第4章 鳴動

 翌朝、フックは身なりを整え、 鴇羽楼を訪れた。


 玄関前に着き、いつものようにラファの部屋を見上げるが、窓は閉ざされている。気のせいか、このところいつ見ても窓が開いていた事が無い。


 さて、と気合いを入れフックが鴇羽楼の門をくぐろうとしたその時、ふと、自分を見つめている者の視線に気づいた。目を遣ると、 鴇羽楼の玄関周りを掃除している下女が、路地の角からこちらの様子を伺っていた。


 ここ最近、この辺りを通ると見かけるようになった女だったが、近くで姿を見るのは初めてだった。


 女は箒を持ったままフックの動向を伺っていたが、日除けの為か埃避けなのか、すっぽりと顔をヴェールで覆っている。


 なんだろう?と訝しんだフックだったが、 鴇羽楼の下女なら丁度良い、あの女からラファの様子を聞いてみよう、と女に声をかけた。


「こんにちはー」


 声をかけながらフックが近寄ると、女はとても驚いた様子で、慌てて店の中に駆け込もうとした。


「え?あ、待ってください!怪しい者じゃないです」


 だが女は止まろうとしない。


 勘違いされては面倒だ、と後を追ったフックは、なんとか追いつき仕方なく女の腕を掴んだ。


「僕はフックって言います。こちらの女将や、ラファさんとは知り合いです」


 瞬間、女の体が硬直したのが伝わった。


「······して」


 ようやく女が小さな声を出した。


「離して······」


「······え?」


 その聞き覚えのある声にフックが驚く。


 やがて、さめざめとしたすすり泣く声が女から漏れだしてきた。


「え······もしかして」


「ごめんなさい······」


 女はいきなりフックの手を振りほどくと、店の中に駆け込んで行ってしまった。


 フックはさすがに混乱したが、我に返ると意を決し鴇羽楼の玄関に入った。


「ごめんください」


 すぐに奥からマダム・カオが現れる。


「あらフックさん、お久しぶりですね」


「ご無沙汰しています」


「今日はお客様······ではないようですね······どうなさいました?」


 さすがにフックのただならぬ様子に気づいたようだ。


「女将さん······お話を聞かせてください」


「お話······でございますか?」


「ラファさんの事です」


 フックの気迫に観念したのか、マダム・カオはフックを奥に案内し、事情を説明した。


 ラファに身請け話が有った事。だがその夜に突然ラファに思わぬ事態が訪れ、身請け話も破談になった事。


「それで、今、ラファさんは?」


「······それが」


「外の掃除をしていた人がラファさんですね?」


「······はい」


 フックは心を決めた。


「······女将さん」


「はい?」


「······僕にはまだそんな資格は無いかもですが」


「?」


 声が上擦りそうになるのを堪え、フックは、


「ラファさんを身請けさせてもらえませんか?」


 と、頭を下げた。


「え······?」


 その後、妓楼の主であるエビーも加わり、フックとの間でしばらく話し合いが持たれた。


 最初は断ったエビーだったが、フックの真剣な様子に、ラファ本人が受け入れるなら、と最後は承諾してくれた。


 まともに客も取れなくなった以上、ラファの身請け代についても、妓楼が女衒に払った程度で良いとの事で、なんとかフックが工面できそうな金額で話はついた。


 後はラファである。


 フックはラファが寝起きしている奥の小部屋の前に通され、案内したカオは気を利かせ、帳場に戻って行った。カオが立ち去ったのを確認して、フックは部屋の中に向かって声をかける。


「ラファさん······」


 しばらく待つが、返事は無い。


「ラファさん、ごめんね、開けるよ?」


「来ないで!」


 部屋の中から拒絶する声が響く。間違いなくラファの声だ。


「話がしたいんだ、悪いけど開けるね」


「······嫌」


 いつものフックならそんな強引な真似はしないのだが、今だけは引けない。フックは強引に扉を開けた。


 中に入ると、ラファは部屋の隅で、顔を隠してうずくまっている。


 フックは静かにラファの隣にしゃがみ、そっと背中に手を乗せた。


「······嫌」


「ラファさん」


「帰ってください······」


「ううん、帰らない」


「嫌······」


 ラファは顔を伏せ、嗚咽の声をあげている。


「ごめんね、来るのが遅くなっちゃった」


「······」


「本当にごめん」


「······そうよ」


「うん」


「あなたがもっと早く来てくれれば······」


「うん」


 フックはラファの背中に両手を回し、そっと抱きしめた。


「······いやぁ······」


「うん」


 ラファは顔を伏せたまま一層激しく泣き出し、こぼれる涙がフックの衣服を濡らした。




 ラファの心は、この妓楼に来た時から凍っていた。


 大好きな母親や妹とも、もう二度と会えない。


 綺麗だ美人だ、と男たちに持て囃されることに対して、テナの農村しか知らないラファには実感が湧かなかったが、その容姿が有ればこそ妓楼の人達も大事にしてくれる。だからこそ生きていけた。


 でも、その容姿すら認めてもらえなくなった時、自分はどうなるのか? 他になんの取り柄もない我が身を思うと、不安で息が苦しくなることも有った。


 そして、そんなラファの恐れていた事が、あの夜、突如現実となってしまった。


 幸い、エビーの温情で、下働きとして住まわせてもらっているが、あの夜からラファの心はいっそう凍りついていた。


 もう······自分には何も無い。


 そんな時に、今更やってきたフックが、自分の身に起きた悲惨な出来事を、さほどたいしたことでも無さそうに話しかけてくるのが、正直腹立たしかった。


 そんなフックがまた話しかけてくる。


「ラファさん、ごめん。実はもうひとつ謝らないとなんだ」


「······?」


「怒んないでね?ホント、勝手に決めちゃって悪いんだけど」


「······?」


「ラファさんを身請けさせてもらうことにした」


「······え?」


「一緒に、僕の家に来てもらえるかな?」


「何言ってるの······」


 下を向いたままラファが呆れたように言う。


「ごめんね、勝手に」


「じゃなくて······マダムに聞いたんでしょ?私の事······」


「あ、うん聞いたよ」


「なのにどうして、そんな事が言えるの······」


「え······うーん、顔の事? でも、ラファさんはラファさんだしなぁ······」


 馬鹿にしている、あるいは冷やかしに来たのだろうか······もういい。


「······わかった。」


「······ん?」


「······見せてあげる」


「え?」


「これを見れば、そんなふざけた事言えなくなるもの」


 ラファはそう言うと、被っていたヴェールを外し、ゆっくりと顔を上げた。


 事前にカオから聞いていて良かった、とフックは正直に思った。そうでなければさすがに平然とできなかったかもしれない。


 聞いていたおかげで、フックは驚きの声を上げずに済んだ。


 ラファの両頬には、まるで手のひらの形をした火傷の痕のような赤黒い痣ができていた。


 どうやら、クウヤに触れられた時にできた痣らしい。


「······どう?これでわかったでしょ······」


 ラファの目から涙が滝の如く溢れている。

 きっとその心も悲鳴をあげているに違いない。


「あ、うん······辛い目にあったね······」


「え······? そうじゃなくて、身請けするとか······馬鹿な事言わずに、もう帰って······」


「ん、帰るならラファさんも一緒に、かな」


「······何言ってるの······この顔見てもそんな事······」


 ラファの目からは涙がどんどん溢れてくる。フックはそれを指で拭うと、


「うん。顔見て安心した。僕が好きになったラファさんの、綺麗な目のまんまだ」


「······え」


「それに中身はラファさんのまんまでしょ?自分がお腹空かせても、困っている人にわけてあげるような。違う?」


 ラファは何も答えない。


「んー、なんか答えてよ。あ、もしかして、僕の事・・・嫌い?」


 しばらくすると、ラファはゆっくりと顔を横に振り、静かに呟いた。


「······嫌いじゃない」


「あぁ良かった······安心したよ。だったら······」


「······?」


「ラファさん。来るのが遅くなっちゃったけど」


 ラファは黙ってフックを見つめていた。


 この娘と出会って自分は変わった。この子の存在が自分を変えてくれた。


 傍に居たい、そして傍にいて欲しい。


 厳しい道になるかも知れない。また泣かせてしまうかも知れない。


 でも······守ってあげたい。


「ラファさん······」


 万感の想いを込めて、フックはラファの手を取った。


「僕のお嫁さんに、なってくれませんか?」







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