路地裏の喫茶店
仕事でちょっとしたミスをした。最初は本当に、小さくて些細なミスだった。
けれどそれを取り返そうと頑張ったら裏目に出て、更に頑張ったら今度は空回ってしまって、結局上司に怒鳴られ、先輩には迷惑をかけ、同期に失笑され、後輩にフォローされるという最悪の事態にまで発展した。
それでも何とか乗り切って退社したのはいいけれど、気持ちはどんよりと沈み込んだまま浮上の気配は見られなくて、帰宅する足取りはなんとも重い。
そんな風にとぼとぼと歩いていたら、後ろから早足でやって来たサラリーマンにすれ違いざまに舌打ちをされ、それがまた心に突き刺さる。
ああ、もうだめだ。これは家まで持たない。
少しだけでいい、休みたくなった。どこでもいいから、どこかで少し……。
そんな時、ふと“営業中”の文字が目に留まった。
よく見ればその看板には手書きの赤い矢印もあって、それは路地の奥を指している。
指された路地をしばらく見て、看板に視線を戻して、また路地を見る。
それから、足を踏み出した。手書きの赤い矢印に導かれるように、路地の奥へと。
先ほどまで歩いていた大通りの喧騒から外れてしばらくすると、道の突き当りにそれは現れた。
レンガ造りのおしゃれな洋館。でも、そのレンガは所々ひび割れていて、ツタも絡まり放題で、何だかちょっぴり不気味。
一瞬廃屋だろうかと思ったが、そうでないのは建物の前に置かれた看板を見てわかった。
それは、先ほど路地の前で見たのと同じ看板。
“喫茶”の後に、何やら外国の言葉が書いてあるのだが、さっぱり読めない。店名だろうか。
看板の上部には小さなライトが取り付けられていて、オレンジ色の柔らかい光が書かれた文字を淡く照らしている。
喫茶店ならば、休んでいくのに丁度いい。温かいコーヒーを一杯飲んで、それから家へ帰ろうと、扉に手をかける。
古びて色あせた木製の扉を開ければ、ちりんと可愛らしい鈴の音が響いた。次いで
「いらっしゃいませ」
柔らかく耳に心地いい低音が迎えてくれる。
右手にカウンターがあって、その中に品のいい笑顔を浮かべる男性がいた。
ぱっと見はとても若いが、佇まいや落ち着いた雰囲気は若者のそれではなく、見た目からは年齢が判断できない。
彼が、この店のマスターだろうか。店内には、他に店員らしき人の姿はない。そして、お客の姿も。まさかの貸し切り状態だ。
「お好きなお席にどうぞ」
四人がけ、もしくは三人がけのテーブル席が四つと、カウンター席が五つある店内を眺めながら、ゆっくりと進む。
どこかで聴いたことがあるような、でも曲名も歌手もさっぱり思い出せない洋楽が、緩やかにスピーカーから流れてくる中、迷うように視線を動かしていると
「よろしければ、こちらのお席はいかがですか?」
カウンターの向こうでにこにこ笑うマスターが、自分の向かい側を手で指し示した。
カウンター席に座っていいのは常連だけだと思っていたから、ほんの少し躊躇する。
でも、他にお客の姿はないのだし、何よりマスターが勧めてくれているのだから、誰に気兼ねすることもないだろう。実はカウンター席に密かな憧れもあった。
せっかくなのでお言葉に甘えて、そろそろとカウンターに近づくと、右側を一つ開けて腰を下ろす。丁度、マスターの真向かいに当たる位置取り。
「何になさいますか?」
お水とおしぼりのあとに差し出されたメニュー表を、受け取ってじっくりと眺める。
他の喫茶店でもよく見かける、軽食やデザート、ドリンクなどのラインナップを上から下まで順番に見ていくと、ある一点で視線が止まった。
“マスターオリジナル(気まぐれブレンド)”
馴染み深いメニューが並ぶ中、たった一つだけ、他では見たことのないメニューが、ひっそりと一番下に記されている。
「気になりますか?」
突然かけられた声に驚いて顔を上げると、微笑むマスターと目があった。
「その時の気分で、特別にブレンドしたものをお出ししているんです。あっ、もちろん味は保証しますよ」
もう一度メニューに視線を落としてみるが、やはり吸い寄せられるようにそこに視線が向かってしまう。
また顔を上げてマスターの笑顔を見つめて、それから再びメニューに視線を落とし、意を決して“マスターオリジナル(気まぐれブレンド)”を注文した。
「かしこまりました。少々お待ちください」
一礼して去って行く姿にもどことなく風格が漂っていて、ドラマでしか見たことはないが、きっとお金持ちの家で働いている執事はあんな感じなんだろうなと思ったりした。
うん、あのマスターは執事服が絶対に似合う。
注文を聞いたマスターは、くるりとこちらに背を向けて、左奥にあるカーテンをくぐって行く。
初めての店で一人ぼっちにされて、何だかちょっぴり心もとないが、気を紛らわせるのと時間つぶしに、ゆっくりと店内を見回す。
建物が洋風なら内装もまたそれに合わせた洋風で、しかもまた随分と年季が入っているように見える。
焦げ茶色のテーブルと同じ色味の椅子はどちらも木で、壁はクリーム色、電球は白ではなく優しいオレンジ。壁にかかった時計はおしゃれなアンティークで、ちくたくと穏やかに時を刻んでいる。
「お待たせしました」
声がして、視線をカウンターの方に戻すと、白いカップと揃いのティーポットを持ったマスターが立っていた。
「古いでしょ?でもこの古びた感じが、趣があると思いませんか」
そう言って、マスターは穏やかに微笑む。
「この店も、もう何年目になりますかね……。詳しいことはわかりませんが、ただ一つわかっていることは、私もいい年ですがこの店も同じくらい、いいお年だということですかね」
お茶目に片目を瞑ってみせるマスターに、思わず笑みが溢れる。
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