ウイスキーとグラスの水

 シンクに転がったウイスキーの空瓶は、数滴内容物が残っていた。老いた男は舌打ちと共に冷蔵庫を開け、酩酊状態の体にアルコールを注ぎ込む。何度かせ返りながら、彼は直飲みした瓶を叩きつけるようにテーブルに置いた。

「父さん、さすがに飲み過ぎだよ」

「……そうかもな」

 フレッドはいつものように心配する態度を選択すると、温めておいた手で父親の背中を撫でる。冬になれば毎日行う恒例行事だ。


 三年の月日が経ち、父の背中は少し丸くなった。顔色も青白くなり、アルコールの作用で辛うじて健康的な色を装っているかのようだ。何度も咳き込むようになり、食事の量も減っていた。

 対するフレッドは変わらず故障のない健康体で、三年前から外見の変化は全くない。洗練された動作と会話能力の高さは、続けてきたラーニングの賜物だ。


 机上に並べた精巧なロボットの模型を眺めながら、フレッドは俯く父親の様子を伺う。椅子の上でうずくまるように眠る彼は、常に眉間に皺を寄せていた。

 体の重さを訴え、父親が夢のロボットを作ることはなくなった。唯一できている模型だけは妙に精巧で、彼のかつての熱意の強さを如実に表している。


 数十分後、来客用のブザーが鳴った。父親はぴくりと反応し、ふらつく足取りで玄関へ向かう。フレッドは言いつけに従うように身を屈め、自らの存在感を消した。

「ブルーノさん、役所の者です。先日の不審火騒ぎの件について、お話を……」

「……あれが不審火だと? れっきとした放火事件じゃないか。街の不良どもが肝試しの延長で外壁に火を付けた。私はこの目で見たんだ……」

「どちらにせよ、です。今回は小火ボヤで済んだから良かったものの、その耐火性には疑問がある。こちらとしては住環境を見直すべきだと考えています。役所で手続きをしていただければ、街に新たな住居をご用意……」

「断る。私が骨を埋めるとすれば、ここでしかないんだよ。それに、フレッドも居るんだ。なおさら、街には行けない」

「……お言葉ですが、息子さんはもうお亡くなりになられたのでは?」

「……帰ってくれ! 私の目が黒いうちは、ここを引き払う気はない!!」


 乱雑にドアを閉める音とともに、父親は怒りの面持ちで食卓へ戻る。冷蔵庫のウイスキーに手を伸ばそうとし、フレッドの視線に気付いて静止する。彼はぶつぶつと呪詛めいた罵倒を呟くと、神経質そうに頭を掻いた。

「連中は本音を隠すから困る。何が『新たな住居をご用意』だ! 本音はこの工場を取り壊したいだけだろうに!」

 立ち入り禁止の看板を増やす、と息巻きながら、父親は苦々しげに顔をしかめた。胸を押さえ、青白い顔はさらに血の気を失っている。ふらついた足取りで数度ステップを刻み、フレッドが慣れた手つきで肩を貸した。

「薬、取ってくるね」

「悪いな……」

 ぜえぜえと息を切らし、父親は震える手をなんとか押さえた。彼の体の異常は、確実に命を蝕み続けていたのだ。


 硬いベッドに身体を預け、父親はグラスの水で唇を潤す。何度も咳き込んだ口内には血が滲み、滑らかに液体が通るたびにずきずきとした疼きが体に過ぎった。

「フレッド、フレッド……」

「ちゃんと居るよ、父さん」

「フレッド、お前は……本当に強くなったな……」

「強くなるように育ててくれたからね」

「フレッド……私がいないと、お前は……」

 息を吐きながら話す父親の姿を視界に収め、フレッドは訥々と会話を続ける。いつか来るとは理解していた終わりが、すぐそこまで近づいている予感を感じながら。


「ここで……ここで、電源を切らないか?」

 唐突な提案だった。フレッドは、自らを生んだ存在に死を推奨されているのだ。

「…………!」

 だが、フレッドの思考はクリアだった。役割を全うした玩具が捨てられるのと同じことだ。父親が苦悩しながら考えた末の提案なら、それに従うことで役割を終えるつもりだ。

 彼は目を瞑り、父親の行動を待った。機能停止を命令する言葉ひとつで、フレッドの電源は消える。


 数十秒の間、寝室を静寂が包み込む。息を張り詰めさせる痛々しい沈黙の後、父親はおもむろに口を開いた。

「いや、やめだ……。私が死んだら……お前は、自由に生きろ……」

「……えっ?」

 狼狽するフレッドを尻目に、父親は一筋の涙を流した。

「今まで……付き合わせて、悪かったな。私という厄介事が消えたら、お前は好きに生きるんだよ……自分のやりたいことを、やりたいようにやるんだ……」

「いや、でも、そんなこと——」

「やっと、んだな。フレッド……」

 それきり、父親が口を開くことはなかった。


 冷たくなっていく亡骸を呆然と見つめながら、失業したアンドロイドは今後の身の振り方を黙々と思考し続けていた。

 “自由に生きろ”という命令は、彼にとっては暗黒の荒野に一人取り残されたようなものだ。主の役に立つことが存在意義である彼に自らの望みを抱く機能はなく、自己矛盾がぐるぐるとワーキングメモリを圧迫し続ける。

「自由に……生きる……」

 この矛盾を解決するための答えを、アンドロイドは一つだけ考案していた。自らの意志で、フレッドの父親の行動を引き継げばいい。亡霊を新たな主人にするのだ。


 父親はフレッドに向かい、“工場を存続させること”を繰り返し主張していた。それが彼の最後の願いだとすれば、身体が朽ち果てるまでその願いを叶えればいいのではないか。

 工場を存続させるためには、責任者たる父親が死んでいることを周囲に気づかれてはならない。幸いにも、アンドロイドにはラーニングによる肉体のコピーが可能だ。

 アンドロイドはメモリから蓄積された三年間の視界を思い返し、父親の表情や口調のラーニングを進めていく。思考も、言葉選びも、癖も。全てがアンドロイドにコピーされ、少年の体は徐々に老人の体へモーフィングされていった。


「……生まれ直してやったよ」

 嗄れた声が喉から伸びる。彼の身体は模倣の域を超え、生前と寸分違わない姿だった。

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