イブメル恋歌

@leon729

第1章 胎動

 街外れの丘に佇む大きな屋敷。


 長い石畳の坂を、重い荷車を引いてようやくここまでたどり着いたフックは、もうすっかり顔なじみとなった門番の許しを得て屋敷の勝手口に向かった。


 季節ではもう秋だとゆうのに、午後の日差しはきつく、立ち止まった途端、額に汗が滲む。


「ごめんくださーい。フックでございます」


 袖口で額の汗を拭いながらフックが名乗ると、程なくして勝手口の扉が開き、どこか飄々とした顔つきの男が顔を出した。この屋敷の執事をしているチャオだった。


「あぁ、フックさん、お疲れ様っす。入ってもらっていいんでー」


「失礼します」


 フックは荷車から降ろした木箱を抱え、炊事場に入る。


「いやぁ助かるっすわー、わざわざ届けて頂いて。相変わらず旦那様が、おたくのパンをたいそうお気に召されてましてね」


 この辺り一帯の領主であるコー伯爵が、フックの姉であるルクの焼くパンをたいそう気に入っており、今日のように屋敷で晩餐会が開かれる日などは納める量も多い為、フックが荷車に積んで届けていた。


 愛想が無く塩対応で通っているチャオだったが、フックのことはどうやら気に入っているのか、何かと話しかけてくる。


「ありがとうございます。コー伯爵がご贔屓にして下さっている事が街にも広まっているのか、店にお越しくださるお客様も増えて来まして、本当に感謝しております」


「それは良かったっすわー。ところで、お姉さんはお元気ですか?」


「ええ、それはもう。元気すぎるくらいです。あ、チャオさん、良かったらこちらを」


「あ、フックさんが焼いたお菓子ですか?

 嬉しいっすわー、あいつの大好物なんで」


 あいつ、とはチャオが想いを寄せている女性のことである。五月にデビューした歌い手なのだが、その美しい声と柔和な人柄も有って、街でもたいそうな人気である。


 デビュー当初から目を付けていたチャオは、まだ正式な交際もしていないとゆうのに、もう何度も彼女に結婚を申し込んでは、順序が違う、と毎回返事を保留されていた。


「嬉しいです!そう仰って頂けると」


「おたくのパンは勿論ですが、フックさんのお菓子も絶品ですもんねー。そう言えば、ご自分でお店を構える気は無いのですか?」


「そうですね······いつかは、と思っていますが、手も足りませんし、資金もまだまだなもので」


「そうなんすねー、頑張ってください。それに、お嫁さんも貰わないと!」


「まったくです······」


「あ、自分もでしたわ!」


 その後ひとしきり世間話を終えると、チャオから今月分の代金を受け取り屋敷を出たフックは、荷車を引き街への道を歩きだした。


 やがて街の入口に戻ったフックは、そのまま住まいであるパン工房の有る商店街を目指した。


 イブメルの街


 名君との誉れ高いクローネ二世が統治するマトンヌ王国に在って、王国領土東部に位置するこの街は、七年前に東の隣国であるルシテオ公国との間に起こった戦争の際、兵站の要衝として発展し、停戦協定が成った後も商業の街として賑わっていた。


 夕刻に差し掛かった街は日も傾き、買い物に出る主婦、仕事を終えて一杯引っかけに行く鉱夫などで騒がしさを増している。


 家路を急ぎフックが歩いていると、ふと前方から、艶やかな女の歌声が聴こえてきた。


 雑踏の中ここまで届くほどの良く通る声は、同時に何とも言えぬ色気を含んでいる。


 歌声の主は夜鷹のミツである。


 活気に溢れる反面、前線に近かったイブメルの街には、戦争の傷跡も残っている。


 国王であるクローネ二世の指揮の元、隣国との戦いに辛勝したものの、犠牲となった者は多く、ここイブメルにおいても、戦争で夫や息子を奪われた女が沢山暮らしていた。


 ミツもまたその一人である。


 男が少ないこの街では、フックのような若者は格好の獲物である。まずい・・・と思ったフックだが、迂回する道も無く、顔を伏せ通り過ぎようとする。


「あら・・・フックさん、こんばんは。って、シカトする気かしら?」


 弾いていた琵琶を小脇に抱え、ミツが近づいてくる。


「やあ、ミツさん、こんばんは」


 今気づいたかのように、フックは白々しく挨拶を交わす。


「お仕事帰りかしら? ねぇ、フックさん、

 いつになったらお相手してくれるんです?」


(来た・・・)


 フックは健康な若者であり、そういった欲望もかなり強いほうだと自分でも思っている。だが・・・


 ミツは夜の街でも知る人ぞ知る器量良しで、気さくな人柄もあり手合わせを望む者も多いのだが、惜しむらくは彼女の声があまりに大きく、相手をすると次の日には街中に知れ渡る、と言われていた。


 器量も良く歌も上手いので、芸妓でも充分やっていけそうなものだが、嫌な客に愛想を振るのは御免、と夜鷹を生業に選んだらしい。


 興味が無いと言えば嘘になるフックだが、姉の手前変な噂を立てる訳にはいかない。


「まだ仕事が残ってるんでね、また次の機会に・・・じゃ」


「あっ・・・もぅ、また振られた!次は必ずですよー!」


 グラつく気持ちを抑え、なんとかミツをあしらったフックは、再び商店街を歩いた。


 パン工房まであともう少しである。


 だが実はその手前に、フックにとってかなりの難所が有る。


 やがてその場所に近づく。


 街外れの商店街の片隅、あたりが暗くなるにつれて明るさを増すこの通りに小さな建物があり、入口の看板にはこう書かれていた。


「無料案内所」


「おや、フックさんじゃないか、(・ω・三・ω・)フンフン」


 素通りしようとしたフックに、建物から出てきた男が、一風変わった口調で話しかけてくる。この歓楽街で風俗案内所を開いているミクリーだった。


「やっぱり見つかってしまいましたか」


「当たり前!この商売をしていると、色々と溜まっている人間がすぐ目につくんだよね」


「いえ、そんなに溜まって無いですよ······」


「ん?そっちはそうかもだけど、懐はなかなか暖かそう、(・ω・三・ω・)フンフン」


 それを聞いてさすがだな、とフックは感心した。確かにコー伯爵の屋敷でチャオから受け取った今月分の代金を、懐に大事にしまっている。


「集金が有ったのでね。なので使えるお金ではありませんよ」


「そうかい、残念だなぁ。取っておきのオススメを紹介しようと思ったのに、( ˘ω˘ ) スヤァ…」


「え?」


 そう言われるとフックの心は揺らいだ。このミクリーという男、確かな眼力と情報網を持っており、今まで彼から薦められた宿、女にハズレはほぼ無かったからだ。


 真面目と言ってもいいフックだが、やはり若い男である。姉のパン工房を手伝いながら、自分が作った菓子も良く売れており、弟ということも有って姉からそこそこの手当てももらっている。


 漠然と、いつか自分で店を出す為と貯金もしているが、小遣いの範囲でミクリーに薦められた宿で遊んだ事も何度かあった。


「ま、いいや、フックさんだし特別サービスだ。鴇羽楼ときはろうのラファって見習いが一人前になって客を取り出したんだが、これが美人で品も有って、あんた好み間違い無しだよ(・ω・三・ω・)フンフン」


 これまでミクリーから、気に入るかも?程度で軽く勧められた時ですら、外れた事は無かった。


「あの情報通のトモさんも、ベタ褒めだったしね」


 どうやら今回は相当な上玉のようだ。


「機会が有れば覗いてみるといい。もし気に入って指名した時は、うちの紹介だと言ってくれると有難い、( ˘ω˘ ) スヤァ…」


 そのまま少し立ち話をしてミクリーに礼を述べ歩きだしたフックだが、無性にラファという娘の事が気になってきた。


 都合良く、余分に焼いたパンも残っていたので、おすそ分けついでに様子だけでも、とフックは鴇羽楼に立ち寄って見ることにした。鴇羽楼には品物を時折納めてもいたし、客として上がった事も有る。


 勝手知ったる道を進みフックが鴇羽楼に近づくと、どうも様子がおかしい。妓楼を囲むような形で、遠巻きに人だかりができている。


 なんの騒ぎだろう?と人垣越しにフックが覗くと、妓楼の玄関近くにみすぼらしい女が佇んでいた。


 そこかしこから人々の声が聞こえる。


「出たぞ、クウヤだ。近寄るなよ」


「しばらく見ないと思って安心していたのに」


 クウヤの噂はフックも聞いていたが、実際にその姿を見るのは今日が初めてだった。


 いつの頃からか、この街に現れるようになったクウヤと呼ばれる女。みすぼらしい格好で街をうろつき、それだけならまだしも、何故か若い男を見るといきなり大声を上げながら掴みかかったりするので、当然のように街の者達から避けられていた。


 鴇羽楼を訪れようとしていたフックは、そこに近づくのもためらわれ、人垣からクウヤの様子を伺うしか無かった。


 そうこうしていると、鴇羽楼の玄関から一人の若い女が出てきて、クウヤに近づいて行く。


「おい見ろ、鴇羽の娼妓がクウヤに近づいて行くぞ、大丈夫なのか?」


 遠巻きに眺めている街の若者が尋ねる。


「どうだろう?それにしても、あの娼妓いい女だなぁ」


 別の男がそれに答えたが、こちらは夫婦連れだったようで、女房らしい隣の女に窘められていた。


 鴇羽楼から出てきた娼妓は、職業柄しどけない服装こそしどけなかったが、柔らかな微笑をたたえたその姿にはどこか品があり、とても美しかった。


(綺麗な子だなぁ・・・初めて見る顔だ。あの娘がミクリーさんの言ってた子か・・・)


 一目見て、フックもその娘から目が離せなくなってしまった。なるほど、ミクリーの言う事に間違いは無い。これまでにフックが見たどの女よりも、その若い娼妓は格段に美しかった。


 気になって様子を眺めていると、その娘はクウヤに笑顔で話しかけながら、なにか食べ物を与えているようだった。


 皆が恐れ近づこうとしないクウヤに施しを与えるなど、何を思っての事なのか。


 と、


「ラファっ!なにしてんだい!ダメだと言ったじゃないか!」


 鴇羽楼から、今度は歳かさの女が顔を出し、いきなり娘を叱りつけた。


 鴇羽楼の女将、マダム・カオだ。


「そんな女に恵んでやるんじゃないよ!クセになったら客が寄り付かないじゃないか!」


「ごめんなさい・・・でも・・・」


 娘がいい訳しようとするのを、


「いいから、とっととお入り!」


 マダム・カオに腕を引かれ、娘は店の中に姿を消した。


 後に残されたクウヤは、やがて鴇羽楼に向かって静かにお辞儀をすると、生気の感じられない足取りで何処かに歩き去っていった。


 興味の対象が居なくなり、街の者達も、やれやれ、といった体で散って行く。


 そして、意を決したフックは、見物人たちが居なくなったのを見届けてから鴇羽楼の玄関に入った。


「ごめんくださいー」


「あら、フックさんじゃ有りませんか」


 ちょうど玄関口でマダム・カオは、ラファと呼ばれた娘をまだ叱っていたが、フックが現れると説教を止め、こちらに近づいてきた。


「今日はどうなさいました?上がって頂けるんですか?」


 フックが訪れた理由が商売の用向きなのか、はたまた客としてなのか判断しかねている様子だ。


「・・・えーと」


 フックは即座に返答できなかった。ミクリーの薦めで新しい娘の様子を見に来ただけ、とは言えない。なにせ、当の本人であるラファがすぐそこでこちらを見ているからだ。


 近くで見るラファはやはり美しく、ミクリーが言った通りフックの好み、いやそれ以上だった。


 最初は余ったパンを土産代わりに訪れ、あわよくば気になる娘の様子がわかれば、程度に考えていたフックだったが、実際にラファに会うと、もっと見ていたい、声を聞きたいとゆう気持ちを止められなくなってきた。


 商売用の笑顔を浮かべ返事を待っていたマダム・カオは、フックの煮え切らない様子にピンと来たのか、


「ラファ、お前は部屋に戻ってなさい」


 と、客用に用意された椅子をフックに薦めた。


「ごめんなさいね、みっともないとこをお見せしちゃって」


「あ、いえ」


「で、今日はお客様でよろしいのです?」


 迷っていたフックだが、覚悟を決めた。


「はい······」


「あら嬉しい! ちょうど良かった。ミイタならすぐお相手できますよ」


「······」


 ミイタは若い娘が多い鴇羽楼の中でベテランとも言える娼妓だった。フックが前回客として来た際その娘しか空いておらず、マダム・カオから格安でよいからと薦められ、相手してもらった娘だ。


 器量も愛想も良くいい娘なのだが、話し込むと止まらずなかなか眠れない上に、何故か朝目覚めると、まるで別人かのようなスッピンになっていて、虚しさを覚えて店を出たものだ。


「ミイタちゃんはもういいです······」


「あら、そうですか・・・なら、少しお待ちください」


 カオは帳場に行き帳面をめくると、


「少しお待ち頂けるならマナミがお相手できますよ。うちの一番人気!そうそう空いてません。如何?」


 鴇羽楼の看板娘マナミ。フックも一度その姿を見た事がある。


 確かにたいそうな別嬪で、愛想の良い笑顔で客の評判もかなりのものだ。だが、サービスが良すぎるて、オプションなんでもOKと言ういかにも慣れた様子がフックの好みでは無かった。


「あの、女将さん」


「はい、マナミにしますか?それなら待合室に······」


「いえ······さっきの子は空いてますか?」


「え······さっきって、ラファのことですか?」


「なのかな?さっきそこに居た子です」


「······はい。空いてることは空いてますが······」


「······?」


「フックさん······さっきの娘ラファは、ついこの前まで見習いで······」


 ミクリーが言っていた通りだ。


「まだ、お客さんがついたこと無いんです」


「······え」


「はい······ですので、水揚げになってしまいます」

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