海が太陽のきらり

佐倉奈津(蜜柑桜)

海が太陽のきらり

 雲ひとつなく吸い込まれそうな空の下、眼前に広がるコバルト・ブルーの海は、四年前の夏から何も変わっていない。


 浜に近いところでは、その下の砂を透かして薄いエメラルド色に光る海は、沖へいくほどに碧く色の深みを増し、水平線の際で蒼へと変わる。宝石にも無いようなグラデーションの上を波が走り、その飛沫の白珠しらたまが陽光に反射して海面を飾る。


 防波堤の上から眺めていると、夏の熱気を帯びた生暖かい風に乗って、潮騒だけが耳に入ってくる。その音が、むしろ静けさを増した。自分でも気付かぬうちに、海斗は息をするのも忘れていた。

 その情景は記憶の中にあるはずなのに、それでいて初めて見た人と同じように、海斗をその場に金縛りにする。


 バシャッ


 どのくらい同じ姿勢で呆けていたのか分からないが、突然、規則的な波音に割り入った大きな音が静寂を破った。はっとして音の方へ意識を向けると、海斗の眼の前の浜に近いところで海面が割れ、また一つ飛沫しぶきが上がる。


 女の子だった。


 海斗と同じくらいの年頃だろうか。水面に浮かび上がった彼女は淀みなくその四肢を動かし、碧い水面に優美な軌跡を残していく。かと思えば、ふっと水中へ姿を消し、また突然に思いもかけないところで水飛沫を高く上げた。まるで遊ぶイルカのようだ。波に逆らい、波の流れに任せて、彼女の身体が水の中に踊った。


 しばらくその様に釘付けになっていた海斗が再び我に返ったのは、散々泳ぎ回った彼女が浜に駆け上がって腕を大きく振った時だった。


「ねーえ!」

 口をメガホンの形にして呼びかけている相手は、十中八九自分だろう。

「そこで何してんのー!?」

「え、何って……」

「こっち来なよーー!!」

 はやくー! とぶんぶん手を振られては、もう反対もできない。海斗は自転車のストッパーを蹴って車道脇に立たせると、雑草がまばらに生える斜面を砂浜の方へ降りていった。こちらが浜に着くのを待たずに、彼女の方も砂を蹴って駆け寄って来る。


「何であんなとこ突っ立ってたの?」

 会話ができる距離まで来ると、彼女は息を切らせながら、初対面にしては随分と不躾に尋ねた。

「何でって……ただ海を見てただけだけど」

 後半は彼女の泳ぎに見入っていたとは、さすがに言いにくい。

「珍しい? ああ分かった、初めて来たんでしょ」

「いや、今は東京だけど、昔住んでた」

 四年前、中学一年の時まで、海斗も本州から大橋一つかけたこの島に暮らしていた。しかし父親が転勤になって家族全員で引っ越したのだ。東京からは飛行機と電車、バスを乗り継がなければ来られない辺境だ。忙しい両親が帰れる時間はほとんど無く、年末年始でもむしろ祖父が東京へ出て来ていた。

 しかしその祖父が昨冬、亡くなった。今年は新盆だから親族が全員、都合をつけて島に集まった。ついさっき盂蘭盆うらぼんの法要が終わったところだ。


「え、じゃあ泳ぎに来たんだ!」

「え、違うけど。ただ海、見に来ただけ」


 葬儀の時は冬で雪が降っていたし、慌しかったし、来る余裕なんてなかった。

 海斗の返答は全く正直なものだったのだが、相手はさも意外そうに目を丸くすると、素っ頓狂に叫ぶ。

「何で何で?! こんなに綺麗なのに! あ、分かった、さては泳げないんでしょ。嘘、信じらんないこの島にいたくせに」

「決めるなよ泳げるよ」

 さすがにカチンと来て、海斗もつい声を荒げて反論した。そして控えめに付け加える。


「……今は、得意とは、言えないけど……」


 相手がやっと聞き取れるくらいに呟いた口の中で、気持ちの悪い生唾を飲み込んだ。


 四年前の海の記憶は、海斗の中に断片的にしか残っていない。あの日以来、海の水は海斗の自由を封じた。


 真夏の照りつける陽光とは裏腹に、海斗の胸の内に影が広がる。だがそれを、彼女は一言で振り払った。

「昔泳げたなら大丈夫だよ。こんなに気持ちいい海で泳がないなんてもったいない! 決めた。泳ごう!」

「ちょっと待てよ、もうすぐ日も暮れるぞ。しかも泳ぐったって準備も何もしてないしそろそろ帰んなきゃいけないし」

「じゃ、明日泳ご!」

 なんでそんなに泳ぐことに力を入れるのか分からない。急な展開に戸惑う海斗にも構わず、彼女は息継ぎもなく続けた。

「決まり決まり! 浜が開いてる間しか泳げないんだから! あ、私、ようこ! 君は?」

「え、あ、海斗」

「かい、と?」

 勢いに押されて答えると、鉄砲水さながら話していた彼女が動きを止めた。

 しかしそれも気のせいかと思うくらい一瞬で、次の瞬間には海斗の腕が掴まれ、勝手に指切りをさせられていた。

「海斗なら絶対泳げる! て言うか泳ぐ! 泳げるまで泳ご!! じゃ、明日の朝ね、ゆーびきーりげーんまーん」

 高校二年にもなって指切りかよ、とこちらが突っ込みたいのにも気づかないのか、ようこは身体が揺れるくらいの勢いで繋いだ指を振ると、自転車に戻る海斗に「絶対来い!」と叫んで手を振った。仕方なく手を振り返し、海斗は小走りに自転車を押しながらサドルに跨る。


 ちらりと浜を振り返ると、ようこはもう海へ走り出していた。水面に反射する光の粒が、まるでようこ本人から溢れ出しているようだった。


 ——あいつ、どこの家のやつだろう。


 島に住む同年代なら大体把握しているつもりだが、海斗が東京に行った後に引っ越して来たのか。

 海斗の頭の隅、耳の奥の奥で、何か、小さく光るものが微かに音を出すような、そんな感覚がごく一瞬、海斗の意識に触れた。

 胸の奥にも、得体の知れないものが、ふっと湧く。


 ——風の音?


 自転車を走らせる海斗の耳孔に海風が圧をかける。特に気にすることでもない。海斗はペダルを踏む足に力を込めた。


 ***



 翌朝早く、海斗は目を覚ました。障子を透かして入る光が、今日も暑いと言っている。


 ——本当に、海に行くのか。


 四年前のあの日の後、東京に引っ越して、新しい学校に入った。何の変哲もない、特に不満のない毎日だった。ただ一つだけ、水泳の授業だけは胸が痛んだ。


 ——でも、それ以外に自分に何が。


 脇目も振らずに部活だバンドだと休み時間も放課後も眼を輝かせている同級生達を見ながら、海斗はさっさと鞄を引っ提げて帰るだけだった。彼らを、特に羨ましいとも思わなかった。


 もう一度目をつむった。畳の匂いが懐かしい。そのせいか、記憶の彼方にある声が海斗の頭の隅に蘇る。


 ——かーいーとー! いーくよー!!


 四年前まで、夏になると毎日聞いた声。

 目を開けると、あの頃の朝と変わらず、木組みが剥き出しになった天井の下で、照明の電球のガラスが朝の光に光っていた。


 海斗は布団から体を起こし、障子を開けた。


 ***


 開店と同時に馴染みだったスポーツ用品店で必要なものを揃えると、海斗は海へ走った。昨日と同じ防波堤の上に自転車を止めて浜を見下すと、ようこがもう待っていた。ただし、今日は脇に大きな浮き輪を抱えている。


「おはよー! ちゃんと来たね」


 何で朝からそんなにテンションが高いのか、攻撃的なまでの日射しの下で謎過ぎる。ややげんなりする海斗に構わず、ようこは海斗を浜辺に作られたボロい海小屋に急かした。一応、昔から脱衣所や救命具置き場に使われていたものだ。準備を終えた海斗が出てくるや早く早くと体操をさせると、早速片手に浮き輪を、片手に海斗の手を掴んで水際へ駆け出す。


「まず泳いでみよ。取り敢えず」


 ぱしゃぱしゃ水を立てながら先に入ったようこは、腰まで水が浸かるところまで進んで、まだ踝までしか水に入っていない海斗を振り返った。

 足元に寄せる波。随分忘れていた感覚だ。視線を落とすと、水が足首にぶつかってわずかに泡を作る。その水面を透き通して、自分の足がはっきりと見えた。遠目に見ると碧く青く見える海面なのに、近くでは肌色が地上より明るく見えるくらい透明だ。


 初めてこの海に入った時にも、同じように不思議に感じたことを思い出した。


 顔を上げれば、四年前よりさらに強さを増した太陽に照らされて、遠い水平線が白金の線を煌めかせている。その手前、手を振るようこの姿は、逆光のおかげでむしろくっきり見えた。


「はーやーくー、おいでよー! 浮き輪もあるから!」


 海が四年前と同じなおかげか、それともようこの明るさがそうさせるのか、何かが海斗の中のかせを外した。


「さすがに浮き輪はいらねーよ!」


 海斗はもう入ると思っていなかった海へ、歩を進めた。



 肩下まで水が来るほど深いところまで来ると、海斗はさらに沖にいるようこの方へ泳いでいこうと砂から足を離し、全身を投げ出して水を蹴ろうとした。

 しかし、比較的静かな学校の温水プールとは違う。寄せては返す海の波は意外なほど強く、海斗の身体の動きはその抵抗に邪魔された。かなりの力で四肢を動かさないと思いも寄らぬ方向へ流されそうだ。それに気を取られて、海斗は耐えきれずに海面から顔を離した。


 ——……こんなになまったのか……


 予想していなかったわけではないが、改めて愕然とする。水中に立ち上がって、無為に水底に目を落とす。浜のそばより速く強く、水が海斗の肌を打った。


「海斗、大丈夫?」

 気がつくと、もう先まで行っていたようこがこちらを振り返っていた。

「いや、ちょっとびっくりした……」

「大丈夫、海斗はすぐ取り戻すから」

 ようこの顔からさっきまでの能天気な明るさは消えていた。異常に思えるほど確信を持った言葉は、海斗の海の記憶を呼び起こす。

「まず浮き輪で慣らそう! ね、すぐに思い出すよ。この海を」


 ——思い出す、か。


 透明な海の美しさのせいなのか、考えを忘れそうな夏の暑さのせいか。それとも、ようこの明るさのせいか。波に対して後ろめたさのある海斗の気持ちが、緩んだ。


「……やって、みるかぁ」

 そう言って笑った海斗に、ようこはぱっと顔を輝かせて浮き輪を投げて寄越すと、勢い良く身体を海面に投げ出した。

「それでこそ! 波に乗れるまで、やろ!」

 あっという間に海斗に触れるほど近くまで泳ぎ着いたようこの笑顔は、太陽みたいに明るかった。


 ***


 その日は休憩を入れながら夕方まで泳いだ。ようこに言われるまま、始めは浮き輪に捕まりながら水面に浮かんでいた海斗も、午後になると波の抵抗に身体が慣れ、身ひとつでいくからの距離を泳げるようになった。


 防波堤の上のベンチに並んで座り、穏やかに凪ぐ海を眺める。

 久しぶりに長時間海水に身を浸した身体が、海斗にずっと忘れていた疲労感を訴える。泳ぐとなると、四年前からずっと海斗の中に濁り出していた薄ら暗いものは全くなかった。全身を使い込んだ麻痺するような感覚に爽快さすら覚える。長いこと忘れていた、でも記憶の端にまだ残っていたらしい、あの感覚。


「海斗はさ、この島に戻ってきたの?」


 不意に、ようこがぽつりと尋ねた。海斗は隣を見たが、ようこは顔を海へ向けたままだった。ほどいた肩までの髪が風に遊ぶ。


「いや、じいさんの新盆だったから。父さんのお盆休みの間だけ。次の日曜の便で帰るから……あと四日かな」

「そっか。私もね、ここにいられるの、あと四日」

 そして、そっかぁ、おじいちゃん亡くなっちゃったんだぁ、とようこはぽつりと呟いた。ようこの言葉の調子は、海斗ではなく海に語るようだった。


「明日も来る?」


 波が白い。浜に寄せて、泡になって、そして砂をひと撫でして引いていく。


「どうだろうなあー」


 海斗も海に向かって答えた。まだ分からなかった。明日も同じ気持ちで水の中に入れるのか。


 もうすぐ夕飯の準備が始まる時間だ。海斗は、そろそろ帰る、と立ち上がった。真夏の太陽はまだ高い。濡れていた髪も海パンもすっかり乾いてしまった。


 小屋から取ってきたバッグを背負うと、海斗は自転車に飛び乗った。速度を上げながらちらと振り返ったら、ようこがさっきと同じ場所で手を振っていた。


 ***


 翌日も、翌々日も、部屋に入る朝日は夏の強いそれだった。まどろみの中にいる海斗の眼の前がだんだん明るくなり、意識が夢から現実に移ろうとする。


 そうすると、またあの声が頭の中で呼び掛けた。


 ——かーいとー! いーくよー!!


 それは障子の外から、縁側の向こうから、塀を超えた通りの方から聞いていた声だ。

 記憶の隅から蘇るその声で、海斗は眼を開けた。視界に入る、変わりばえのしない朝の電球。四年前と同じ。

 それを見て身体を起こす。そして朝食と身支度を整えると、また海に出かけた。


 ***


 二日目も三日目も、海斗が浜に着くともう先にようこが来ていた。海斗を見つけると水中から浜に出てきて出迎え、今日の水泳メニューを発表した。


 二日目は短距離。お互いにタイムを計りあったり、近場の岩まで競泳をした。

 三日目は遠泳。浜から沖の方へ、先導するようこについて、海斗も必死で四肢を動かした。


 忘れていた感覚が戻るのにそう長くはかからなかった。何しろ四年前の夏までは毎日泳いでいた場所だ。どこが深く、どこが浅いか、次第に海斗の記憶に海の地図が蘇ってくる。


 それにしてもようこの泳ぎっぷりは、見惚れるほど美しかった。波をかき分けて進むというより、自由自在に波に乗るようだ。手足の動きはしなやかで、全く無理がない。やはりイルカみたいだ、と海斗は思った。海の中に生を受けたように水に戯れる。

 その姿に魅せられたからかもしれない。海斗の身体も、自分では信じられないほど水の中で自由になった。


 しかしそれと同時に、海斗の中で何かが、時折、意識の奥の方で微かに鳴った。

 それが何か、海斗自身にも分からなかった。



 水面に反射する陽光のきらめきは、陸の上で暴力的に照りつけるものと同じとは思えないほど不思議に美しくて、目が眩んだ。



 ***


 最後の日、海斗はいつもと同じ時刻に目を覚ました。だが、今日はあの頭の中に聞こえる声はない。開いた目に映るのは昨日、一昨日と同じ、木組の天井から降りる電球。


 起き上がって障子を開けた。もう太陽は高くまで昇り、海を色付ける真夏の空は、どこまでも広く青かった。


 ***


「今日が最後だから、行きたいところがあるの。あのね、ずっと秘密にしておいたところ」


 海斗が浜辺に着くなり、ようこはそう提案した。海斗の父の休みはお盆が終わる明日まで。今日の午後には海斗も、祖父の家の片付けの手伝いや東京に帰る支度をしなければならない。時間もあまりないので、ようこが「ついて来て」と言うのに従って泳ぎ出した。


 ようこはいつものように悠々と淀みなく波に乗って行った。その後ろ姿に遅れないように、海斗も急いで腕と足を動かす。しかし浜を離れるほど、海斗の頭の中に例のかすかな音がまた鳴り始めた。

 沖の方へだいぶ行くと、小島がいくつか両脇に現れ始める。ようこは島と島、岩と岩の間を器用に通り抜けて進んで行く。


 その海の様子は、海斗の記憶に引っ掛かるものだった。次第に、自分の頭の中で鳴る音の間隔が狭く、大きくなっていく。胸の動悸が激しくなるのが分かる。水圧に押されて、脈動が全身に振動した。


 人が登れるくらいなだらかな面を見せる小島のところで、ようこは泳ぎを止めた。身軽にその上に昇り立つと、海斗を引っ張り上げる。


 海斗の心臓の音は、聞こえるほどに大きくなっていた。目を刺す日差しが強く、海斗の手を引いて前を歩くようこの姿がかすんだ。


「着いたっ」


 斜面の一番高いところまで来ると、ようこは叫んだ。その向こう側は見えない。

 でも、海斗はこの場所を知っていた。


 微かに音を立てていた記憶の蓋が、開いた。


 その向こう側。登って来たのと反対側は切り立った崖になっており、下の方はちょうど湾状になるように、岩肌が半円に広がっているのだ。崖の頂上から海へは遮るものが何もない。下を見れば透明な水面にところどころ崖の岩が影を作り、光の粒と混じりあう、美しい海面が見える場所だ。


 海斗ともう一人しか知らない、の場所だ。


「やっと来れたね。ずいぶん、遅くなっちゃった。行こう!」


 一瞬海斗を振り返ったようこが、伸ばした爪先で地面にトン、と弾みをつけ、崖の向こうへ姿を消した。


っっ!!」








 四年前のあの日。

 水泳選手になると約束しあって、毎日海に行っていた夏。陽子が海斗の家へ迎えに来て、二人で自転車を並べて海に走った。

 遠泳がかなり上達したから、明日は飛び込みの練習をしようと、遠泳の最中に見つけたで約束した。


 その次の日の朝、海斗を呼ぶ陽子の声は、聞こえなかった。


 その日の朝早くはよく晴れていた。ずいぶん遠くの方に雲が見えたけれど、一日はもつと前日の天気予報で言っていた。

 しかし海の天気は変わりやすい。

 突然、雲の流れが早くなり、海上を雨雲が覆った。あっという間に激しい風が島全体を襲い、道路に大粒の雨が打ち付け、防波堤の一部を波が抉った。海斗の家へ向かうのに陽子が通っていた防波堤だった。

 大荒れに荒れた海へ人が出られる状況ではなかった。救助隊も捜索隊も、全く無力だった。


 あの日以来、水が、海斗の身体の自由を奪った。








 全身に衝撃を感じると同時に大きな水飛沫が上がる音がし、その直後に鼓膜が圧迫されて聴覚が失われる。

 飛び込んだ水中の中で海斗はもがいた。水に打ち付けられた時の衝撃で瞑ってしまった目を開けようと、水圧にあらがって、ゆっくりと瞼を動かす。

 うっすらと開けた視界にまず入って来たのは、吸い込まれるような水の碧。それは上に行くほどに明るさを増し、光彩を交え、水色から白へとグラデーションを作っている。

 そしてその先には、海斗が今まで見たこともないような光景があった。


 向こうから照らす日の光は水面に揺れる波に砕け、万華鏡のようにひと時として同じ色にとどまらず、色とりどりの珠となって遊んでいる。


 その鮮やかな光を背にした陽子の姿が、澄んだ水の中で光を纏っていた。


 ——海斗、ごめんね。こんなに待たせて。


 逆光のはずなのに、海斗の方を見る陽子の顔には少しの影もない。


 ——明日には行かなきゃだから、焦っちゃった。指切りげんまん、したものね。


 陽子の声が海斗の頭の中に語りかける。この声だった。毎日海斗を呼びに来たのと同じ声の調子。四年前の夏まで、毎日聞いた声だった。


 ——良かった。また海斗に会えて。約束、守れて。


 そう柔らかく笑うその顔も、四年前のあの日の前日、指切りをして海斗と約束した時のと同じだ。


(待てっ……陽子……! まだ……)


 海斗は必死で腕を伸ばした。陽子の頬を包み込み、引き寄せる。



 再び顔を離すと、陽子は目を丸くして海斗を見たが、すぐに泣き笑いのように目を細めた。


 ——ありがとう海斗。……さよなら……




「っ……陽子っ……!!」


 勢いよく水飛沫を上げて水面に上がった海斗の手は、空を掴んだ。急に聴覚を取り戻した耳には、岩肌にぶつかって砕け散る波の音しか聞こえない。



 だが、重ねた唇に、確かにほんの一瞬前に感じた感触が残っていた——



 ***


 伸ばした爪先で地面にトン、と弾みをつけ、崖の向こうへ飛び込む。

 海面で一瞬、全身に走る衝撃。失われる聴覚。

 水圧に耐えて瞼を開ける。でも昨年とは違って、もうそこに陽子の姿はない。



 一年前、この場所で陽子が消えたあと、海斗は東京に戻る日の朝にもう一度だけ浜に来た。しかしそこにはもう、海斗を待つ彼女の姿はなく、家に戻るほかなかった。

 両親とともに親戚へ挨拶回りした後、陽子の家にも行った。ちょうど盆の送り火をしているところだった。海斗だと言うと陽子の母親は驚いたが、快く火を焚かせてくれた。


 東京に戻ってから、海斗は再び水泳選手になるという道へ戻った。部活に入るには遅すぎるし、体育大受験にももう間に合わない。代わりに個人インストラクターを探し、優れた水泳選手も出して選手活動のサポートも厚い大学を志望した。


 水中で上を見上げる。碧からだんだん白を濃くして変わる水の先に、光を受けた水晶のように色を変える美しい海面。波が揺らぐのに合わせてきらめきが走る。



 ——……陽子……待ってろ。約束は、守るから。



 透明な海の中へ柔らかな明かりを水中へ落とすその光に、呼びかけ続ける。それは何年経っても、あの日と同じままだった。



 Fin.

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