香雨

 さようなら。聞いてから心が躍る。晴れていたらさらに良い。

 しかし、今日は雨。水溜りが心に宿した喜びを、一気に沈めてくれる。傘を叩く音が、幾分鬱陶しい。そして、地味な傘がよりそれを増進させる。

 足音は二つある。一つ目は、心が躍ろうとするも、沈んだ男子高校生。二つ目は、いつもは一緒に帰らないクラスメイトの女子高校生。真っ赤な傘を差している。

 雨音に気を散らされながらも、男は女に尋ねた。

 「ねぇ、なんでいるの?」

 男はなるべく女子の目を見ず、若干に視線を外している。対して、女子は彼に答えて、目を見る。男を見る女は明るく端正な顔立ちであった。

 「なんで、そんなに声が小さいわけ?」

 「いや、その……」

 女の語気に負けた男は、伏し目となり、自分の地味な靴へと目を移す。

 「だって、、日常的に声を張り上げてしゃべることないから。」

 彼の長い前髪が垂れる。歩く度、前髪が揺れ、隙間から虚ろな目が覗く。

 横目で見ると、明るい女の目と目が合う。少し恥ずかしそうに、男は目を別に移す。

 しばらく、雨がものを叩く音が続く。2人の靴音はいつしかシンクロし始める。少しの恥ずかしさを滲ませながら。少しの期待感を膨らませながら。

 鈍いクッションの音と、少し高いクッションの音。住宅街に伸びる石塀、電信柱、地面は濡れて変色し、鈍く音を吸収する。

 住宅地の道は、2人以外にも何人か行き交う。それでも、人々は皆、雨の音へと沈み行く。2人の声も、また沈み行く。

 「ねぇ、何で居るの?」

 また、男が聞いた。

 「それがね…」

 家が近いと、両者は認識していた。だから、帰り道も同じ。しかし、なにも一緒に帰らなくとも、と男は思う。思春期を迎えた人間の素直になれない期待感と、恥ずかしさとがちらつく。一方が意識したら、他方も意識し始める。

 シンクロした靴音が徐々に崩れ始める。女は少し、歩を緩めた。真っ赤な傘は男の顔を少し隠す。少し女より前にでた男は、足を止め、女へ振り返る。

 女と目が合い、女が大きめを逸らす。

 「えっと…。何て、言ったらいいか…」

 女は伏し目になって、傘も前のめりになる。若干に彼女の頭が雨に叩かれる。神の根元が地肌にへばりつく。

 「は?そんな、曖昧な理由で?」

 男は大きい声は、住宅街に鈍く染み込んでいく。

 「いや、違う、ちゃんとあるんだけど。だけど…」

 女は男に追いついて、男の前で立ち止まる。前が見えていないせいで、男と靴先が当たってしまう。男の前には真っ赤な傘。

 スニーカー同士が当たったのがわかったのか、女は半歩下がる。

 「わかってくれるか、わからない…」

 女は言った。男は真っ赤な傘を上げる。

 男は困って、彼女の顔を見る。長い前髪覗く目は思惑しているようだ。

 「なら、話して。それから考えよう。」

 女の話が雨音に咲き始める。


 あれは、先週のこと。

 朝起きたら、年の離れた小学生の妹が「旦那さん!」と連呼していた。

 「どうしたの?」

 と、母親が尋ねれば、夢での話だそうだ。妹は無邪気に口角を上げている。

 「夢の中であの娘の旦那さんが出てきたらしいの。」

 母親は微笑を浮かばせながら、パジャマ姿の私に言う。

 寝起きの私は思春期なりに、笑ってみせる。頭が動いていない。あおれに、瞼が重い。

 話は可笑しなところがあるものの、和やかな気持ちになった。私が、思春期だからか、恋愛絡みであると緊張が走ってしまう。

 特別に意識はしていないのだが、幾らかの憧れも混ざっている。

 人としては、良い夢だろう。私は自然と笑顔した。

 朝にしては喧しい声を上げながら、小さな妹は私に飛び込んでくる。小さな身体を持って、向日葵の様ににんまりと笑う。

 「旦那さん!旦那さん!旦那さん!」

 連呼が止まらない妹に、どんな人?と問いかける。

 「背が高くてね!かっこよくてね!目立たなくてね!猫背でね!雨が嫌いで、前髪が長いの!」と、憶えていることを言い上げた。笑顔は一度も崩れてはいなかった。

 後半にかけて、何処かで耳や目にしたことのある言葉、少なからずお世辞にも良いとは言えない。そう、言えない。

 私は妹の目の高さに合わせて、聞かせる様に言った。

 「本当に?いいの?そんな旦那さん。」

 私の心配する口調とは反対に、頬を膨らませる妹。真剣な眼差しは何時かに置いてきた眼差しだった。

 「そんなこと、言わないでよ。」

 強く私を見る。

 「本当にいいの?」

 「いい!」

 「本当に…?」

 「いいの!」

 そっぽ向いた妹に、それ以上の追撃は大人げない。それも、何処か自分の重箱の隅をつつくようで怖かった。

 私は膝を伸ばし、軽く妹をポンとする。

 「会えると良いね。その人と。」

 妹は向日葵の様に笑った。

 

 「と、いうね?ことがあったの。」

 「なるほどね。それが、今の今まで続いていると。」

 困った顔の女は、小さな水溜りを一蹴りする。怒りか、憧れか、叶わぬ願い事への何も言え虚しさか。

 しぶきが上がって道を濡らす。と、同時に、女の靴もまた濡れる。華やかな色が沈んでいく。

 男は黙ってそれを見つめ、背中を曲げる。身長が少し縮む。

 「ねぇー」

 女は振り向き、男と女は互いに見つめ合う。

 「あんた、ずっと近くに住んでるけど、私、あんたのこと知らない。」

 女は静かに呟く。

 「それはこっちの台詞でもある。小学生で引っ越してきた以来、まともにしゃべっていない。」

 男は顔を上げ、女は水溜りを見ている。

 「変だね。それって。」

 「変でもないさ。」

 「?」

 「都会の人は、隣人を知らない。」

 「それは、都会の話でしょ?此処は都会じゃないし。」

 「まぁ、それもそう。」

 止まっていた男は、女へと歩を進める。少し雨が弱まった。彼女の隣に肩を並べれば、名前を呼んだ。

 「雨宮。君のことは、名前以外知らない。」

 その言葉を枕にして、女も言う。

 「夏木君。貴方のこと、何も知らない。」

 知らない空気が流れだし、何時か、雨が止みそうだった。

 傘をさすのが惜しいくらいの、小雨が降る。雨はもうものを叩いてなどいなかった。

 「なら、自己紹介。俺は、夏木晴人。A高等学校1年E組。以上だ」

 「少なすぎない?」

 「必要最低限だ。」

 夏木は短く言う。何か思案している。雨宮は、夏木の視線を上から感じる。

 何かが足りない、と思っているが、雨宮も自分のことで口を開く。

 「雨宮詩音。A高等学校1年C組。夏木君と同じ高校。妹がいる…」

 夏木は頷く。小雨が止んだのか、いつの間にか雲の間から青空が覗く。雲間から光線が差し込む。冷たい中にあたたかさが降り込む。

 夏木は太陽が出てくるのが、少し鬱陶しそうに背骨を曲げる。ブレザーのポケットに手を突っ込んだ。

 空はすっかり晴れ渡っている。

 夏木は役に立たない傘を畳み、濡れた路面を歩き出す。

 雨宮は隣に歩こうと、少し足早になる。

 彼の肩は、雨宮よりも大分、高かった。

 「そういや、さ」

 「ん?」

 雨宮は淡々と続ける。

 「あんま、存在感、ないよね」

 「……」

 黙り込んだ夏木、反抗もしなければ肯定もしない心情は、如実に表れている。

 「お前には、デリカシーってものはないのか。」

 揺れる前髪から鋭い目が覗く。しかし、人を傷つけるのを怯えているようだ。

 雨宮は大きな目でそれを捉えた。

 「傷ついた…の?…マジで…?」

 意外だ。

 雨宮は心底呟いた。

 夏木は、頭を垂らし、ユリの様になって呟いた。

 「好きで…なってる訳じゃない。」

 雨は降っていないのに、湿った空気が二人の間に流れ込む。

 「まぁ…それは、いいや。」

 「よくねぇ、よ」

 夏木の長い髪が揺れる。憂鬱な目を、雨宮はじっと見つめていた。

 「俺だって、普通にみんなと笑っていたいさ。けど、なんか無理なんだ。」

 「…どうして?」

 「どうしてって、言われてもわかんねぇ。けど、なんか、みんなは自分と違うところにいる気がして。みんな幼稚と思っていたけど、よく考えてみれば俺が幼稚だから、みんなが幼稚に見えるんじゃないかって。みんなは実際は大人で周りのことも考えて動いている。それが僕にはできない。」

 「……そう、なんだ。」

 「だって、相手を傷つけないようにしたり、角が立たないようにして輪の中にいるんだろ?雨宮だってしてるだろ?」

 「…そうかもね。けんかとか起こらない方が良いし。」

 「人の気持ちさ、察せた方が良いって言うけど、そんなの無理だよ。実際、皆嘘ついてばっかじゃん。何処に本心があるか、わかんねぇ。」

 「夏木君、優しいね。」

 「はぁ?」

 「今の人って、人のこと見ているようで見てないかもね。私だって、仲の良いグループはあるけど、別にどうでもいいなぁ、ってなっちゃう。面倒臭いこと起こらなければ、それでいいやって。嘘で丸く収まるなら、それでいいやってなっちゃう。」

 「それで、いいのかよ。」

 「いいよ。寂しくなるだけだから。一人はつまんないし。」

 「何だよ、それ。」

 「仕方ないじゃん。」

 「…だから、嫌なんだ。」

 「嫌?周りに合わせるのが?」

 「違う。合わせるのは別にどうってことない。けど、嘘で生きて、嘘で人と接して、嘘で何かを満たそうとするならば、自分の本心というものがどんどん潰される。こんなこと考える俺って、幼稚かな?」

 「わかんない……だって、」

 そう言ったきり言葉は雨宮の中へと消えていった。

 

 いつの間にか、雨宮の家へ来ていた。

 すると、勢いよく扉が開き、「旦那さん!旦那さん!」と雨宮の妹らしき少女が飛び出してくる。彼女は全身を特徴的な黄色いカッパに包み、さらに黄色い傘を持つという、真っ黄色な姿だった。

 「あ!旦那さん!」

 雨宮の妹は夏木に抱き着く。

 「ちょ…!え…?」

 夏木は眼下の小さな人間にたじろぐ。果てに、雨宮に助け舟を求める。

 そんな雨宮は、夏木の思いとは裏腹に、意地悪な笑みを浮かべる。

 「その人が旦那さんなの?良かったね!」 

 と、妹を祝福している。

 「そんなこと、言ってる場合か!」

 さらに、妹が、夏木を抱く力を増させる。より体が密着する。

 夏木のよりたじろぐ姿を見て、雨宮はにやっと笑う。

 「慣れてない?もしかして?」

 意地の悪い笑みを浮かべる雨宮を夏木は救済の目で見つめる。

 「助けて…」

 必死に夏木は抱き着く妹の肩を軽く叩いている。

 雨宮は、夏木と妹に近づき、妹の目の高さに合わせる。

 「ひなちゃんの旦那さん…」

 と、続けようとしたとき、先程の向日葵のような笑顔は突然に消え失せ、きょとんとする。

 きょとんとした妹に首を捻る雨宮に、早く剥がしてほしい夏木は雨宮とひなちゃんを交互に見ている。

 「違うよ。お姉ちゃん、なんか、カンチガイしてる」

 「カンチガイ?」

 姉は妹を催促する。

 「うん、この人、私の旦那さん、じゃない」

 「え?」

 「は?」

 小学生相手に、理解不能な高校生は、両者見つめ合う。何を言ってるんだ、この娘。お互いが心の中で思う。

 「じゃ、誰?」

 「お姉ちゃん!」

 「え?」「は?」

 小学生のひなちゃんはおかしくなったのか。2人は心配する。

 雨宮はすっと、ひなちゃんを夏木の身体から剥がし、自分の正面へ向かせる。

 「ひなちゃん?君、大丈夫かい?」

 横から叩かれる夏木。

 「そうよ。こんな奴の何処がいいのよ?」

 横から睨まれる雨宮。

 「喧嘩、しないで!」

 ひなちゃんは、2人に言う。

 「けんかはしてないよ」「そうだ。」

 高校生は小学生に反抗するが、小学生は首を捻る。

 「お姉ちゃんと、夏木君は、ずっと一緒にいるんだよ」

 「なわけねぇよ。」「そうだよ。」

 二人は意見を合わせる。

 また、首を捻る小学生。

 ひなちゃんは笑った。

 「おシアワせに」

 日に照らされた黄色いカッパはまるで花弁の様。

 太陽の温もりが、思春期の心の中にぬっと手を伸ばす。少し、2人は居心地が悪くなる。

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勝手に群青って言ってろ 辛口聖希 @wordword

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