第5話 神のご加護を
玲緒奈は堪らず朝一番に事務所を訪れ、里子を驚かせた。
「こんな時間に来るなんて、どうかしたの?」
里子はすぐに玲緒奈の様子が尋常でないのに気付いて訊ねた。
「呪いの正体が分かりました。蛇です! 蛇なんです!」
「蛇?」
里子は興奮する玲緒奈を落ち着かせ、話を聞いた。話を聞くと、
「なるほど、やっぱりライバルの子か。それで白蛇ね。蛇って、日本じゃ女のイメージだものね」
と納得した。玲緒奈が首を傾げると、
「西洋だと、ほら、楽園でイブをたぶらかしたみたいに、蛇って言うと悪魔の化身、男のイメージじゃない? 日本では道成寺の清姫で、女の嫉妬の象徴みたいじゃない?」
玲緒奈はますます分からないで、里子は苦笑した。
「歌舞伎の『娘道成寺』で有名な伝説で、美形の僧、安珍が、旅の途中豪族の屋敷に一夜の宿を借りるんだけど、そこの娘、清姫が、安珍に一目惚れしちゃって、夜ばいをかけるのね。安珍は辟易して、わたしは修行の身であり、これから熊野にお参りに行くところであるから、今はあなたの好意にお応えできません。帰りにまたきっと寄りますから、それを待っていてください。と言い訳してはぐらかすの。で、清姫は安珍の帰りを今日か明日かと待ちわびているんだけど、安珍にその気はないから帰りは寄らずにさっさと素通りしちゃって、それに気付いた清姫は怒って裸足で追いかけるのね。ようやく追いつくんだけど、安珍は、人違いでしょう、わたしは安珍なる者ではありません、って苦しい言い訳をしてますます清姫の怒りに油を注いで、寺のお坊さんに頼んで法力で清姫を金縛りにしてもらった隙に逃げ出して、ここに至って清姫の怒りは大爆発、ついに大蛇に変身して、野を越え川を越え安珍を追いかける。安珍は道成寺に逃げ込んで、鐘楼の鐘を下ろしてもらってその中に隠れるんだけど、清姫の大蛇は鐘に巻き付いて、火を吹いて、安珍を焼き殺し、自分も川に飛び込んで死んでしまうの」
里子は思い出し思い出し、面白おかしく説明してやった。
「うっわあー……、そりゃ美形のお坊さんがかわいそうだわ。そのお姫様、思いっきり肉食系じゃない? 裸足で追いかけるって、ゴリゴリのアスリート系?」
玲緒奈も笑って、少し元気になった。
「はい、これ、約束の」
里子は鞄を取って、神社でもらってきたお札を取り出し、玲緒奈に渡した。
「わあ、ありがとうございますう。もう神様、里子様しか頼れる物がありませんー」
玲緒奈は両手で差し上げてありがたくちょうだいした。
「あ、思い出した」
お札の向こうから顔を上げて、里子に言った。
「里子さん、紅倉美姫って知ってます?」
「紅倉美姫? えーと、どこかで……」
「テレビに出ている霊能師です。昨日も出てました」
「ああ」
里子も思い出してうなずいた。
「それが?」
「わたしの大学にその人の弟子がいるんです。芙蓉美貴って子で。彼女も昨日、けっこう大々的に出てました」
「ふうーん。それで?」
「昨日大学でその子にちょっと相談してみたんです。芙蓉さんは自分には幽霊を見る力はないから分からないけど、先生に訊いてみます、って言ってくれたんだけど……」
里子はあまりいい顔をしなかった。
「うーん……。そういう人にはあんまり関わらない方がいいかなあ……」
「そうなんですか? でもテレビでけっこう人気あるみたいですよ?」
「ああいうのに関わると後が恐いから……
この業界は信心深いって言ったでしょう? 確かにそうなんだけど、それは伝統としてやっている意味が強くてね。お岩さんのお墓にお参りするのも、元々は歌舞伎の興行の宣伝だったって話よ? 信心深いのは本当。でも、そこにつけ込まれて悪質な霊感商法に引っかかってしまう人が業界で多いのも事実。ワイドショーでそういう話ってよくあるでしょう?」
「壷が1個何百万とか?」
「そう。そういうのに捕まっちゃうと、怖いわよお?
……紅倉美姫さんねえ。
今のところ評判はいいみたいだけど、大きく取り上げられれば取り上げられるほど、後で化けの皮がはがれたときの反動も大きいわ。
頼るんなら、やっぱりちゃんとしたお寺や神社の方が無難ね」
里子は玲緒奈の手にするお札を指し、
「それ、けっこうするのよ~?」
といたずらっぽく言い、玲緒奈を苦笑させた。
玲緒奈は某有名な神社の名前の入ったお札をまじまじ見て、
神社なんて、お年始や夏祭りの時にお参りしてるけど、ご利益なんてあったのかしら?
こんなお札1枚であの呪いを退散できるのかしら?
と、今ひとつ頼りなさそうに思っていると、
「今夜もまた蛇に苦しめられるようだったら、今度は一緒にお祓いを受けにいきましょうね?」
と里子が言ってくれた。
「はい。ありがとうございます」
玲緒奈はもう一度お札を両手で頭上に差し上げてお礼を言った。
そうだ、わたしには里子さんがいる。里子さんを信じていれば間違いないわ!
と、にっこり笑った。
「そうそう、とびっきりの新着情報があるのよ?」
里子は気持ちを切り替えるように明るい声で言い、デスクのパソコンに向かうと、情報を出し、玲緒奈をとなりに呼んで見せた。
某海辺の大型コンベンションセンターで行われる、国内外の一流メーカーが参加するマリンスポーツ全般の展示会だ。
「夏を前に一般ユーザー向けの展示会だから、テレビの情報番組の取材も入って華やかよ? コンパニオンの選定はオーディション。大方の展示ブースはイベントプロモーターが一括でキャスティングするから、これも大掛かりなオーディションになるわよ」
里子は周りの社員から隠れるように玲緒奈の耳元に口を寄せ、こそっと囁くように言った。
「プロモーターは某一流モデル事務所の子会社なの。事務所にスカウトする女の子のオーディションも兼ねているから、これは、チャンスよ?」
里子は耳元から離れるとバチッとウインクし、ニッと笑った。玲緒奈も目を輝かせてニッとなった。
「頑張ってね!」
「はい!」
なんだかもう、呪いのことなんかすっかり頭から飛んでしまった。
玲緒奈は午後の講義に出るため大学にやってきた。
すると、またしても、まるで待ち構えていたように芙蓉美貴がエントリーコートの真ん中で門の方を向いて突っ立っていた。
グレーのシャツに黒のパンツといういかにも彼女らしい締まった出で立ちだが、なんだか不吉の影であるように思えて、玲緒奈は気分が重くなった。
「こんにちは」
とお辞儀されたので、こちらも
「こんにちは」
と挨拶した。
「昨日も悪夢を見ましたか?」
「うーん、ちょっとね。あ、でももう大丈夫、事務所のお世話になっている人がわざわざ大きな神社からお札をもらってきてくれたの。あなたにも余計な心配させちゃってごめんなさいね? でも、これでもう今夜から大丈夫よ」
「そうですか」
芙蓉はぼくとつに答え、相変わらずまっすぐの視線で律儀に
「もしまた何かお困りのことがありましたら声をかけてください。わたしではお役に立てないかも知れませんが」
と、お辞儀し、長いストライドで颯爽と歩いていった。
彼女が何故ここに立っていたのか、謎だ。
まさか、ずーっとわたしを待っていたんだったりして。まさかね。
玲緒奈は芙蓉にちょっと後ろめたい気もしたが、具体的な「先生」の話にならないでほっとした。
里子が忠告したように、ああいう人とはお近づきにならない方が無難ね、と思った。
そしてまた、夜になった。
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