは駆け出した。
「このガキぃ――――ッ!!」
「かはっ!?」
しかし走り出してすぐさま、背中に重い一撃を受け、マリィは勢いよく大地に突っ伏した。何が起きたかも分からず、しかし素早く立ち上がろうとするが、今度は脇腹を襲った衝撃に吹き飛ばされた。まるで丸太のように転がされ、赤砂平原の由来ともなった赤い砂まみれにされるまで、マリィは自分が何をされたのかが分からなかった。
「よくもヤリやがったな、このクソガキが!」
「落ち着けよ、カルロ。お前の希望通りになったじゃねえか」
怒り心頭のカルロとは対照的に、男たちはカルロを茶化しながら下卑た口ぶりで笑う。それが癇にさわったのだろう。怒りを仲間にぶつけず、カルロはマリィの右肘を踏みつけた。ぐしゃ、という余りに現実味のない音がした。痛みは、頭が認識して初めて訪れた。
「いぎぃいいいいいい――――――――――ッ!?!?!?」
マリィ本人でさえ、初めて聞く声がマリィの喉を裂かんばかりに噴き上がる。
悲鳴を上げる少女を見下ろす男たちの視線は、防灰マスク越しの三人の冷ややかなものを除けば、カルロ怒りと劣情に満ちた獣のような眼差しだけだった。その目は、これからマリィに何をするか雄弁に語っていた。
「手こずらせンじゃねえよ、クソガキが」
「おいおい。俺は女を痛めつけながらヤる趣味はねえぞ。カルロ、俺たちは向こうで待ってるから、さっさと済ませろ」
「へへっ……すぐ終わらせますよ。自慢じゃねえけど、俺は早いんでさぁ」
男たちがマリィの傍から離れると、カルロはガントレットを着けたまま、ガチャガチャとベルトを外してズボンと下穿きを下ろした。
そして、そのままマリィに覆い被さり――
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
嫌悪と激痛に悲鳴を上げるマリィの顔に、べちゃりと生臭く温かいものが撒き散らされた。マリィには、それが何か一瞬分からなかった。いや、犯される直前だからこそ、彼女は理解を拒んだのかもしれない。
いわゆる変態行為の一つとして、自分の欲望で女性の顔を汚す事に性的興奮を覚える男がいる――また汚される事に悦びを覚える女性もいるらしい――と学院の同級生から聞かされていたマリィは、カルロがそういう類いの男だったのかと理解しつつも自分の心を護るために理解を拒んだのかもしれない。
だが、砕かれた肘の痛みで今にも気絶しそうなマリィが見たのは、横から飛んできた分厚い鉄板がカルロの胴体を横薙ぎに切断した瞬間だった。
「え――――――?」
間の抜けた言葉は誰のものだったのだろうか。横合いからの衝撃によって吹き飛ばされたカルロの上半身は血しぶきを撒きながら、風に弄ばれる糸の切れた凧のようにグルグルと回転し、頭から大地に墜落する。
カルロの下半身は、マリィに覆い被さる事なく横倒しになり、むわりとした血の匂いと――血とは異なる生臭さ――を一面に吐き散らかした。
「お、おい。カルロッ!?」
「何だ!? 何が起こったッ!?」
突然のことに、さすがのブート&ガントレット盗賊団の盗賊たちも色めき立つ。全身を襲う痛みにこらえて身体を起こしたマリィが見たのは、カルロを二分割した鉄板――北方の蛮族たちが使う
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます