リセット
男は記憶喪失だった。警察に身元を聞かれてもどうにも思い出せないと言う。嘘をついている様子ではなく、その顔は困惑と不安に溢れていた。
その男は記憶こそないが、身体・精神的には特に異常がなく、20代前半くらいの若々しい見た目で生活能力はあったので、公的機関に引き渡され、記憶が戻るまで一時的に経過観察をすることになった。仮の住まいを与えられ、最低限度の生活が保証された。
程なくして、記憶喪失の男があることを頼んだ。
「私に仕事を下さい。私は記憶こそありませんが、部屋で何もせずに引きこもっているのはどうにも耐えられないのです。働いて何かしら社会に貢献したいのです。よろしくお願いします。」
記憶喪失の男は真摯な様子だった。確かに働かせた方が利があるし、記憶を思い出すきっかけになるかもしれない。男は仕事を与えられた。
初めは道路や公園の清掃といった雑務だった。記憶喪失の男は仕事を与えられたことを喜び精一杯に取り組んだ。記憶喪失故か、職場での人間関係はどことなく不器用なところがあったが、とりわけ問題があるわけでもなく何よりその誠意ある仕事ぶりだったので、周囲も難なく受け入れた。
しばらくして、その男は聡明な頭脳を持っていたこともわかった。記憶喪失時の精神鑑定の時点で高いIQ(知能指数)を持っていたことも分かったし、話ぶりも理路整然としていた。そのような人材を清掃の仕事に留めておくのは持て余すと考えた機関の人は、記憶喪失の男に会社を紹介して、事務の仕事をしてもらうことにした。
そこでもその記憶喪失の男は真面目な働きぶりで成果を出していった。会社での評判も良く、順当に出世していった。
男は、記憶を失う前はさぞ優秀な人物だったのだろう。是非とも記憶を戻して元の生活を取り戻してほしいと周囲は思った。
ある日、初老の女性が男を預かっている機関に訪れた。その女性は記憶喪失の男の母親で、男をずっと捜していたという。そして真実も知った。
見た目とは裏腹に、記憶喪失の男の年齢はもう30代を越えていたのだ。高校時代は有名な進学校に通っていた成績も良かったが、いじめがきっかけで引きこもるようになったそうだ。30代に入りかけた頃に心を改めて仕事を探すようになったが、高校を中退してずっと引きこもっていた経歴に見向きする企業は殆どなく、途方に暮れていたそうだ。
男の記憶喪失は、その辛い記憶とそれ故に将来に活路を見出せない現状を抜け出したい故に起きたものと思われる。この男の記憶を取り戻したら、きっとその辛い過去で再び自己嫌悪をするだろう。周囲も男を見る目が変わる筈だ。
最良の手段は一つ。この男には記憶喪失のままで、新たな人生をやり直してもらおう。それは、記憶を失う前の男のことを全て否定することになるが、そうした方が男にとっても、周囲に、世の中にとっても幸せになれるのかもしれない。何より母親でさえそう思っているのだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます