路地裏の喫茶店


「そんなこと言わないでほら」

「たまにはお店に顔を出してもいいじゃないですか」

あの、マスターだと勝手に勘違いしていた男性の声だ。

相手の声はぼそぼそとよく聞き取れないが、どうやら本物のマスターは表に出てくることを渋っているらしい。

「大丈夫、今はお客様が一人しかいませんし、その方はとても素敵な方ですよ」

聞こえた声に、思わず咳き込む。まさか、そんな風に紹介されるとは思わなかった。

未だかつて異性に、お世辞でも“素敵”だなんて言われたことはなかったが、思わぬところで初めての経験をしてしまった。

「大丈夫ですか?」

げほごほと盛大に咳き込んでしまった為か、カーテンの向こうから男性が心配そうに顔を覗かせる。

まさか“素敵”という言葉にびっくりしてむせました、とは言えないので、苦笑いを返すにとどめる。

「火傷されてはいませんか?今、もう一本おしぼりをお出ししますね」

そう言ってカーテンをくぐってカウンターの中に戻ってきた男性に、むせすぎて涙目になりながらお礼を口にする。

新たに差し出されたおしぼりを受け取って、そっと口元に当てた時

「……大丈夫、ですか?」

か細い声が聞こえた。

視線を動かしてみると、カーテンの向こうに隠れるようにして、若い男性がこちらを見つめている。

目があうと恥ずかしそうにぱっとカーテンの後ろに隠れて「す、すいません……」となぜか謝罪を口にする男性に、今度はカウンターの向こうから深いため息。

「全く……そんな調子じゃ、私はいつまで経っても引退できないじゃないですか」

先程までの穏やかな物腰とは打って変わって、ずんずんと足音荒くカウンターの中を歩いて行った男性は、カーテンの後ろにいる若い男性の腕を掴んで、半ば強引に店の方へと引きずり出す。

「りゅ、りゅうさん……!僕は、接客とかそういうのは、ちょっと……」

ようやく全身が見えるようになって改めて見てみると、全体的に細身ですらりと背が高い。

けれど、それよりなにより目を引くのは、その顔立ち。

色が白くて、どこもかしこも精巧に作られた人形のように整っていて、とても……綺麗だと思った。

「マスターはあなたですからね。いつまでもそんな甘えたことは言っていられませんよ」

二人の会話を聞くともなしに聞きながら、まじまじと若い男性を見つめる。

この人が、この店の本当のマスター……。だいぶ、予想していたのと違う。

本人には失礼が過ぎるのでとても言えないが、やはりあの、“りゅうさん”と呼ばれていた男性がマスターだと言われた方がしっくりくる。

「ほら、ここまで来たら腹をくくって。ちゃんとお客様にご挨拶してください」

ぽんっと若いマスターの背中を押して、りゅうさんはそれっきりカウンターの隅で洗い終えたカップを拭き始める。

当のマスターはというと

「…………」

薄らと色づいた頬をかきながら、恥ずかしそうに俯いていた。

こちらから声をかけるべきだろうかとも思ったが、さっきの様子だと、声をかけた瞬間にカーテンの向こうに引っ込んでしまいそうだったので、何もせず黙って残りの紅茶を頂く。

この店では、不思議と沈黙もまるで気にならない。

「あっ……えっと…………」

緩やかなリズムの洋楽を聴きながらカップを傾けていると、ようやくか細い声が聞こえた。

視線を向けると、恥ずかしさで耳まで赤く染まった顔と、泣きそうなほどに潤んだ瞳が目に入った。

「僕、あの……この店のマスターで、小向 晴人こむかい はるとと言います」

真っ赤な顔でこちらを見つめて、はにかむように笑ってみせると、早々と限界が来たようでまたすぐ視線が床に向く。

この店の本物のマスターは、随分と恥ずかしがりやのようだ。確かにこれでは、接客もままならないだろう。

「そうだ晴人くん、せっかくですから、ここで少しお客様のお相手をお願いできますか?私は、この暇なうちに買い出しに行ってきますので」

カウンターの隅から聞こえてきたりゅうさんの声に、マスターが勢いよく顔を上げる。

「そ、そんな……!!僕には、無理ですよ」

なんとも頼りない声と表情に、りゅうさんが深く息を吐く。

「そんなこと、やってみないとわかりません。それにここは、きみの店なんですよ?晴人くん」

うっと言葉に詰まったマスターに、続くりゅうさんの声が打って変わって優しくなる。

「大丈夫、きみならできます。それに今日のお客様は、“特別”な方ですからね。お相手はやはり、晴人くんがいいと思います」

特別……?その単語に、頭の中が疑問符でいっぱいになる。

もしかして、この時間にお客がいるのは珍しいと言う意味での特別なのだろうか。それとも、本物のマスターを見ることが出来た数少ないお客と言う意味での特別か。

聞いてみようかと思ったけれど、なんとなくここで口を挟むのは気が引けた。

「くれぐれも、お客様を一人残して奥に隠れたりすることがないように」

言いながら、りゅうさんは腰に巻いていた黒いエプロンを外す。

「じゃあ、お願いしますね」

そして、颯爽とカウンターから出てきて、扉へと向かった。

どうやら、裏に従業員用の入口があるわけではないらしい。

そんなりゅうさんを、マスターは捨てられた子犬みたい目で見つめているが、おそらくあえてだろう、りゅうさんは振り返らない。

扉を開けるとちりんと鈴が鳴り、そこでりゅうさんがマスターではなくこちらを向いて

「ごゆっくり」

品のいい笑顔を残して出て行った。

扉が閉まったところでちらっと視線を向けると、マスターはかわいそうなくらいに悲しげな顔をしていた。

これは完全に、飼い主に置いてけぼりをくらった子犬だ。

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