路地裏の喫茶店
「す、すぐに用意してきますね。ちょっとま、あっ、えっと……少々お待ちください!」
嬉しそうに顔を輝かせ、慌てたように決まり文句を口にして、マスターはいそいそとカーテンの向こうに歩いていく。
路地裏を進んだ先にある突き当たり、初めて訪れた喫茶店は、現実から一歩引いたような不思議な雰囲気が漂っていて、マスターみたいな男性と、恥ずかしがりやの本物のマスターがいて、とても心が落ち着く。
物語の始まりのページみたいな、胸をわくわくさせるような何かがここにはあって、けれどここから外に出てしまったら、そんなわくわくとは無縁の現実が待っている。
ふと、今日の会社での一幕を思い出して、気分がグッと落ち込んだ。
せっかくいい気分だったのに、このまま家に帰ってお風呂に入って布団にくるまれたら最高だったのに、なんでこのタイミングで……。
知らずため息が零れ落ちた時、さっとカーテンをくぐってマスターが戻ってきた。
「お待たせし……」
とても不自然に、マスターの言葉が途切れる。
まさか、このタイミングで泣いていたりしないよなと、慌てて目元に触れてみる。濡れてはいないから、泣いていない。
ほっとしたのも束の間、マスターはすたすたと早足にカウンターの中を進むと、先ほどまでりゅうさんが立っていた位置、丁度真向かいで足を止めた。
「どうされたんですか?」
聞こえた声に、あれ……?と思った。
ついさっきまでか細かった声が、今は妙に力強い。
顔を上げると視線がぶつかって、こんなにもばっちり目があっているのに、マスターは一向に恥ずかしそうに俯かない。
どうされたのかはこちらの台詞だ。先ほどとは、何だか雰囲気が違う。
その違いに戸惑っている間も、マスターは視線を逸らすことなく真っすぐにこちらを見つめている。
本当に、急にどうしたというのだろう。
とりあえず、なんでもないのだと首を横に振ってみせると、今度はマスターの眉間に微かに皺が寄る。
「嘘はだめですよ。それから、無理をするのもだめです」
ついさっきまでの恥ずかしがっておどおどした態度とは打って変わって、別人のようにきりっと引き締まった表情をしているマスターに、思わず瞬きを繰り返す。
「辛い時に無理をするのは、心にも体にも良くないことなんです」
ひょっとしてこの人は、心配してくれているのだろうか。こんなにも真剣な顔をして。本当は恥ずかしがりやで人と目をあわせるのが苦手なのに、決して視線を逸らさずに。
きっとこの人は、優しい人なんだろう。初めて会った、名前も知らない誰かを本気で心配できるくらい、優しい人。
その優しさに触れられただけで、落ち込んでいた気持ちがほんの少し浮上する。
それだけでもう充分で、本当に何でもないのだと笑ってみせるも、マスターの眉間には皺が寄ったまま。
「初めて会った全く知らない人だからこそ、話せることもあると思います」
マスターが放ったその言葉が、今度はすとと胸の中に落ちてきて、じんわりと広がっていく。
温かくて、嬉しくて、くすぐったくて、ほんの少し……泣きそうになる。
ああ、やっぱりこの人は、このマスターは、とても優しい人だ。
「お力になれるかどうかはわかりません。でも、辛い気持ちを和らげることくらいはできると思うんです」
いつの間にかその眉間から皺は消えていた。
真っ直ぐに見つめ返しても決して目を逸らさずに、マスターは柔らかく微笑んでいる。
「話してみてください。あなたの抱えているものを。僕は、あっじゃなくて……この店は、あなたのような方達の為にあるんです。疲れた心に平和を。だから“La Pace(ラ・パーチェ)”、“平和”なんですよ」
その聞きなれない言葉は、ひょっとしてあの看板に書いてあった文字だろうか。
意味は、平和—―—―。
「りゅうさんが言っていました。オリジナルを頼まれる方は、皆さんどこかお疲れになっているように見えるんだそうです。でも飲み終わって帰る頃になれば、表情が穏やかになっていると。だからこれは“特別な一杯”で、それを頼む方もまた“特別”なんです」
なるほど、りゅうさんが“特別”だと言っていたのには、そう言う意味があったのか。
「体の疲れは癒すことができます。けれど、心の疲れはそう簡単にはいかない。僕にできることは、お客様が望む一杯を提供することだけです。それでも、このオリジナルを選んだお客様が、少しでも楽な気持ちでお帰りになれたらいいなと思って、毎日心を込めてブレンドさせてもらっているんです」
マスターはカウンターに置きっぱなしになっていたティーポットを軽くゆすり、カップにゆっくりと注いでいく。
りゅうさんの流れるような手つきとは違って少しぎこちないが、丁寧さはよく伝わってくる。
先ほどと同じ香りが鼻をかすめて、目の前に置かれたカップの中では、柔らかいオレンジ色が揺れている。
「“マスターオリジナル(気まぐれブレンド)”は、いつでも渾身の一杯をご用意しております。是非、ご賞味ください」
妙にかしこまったようなその言い方に、思わずくすりと笑みが溢れる。
華奢なカップをそっと持ち上げて中身を口に含むと、飲み込んでからほう……っと小さく息をついた。
それから、顔を上げてマスターに向き直る。
聞いてもらおう、この人に。この、恥ずかしがりやで優しいマスターに。
それでわたしの心に店名通りに平和が訪れたなら、明日からまた笑って頑張ろう。
ああ、でもその前に――――
「
「僕でよければ、喜んで」
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