第2章 邂逅

 水揚げ・・・客を取れるようになった娼妓を初めて揚げる儀式。代金は相場よりはるかに高額であり、貴族や大商人など名士がそれにあたる場合が多い。


 それを聞いたフックの胸中は複雑だった。


 コー伯爵の屋敷で今月の代金を受け取ったおかげで、そこそこまとまった金を所持しているが、それでも足りないだろうし、そもそもその金に手をつけるとパン工房が立ち行かなくなる。


 だが、とても気になる娘にまだ人の手がついていなかった事実に、驚きと安堵、焦りや無念など、入混ざった感情がフックの胸に去来する。


「フックさん、失礼ですがラファは諦めて、せっかくですのでマナミは如何です?」


 カオの申し出は至極当然だった。


 しばらく考え込んでいたフックは、


「女将さん、すみませんがそれは結構です。」


「あら、そうですか・・・」


「あ、今日来たそもそもの理由忘れてました。これ······いつもご贔屓頂いてるので良かったら」


 と、パンと焼き菓子をいくらか差し出す。


「あら嬉しい!美味しいですよねこの焼き菓子」


 そこでふと、フックは思いついた。


「女将さん、無理を承知でお願いがあるんですけど」


「はい?なんでしょう?」


「待合室で構いません。ほんの少しだけ、ラファさんとお話させて貰えませんか? もちろん何もしません」


「え······?」


「この通りです」


 フックは深々と頭を下げた。


 マダム・カオは困惑した様子だったが、

 水揚げが済むまで客を取らせられないラファは、言うなればただ遊ばせているだけである。


「分かりました。特別ですよ?あとこの事は内緒で」


「ありがとうございます!」


「折角ですので、フックさんのお菓子を頂くのにお茶を入れます。それを飲み終わるまでの約束でよろしいかしら?」


「はい」


 やがて、客用の待合室にフックが通されてしばらくすると、ドアをノックする音がした。


「どうぞー」


 フックの返事を待ってドアが開かれ、ラファが部屋に入ってきた。


「初めまして、ラファと申します」


 と、ぎこちなくお辞儀をしたラファだったが、その後どうしたものか、どこか所在無げな様子だ。


 さもあろう、そもそも男性客一人用の待合室、それも個室なので椅子はひとつしかなく、どうして良いかわからないのであろう。


「あ、ここどうぞ」


 察したフックが座っていたソファを端に詰め、隣りに座るよう促すと、ラファは素直にフックの隣に腰掛けた。香水の良い香りがフックの鼻腔をくすぐる。


 ただ隣に座っただけだとゆうのに、すでにフックは夢心地だった。間近で見るラファは、顔立ちももちろんだが、何よりもとても綺麗な目をしていて、いつまでも眺めていたいとフックに思わせた。


 しげしげと自分の顔を眺めているフックを訝しむかのように、やがてラファが尋ねる。


「あのぅ、ここに来るように言われたのですが、どんな御用なのでしょう?」


 ラファも妓楼の娘であり、ついこの間までは、妓楼一番の売れっ子であるマナミの下で見習いもしていた。この店での自分の役目はわかっている。


 マダム・カオの言いつけで、お客様が待っているから、とだけ言われ来てみたが、何故待合室なのか。もしかして自分の水揚げを検討している客なのだろうか?


 すると、


「あ、すみません。僕が女将に無理に頼んで、ラファさんに会わせてもらったんです」


「······そうなんですか」


「いや、その······店の外で見かけて、どうしてもお話がしたくて」


「はぁ······」


「······はい」


「······」


「······」


 元来が饒舌な質では無く、むしろ姉以外の女性と話すのは苦手なフックだった。一目惚れと言っても良いラファを前にして、すっかり舞い上がってしまい、満足に言葉が出てこない。


 だが、これでは無理に女将に頼んでラファに合わせてもらった意味がない。


 と、フックは気になっていた事を思い出した。


「あ、そうだ」


「?」


「店の前で女の人になにかあげてませんでした?」


「あぁ、はい。パンを······」


「やっぱり!どうしてなんです?」


「どうしてかと言われると······そうですねぇ、ほっとけないから?」


「困っていそうだから?」


「それもあるけど、あの人を見ると」


「うん?」


「母さんを思い出してしまって······」


「ラファさんの?」


 ラファが生まれ育ったのは、イブメルの街から南方にあるテナの村である。


 生家は代々、一帯の地主をしておりそこそこ裕福で、ラファも幼い頃は何不自由無く暮らしていたが、前の戦争で村の男たち共々ラファの父ネタロが徴兵されたあげく、前線に近かった為、村が備蓄していた食糧も根こそぎ奪われてしまった。


 残された一家はたちまち困窮した。


 その日やっと手に入れたイモを半分に割って、自分と妹のリンに与え微笑んでいた母ボタンの顔が、今もラファの目に浮かぶ。


 日に日にやせ細る母と、飢えて泣く妹。そして何もできない自分。


 やがて、とある知人の口利きで、ラファを女衒に売る話になった時、最後まで頑なに拒むボタンを他所に、当の本人ラファはすんなり受け入れた。


 自分が家族を救えるなら、と。


「あの女の人、クウヤさんって名前らしいんですけど、居なくなった娘さんを探しているんですって。それで、なんだか身につまされちゃって······」


「そうだったんだ······」


 ラファは黙って頷いている。


「でも、あの人にあげたパンはどうしたの?女将のあの様子じゃ、店からは貰えないんじゃ?」


「ですね······なので、私のを······」


「お腹空くだろうに······」


「まあ、慣れてますから······」


 そう言って笑うラファの笑顔はどこか寂しそうだった。かける言葉が見つからないままラファの横顔を見つめていたフックだったが、


「あ、そうだ、ちょうど良かった!」


 そう言えば、とばかりにフックは鞄から紙袋を取り出し、ラファに差し出した。


「え?なんですかこれ?」


「これ、僕が作った焼き菓子。お腹すいたでしょ?」


「いいの?」


「もちろん!食べて食べて」


 ラファは礼を述べて受け取ると、紙袋を開け、焼き菓子をつまんで口に入れた。


「あ、美味しい······」


「ホント?良かった。僕、菓子職人なんだよね」


「お菓子屋さん?」


「あ、店はパン屋なんだけどね。ごめんね、さっきまでパンも有ったんだけど、女将に全部あげちゃった······」


「いえ、これで充分です。すっごく美味しい」


 ラファはそう言って、フックに微笑む。


 清らかで可憐、でもどこか儚げで、そんなラファの笑顔をフックは目に焼きつけた。


「ラファさん、ごめん。そろそろ行かないとだ」


「え? はい、そうですか······」


「ご覧の通りしがない菓子職人、すぐには無理だけど」


 ラファは何も言わずフックを見つめていた。


「いつか必ず······」


 その後の言葉がすぐに出てこない。


「······?」


「······会いに来るから」


 本当に言いたい事は、今は言えない。


「······はい。待ってます」


 待合室から玄関に向かうと、既にそこで待っていたマダム・カオに礼を述べ、フックは鴾羽楼を出た。




 商店街の奥まった所にある一軒のパン屋。


「Pawn Brothers」


 フックの姉ルクが営むパン工房だ。店主が女性なのに屋号がBrothersなのは、元々はルクの亡くなった夫ヒロが、弟のフックと開いた店だったからである。つまりルクはフックの義理の姉にあたる。


 ヒロは他の店での修行の後、廃業した鍛冶屋を買い取り改装し、弟のフックとパン屋を開いた。


 その後ルクと結婚し、コメという娘ももうけ幸せに暮らしていたが、七年前、クローネ二世の詔を受け、領主であるコー伯爵がルシテオ公国との戦に参戦。ヒロも徴兵され従軍し、出征先で命を落とした。


 コー伯爵の屋敷がルクの店を贔屓にするのも、ただパンの品質だけが理由ではなく、事情を知る執事のチャオがせめてもの弔慰をと、便宜を図っているからでもあった。


 すっかり遅くなってしまったフックが工房の奥にある住居部分の居間に入ると、すでに夕食を済ませたルクとコメがくつろいでいた。


「あらお帰りー、遅かったじゃない」


 気づいたルクが声だけで迎える。娘のコメと絵を描いて遊んでいたようだ。


「あ、うん。ごめん」


「ゴハンは?冷めちゃったけど、温める?」


「あ、いいよ、自分でやる」


 フックが台所に行こうとすると、後ろから小さな足音が聞こえた。


「コメがやってあげるー!」


 父親が居ないせいか、とても叔父に懐いているコメがスープを温めようと台所に走って行く。


「ありがとう、コメ」


 フックはテーブルに座ると、懐から皮袋を取り出し、


「はい、コー屋敷の今月分」


 と、向かいの椅子に座るルクに渡した。


「······ご苦労さま」


 と、何故か先程から黙って弟の顔を眺めていたルクは、一瞬遅れて皮袋を受け取るとテーブルから立ち上がり、それを戸棚にしまった。


 そのまま台所に行ったルクは栓を開けたワインを持って来ると、フックの隣の席に腰掛け、


「飲む?」


 と注がれたグラスを差し出し、フックは受け取った。


「おつかれー、かんぱーい」


 グラスを合わせ一口飲み終えたルクは、いきなりフックの肩に手を乗せると、


「フックくーん」


 と顔を近づけて来た。


「うわ、近い近い!なんだよ······」


 お構いなしにルクは益々顔を近づけ、フックの耳元で囁いた。


「······で、何があったのかな?」


「······」


 この勘の鋭さ、どうにかならんのか、とフックはたまに思うのだが、それはさて置き、姉の問いかけにどう答えたものか。


「んー、特に何もないかな······」


 とりあえずフックははぐらかした。


「ふーん······」


 あいまいな返答に対し、 特にそれ以上の追求はせず、ルクはワインのグラスを傾けながら、時折横目でフックの表情を伺っている。


 コメが運んでくれたスープを啜りながら考え込んでいたフックだったが、この雰囲気に耐えられなくなり意を決した。


「姉さん」


「お?言う気になったかね?」


「明日から、少し勝手に動かせて欲しいんだ」


「ん、いきなりじゃない?どうゆうこと?」


「朝の仕込みとかが終わったら、街に出て焼き菓子を売って回りたい」


「······なんで?」


「······お金を貯めたい」


「今渡してるのでは不足って事?」


「いや、そうじゃない、充分もらってる」


「じゃあなんでよ」


「······ごめん、今は言えない」


 二人ともそこで会話を止める。


 母親と叔父が言い争っていると感じたのか、やり取りを見ていたコメが泣きそうな顔をしだしたからだ。


 話を一時中断し、フックは黙々と食事を、ルクは黙って杯を重ねている。


 すると、


「ママ······」


 とことこと近づいてきたコメがルクの袖を掴んだ。


「おじちゃんを街に行かせてあげて」


「え?」


「代わりにコメがお店手伝うから······ね?」


「コメ······」


 ルクはコメを抱きしめて、しばらく頭を撫でていたが、


「わかったわ······」


 と、フックに顔を向け、


「あんたがそこまで言うなら、それなりの考えがあるんでしょ。いいわ。でも······」


「?」


「言える時が来たら······ちゃんと理由教えてね?」


「うん、もちろん、約束する」





 翌日から、フックは必死に働き出した。


 元々パン屋の仕事は朝が早いところを、さらに早く起きパン工房の仕込みを済ませ、店に置く分とは別に菓子を焼き、荷車に積んで街のレストランやカフェに売り込んで回った。


 生来がお世辞にも社交的とは言えず、そして、さほど金や出世に興味の無いフックだった。


 本当ならヒロが他界した時にフックが店を継いでも良かったのだが、店主の妻とゆう立場を失って姉たちが意心地悪くならないように、とルクに店を委ねた。


 街でパブを営むゼロリスという男がルクにご執心で、ルクもまんざらでも無いようなのだが、今姉に嫁がれては店が回らず、だからと言って嫁取りに力を入れる訳でも無く、言わば日々惰性で暮らして来たフックだった。


 フックの菓子作りの才能を認めているルクからは折につけ、もっと欲を出せ、なんなら店も譲る、と言われもしてきたが、まあそのうちにと断ってきた。


 そんなフックが、見違えるかのように仕事に取り組み出した。


(あの娘を・・・ラファを自由にしてやりたい)


 幸いにもフックの菓子は以前から評判で、頼むと引き取ってくれる店は多かったが、日々稼げる金はたかだかしれており、これまで貯めていた金を合わせても、いつになればラファを身請けできるのか分からなかった。


 もしかしたら今夜にでも、どこかの誰かがラファを水揚げしてしまうかもしれない······


 そんな焦りがフックを夜中に目覚めさせ、遠くまで荷車を引かせた。


 街で品物を売って回る途中、 鴇羽楼の近くを通る度にフックは、もしかしてラファの姿を見れたりはしないかと、 足を止め妓楼の様子を伺う事もあった。


 そして、今日もまたいつものように荷車を止め、 鴇羽楼の二階の窓を眺めていると、ポンポン、とフックの肩を後ろから叩く者がいた。


 ん?とフックが振り返った途端の事だった。


「娘を返してえぇっ!」


「うわっ!······え?」


 振り返ってみると、鬼気迫る形相をした老婆が掴みかからんばかりにフックを睨み、叫んでいる。その老婆とは紛れもない、クウヤだった。


「お願い、ねぇ······娘を、ミオを返して······」


 クウヤが必死に訴える。


「ちょっと待って、なんのこと? 娘さんって······? 僕知らないよ」


 いきなりの事にフックは訳がわからず、そう説明するしかなかった。


 そう言えば、クウヤは娘を探しているらしい、とラファが言っていた気がする。


「え、と。クウヤさん? ごめん、本当にミオさんだっけ?僕は知らないよ?」


 クウヤは既にフックの胸ぐらを掴んでいたが、しばらくフックの顔を見つめ、やがて静かに手を離した。


「ごめんなさい······」


 クウヤは急にしおらしくなり、フックに詫びた。誰か、娘を連れ去った者と見間違えたのでろうか?


「いや、わかってくれたならいいよ」


 フックは乱れた衣服を正す。


「······アンタ、ここで何をしてるの?」


 つい先程の事など無かったかのように、おもむろにクウヤが尋ねてきた。


「え?何って······」


 フックが返答に窮していると、


「お菓子職人さんっ」


 突如、頭上から声が聞こえた。見上げて見れば二階の窓から手を振っているのは、紛れもなくラファその人だった。


「ラファさん······」


 ようやく会いたかった人の姿を見ることができた。


「フックさん······でしたよね?お元気ですか?」


「うん、名前······覚えててくれたんだ。ラファさんは?」


「······元気です」


「そうか、良かった」


「はい。あ、クウヤさーん、これ、今日の分!外に出たら叱られるから、ここからごめんなさい」


 なんと、ラファはクウヤに向かって窓からパンを投げようとしていた。そうと気づいたフックは、


「待って!ラファさん、ダメ!」


「え?」


「大丈夫!僕がこの人にあげるから」


 と、荷車の木箱から紙袋を取り出し、


「これ、良かったらどうぞ」


 と、焼き菓子といくつかのパンをクウヤに手渡した。


「え······フックさん、ありがとうございます。なんだか、ごめんなさい······」


 窓から見ていたラファが申し訳なさげに礼を言う。


「ううん、気にしないで。それよりラファさん、あのさ······」


 聞きたい事、伝えたい事がいくらでも有る。


 だが、


「あ、マダムが上がって来る、フックさんごめんなさい······」


 と、ラファは慌てて窓を閉めてしまった。


「あ······」


 ようやくラファに会えて、少しでも話ができれば、との思いは叶わなかった。


 すると、黙って二人の遣り取りを見ていたクウヤが突然、


「ねぇアンタ、ラファのこと好きなのかい?」


 と尋ねてきた。いきなりな上に、呼び捨てだ。フックは少しムッとしたが、


「うん······好きだよ」


 相手をしがらみの無い老婆、取り繕う必要も無いと、ハッキリと素直に答えた。


「ふーん、そうかい。あの娘は本当にいい子だ。大事にしておやり。あ、そうそう、パン······ありがとうよ」


 一人勝手にクウヤはそう呟くと、先日と同じようにゆっくりと何処かに立ち去ってしまった。


 取り残されたフックにやるせない気持ちが押し寄せる。


(······簡単に言わないでくれよ······)


(大事にしたいさ······できるものなら、今すぐに······)


 想いを伝えたい、自由にしてやりたい、そして······傍に居たい。


 押し寄せる苛立ちを吹っ切るかのように顔を左右に振ると、フックは再び歩き始めた。









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