路地裏の喫茶店
あまりじろじろ見るのも悪いので、そっと視線を外してカップを持ち上げ、中身をゆっくりと口に含む。
冷めても美味しい紅茶を味わいながら、最後の一滴まできっちりと飲み干してカップをソーサーに戻す。
カチャッと微かにカップとソーサーが触れ合う音がして、マスターがはっとしたようにこちらを向いた。
目をあわせたらまた俯いてしまうか、最悪条件反射でカーテンの向こうに引っ込んでしまうかもしれないので、その視線に気がつかない振りをして、背もたれと背中の間に挟んでいた鞄を膝の上に持ってきて中から財布を取り出す。
使い古したお気に入りの財布を広げてお札を取り出そうとしたところで、なぜか視界の端でマスターがわたわたと慌て始めた。
「あっ、えっと……もう、お帰りですか……?」
なんとも不思議な事を聞く人だ。接客が苦手だと言うから、早めにお暇しようと思ったのに。
思いがけないマスターの言葉に反射で顔を上げてしまうと、案の定目があったマスターはびくっと体全体を揺らしてそっと視線を外した。
「あ、あの……」
視線があっちこっち移動して、結局は床で落ち着き、そのままマスターは床に向かって語りかける。
声がぼそぼそとしていて小さいものだから、何を言っているのかちっとも聞き取れなくて、内心ハテナマークでいっぱいになりながら、じっとマスターの口元を凝視する。
「も、もう少し……!」
意を決して勢いよく顔を上げたマスターと、バチッと音がしそうなほどに視線がぶつかる。
「あっ……」
途端に真っ赤になって俯くマスターは、やはりかなりの恥ずかしがりやのようだ。
「え、えっと……もしよろしければ、もう少しゆっくり……して、いかれませんか……?その……もし、お時間よろしければ」
ちらっと上目遣いにこちらを窺う様子が、やっぱり子犬みたいで何だか可愛らしい。
接客が苦手だと言うマスターがそう言ってくれるのであれば、こちらとしても急いで帰る理由はない。本当はもう少し、ゆっくりしていたいところでもあったし。
財布を鞄にしまって、また背中と背もたれの間に戻すと、マスターがほっとしたように肩を撫で下ろして、それからようやくこちらを真っ直ぐに見つめてはにかむように笑った。
それもほんの一瞬のことで、すぐにまた視線は逸らされてしまったけれど、その一瞬だけの笑顔に、不覚にも胸がドキッとした。
なんというか……かっこいいとか、整っているとかよりも、“綺麗”という言葉が、彼にはしっくりくる。
笑うと余計にそれが際立って、改めて、とっても綺麗な人だなと思った。
そんな綺麗な人に笑顔を向けられたら、そりゃあ誰だってドキッとするだろう。この場合、マスターが同性であってもドキッとしたに違いない。うん、きっとそう。
「あっ、あの、えっと……僕の顔に、何かついてますか……?」
恥ずかしそうに頬を染めたマスターの言葉に、はっとして慌てて弁解の言葉を口にする。
どうやら、無意識に見つめすぎてしまったらしい。
ちょっぴりおかしな空気になってしまったので、とりあえず目の前のカップに手を伸ばす。が、悲しいことに中身は既に空だった。
なんでだろう、先ほどまでは気にならなかった沈黙が、今は物凄く気になる。
空のカップをソーサーに戻して、やっぱり帰ろうかな……と思ったところで、遠慮がちなマスターの声が聞こえた。
「あの、えっと……よろしければ、おかわり、いかがですか……?」
声につられるように視線を上げると、目があう直前でマスターが微妙に視線をずらす。目はあっていないのに、頬は真っ赤だ。よほど恥ずかしいらしい。
これはやはりおかわりはお断りして早めにお暇するべきか、いやでも本音を言ってしまえば、この美味しい紅茶をもう一杯頂きたい。
どうしようかと思案していると、マスターのか細い声が続いた。
「あの、えっと……これは、僕からのサービスです。不甲斐ない僕なんかがお相手をしてしまったご迷惑料と言いますか、情けない所を見せてしまったお詫びと言いますか、だからあの……代金の方は、どうかご心配なく」
そのことは別に心配していなかったのだが、本当は何で悩んでいたかなんて、この際別に言う必要はないだろう。
情けない所なら今も絶賛見せまくっているマスターだが、一度も失礼な店員だなんて気持ちは湧いてこなくて、むしろそんな恥ずかしがりやなところが可愛いななんて思ってしまう。
だから結局、マスターからの好意を、小さく頷いてありがたく受けることにした。
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