路地裏の喫茶店
まだ会って数分しか経っていないが、いいな、好きだなと思える人柄だ。とても癒しを貰える。これは、これからこのマスターに会う為に通ってしまうかもしれない。
「おや、まさかこんなくだらない話でお客様の笑顔を引き出せるとは思ってもみませんでしたよ」
そう言って楽しそうに笑うマスターにつられるようにして、一緒になってくすりと笑う。
最初は外観が何だか不気味だななんて思ったりしたけれど、そこで入るのを躊躇して戻ったりしなくて良かったと今は思う。
初めて来た場所なのに、なぜだかここはとても落ち着く。マスターの人柄もあるのだろう。
「突然こんな事お伺して、もしご気分を悪くされたら申し訳ないのですが……」
すっかりこちらの気持ちが緩んだところで、そう前置きしてからマスターが切り出す。
「ひょっとして、何か悩み事がおありですか?もしくは、悲しいことがあった、とか」
まさかの台詞に、びっくりして思わず目を見開く。
確かに、今日はいつになく落ち込んではいるのだけれど、そんなにわかりやすく顔に出ていただろうか。
退社する前に先輩のところに改めて謝罪に行った時なんか「落ち込んでるかと思ってたのに、お前全然平気そうだな」なんて言われたくらいなのに。
何と答えたらいいかわからなくて黙っていたら、それでもマスターは納得したように深く頷いた。
それから、ポットの蓋を開けて中を覗き込むと、口元に満足そうな笑みを浮かべて蓋を閉じる。
そして、用意していたカップに、思わず見惚れてしまうような優雅な所作で中身を注ぎ入れた。
ポットの細い口から流れ出たのはオレンジ色、それがとぽとぽと音を立ててカップの中に吸い込まれていく様を見つめていると、ふわりと爽やかな柑橘の香りが鼻をかすめた。
「オレンジと桃の紅茶です。オレンジの爽やかな香りと桃の優しい甘さをお楽しみください」
カウンターの向こうから、マスターが腕を伸ばして目の前にカップを置いてくれる。
ブレンドって、コーヒーじゃないんだ……と思いながらカップを覗き込むと、中ではほんのりピンクが揺れていた。
えっ……の形に開いた口から、果たしてちゃんと声は出ていただろうか。それくらい、驚いた。
「驚かれました?」
楽しそうな声に顔を上げると、声と全く同じに楽しそうな笑顔で、マスターがこちらを見つめていた。
これは、驚かないわけがない。こくこくと何度も頷いて答える。
確かに最初にポットの口から流れ出てきたのはオレンジ色だった。それなのに、今カップの中で揺れているのは淡いピンク。
「注ぎたては、オレンジの色が強く見えるんです。特にこの店は、照明もオレンジですしね。でも、注ぎ終わってしばらくすると、淡いピンクに変わっていく。些細な変化ですから、よく見ていないと気がつかないのですが……お客様はお目が高いですね」
楽しそうに笑って説明を終えたマスターが、手で“どうぞ”とカップを指し示す。
何だかとっても不思議だ。不思議で、そして面白い。
ますますこの店とマスターが気に入ったところで、見るからに華奢なカップの取っ手にそっと指を入れて持ち上げ、湯気と共に立ち上る柑橘の香りを吸い込む。
オレンジと桃が混じり合って、爽やかで甘くて、ホッとする。
ふーっと息を吹きかけてからカップに口をつけると、思っていたよりもずっと飲みやすい温度が唇に触れた。
「いかがでしょう。気に入っていただけましたか?」
カップから口を離して、ほう……っと一息ついたところで、マスターが微笑みかけてくる。
お砂糖は入っていないのにほんのりと甘くて、爽やかな香りが鼻に抜けていく感じがとてもいい。
自然と心が安らいで、ふわっと緊張が溶けていくように頬が緩んだ。
「お口にあったようで何よりです。マスターも、きっと喜びます」
嬉しそうに頷いたマスターの言葉に、二口目を頂こうと傾きかけていたカップを元に戻して、はて?と首を傾げる。
聞き間違いだろうか……。
不思議そうな顔で首を傾げていると、それに気が付いたマスターが可笑しそうに笑った。
「もしかして、私がこの店のマスターだと思われました?」
もしかしなくてもそうだと思った。
だってこの店に入ってきた時、店内には彼一人しかいなかったわけだし、雰囲気から言ってどこからどう見ても彼がマスターだったし、それを疑う余地は微塵もなかった。
「ではせっかくなので、少々お待ちください。今、本物のマスターを呼んできます」
楽しそうにそう言って向かった先は、あの左奥にあるカーテン。
そう言えば注文を伝えたとき、なぜ彼は一度奥に引っ込んだのか少し不思議だった。
けれど、まさかそこに本物のマスターが隠れているだなんて思いもしない。
誰がどう見てもマスターな彼が、実はマスターではなかったという衝撃を噛み締めつつ、ゆっくりとカップを傾ける。
また誰もいなくなった店内で、一人寂しく紅茶を啜っていると、奥の方から微かに声が聞こえてきた。
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