第3話)最高の食卓

PM19:35/河合梨花×藤本美里

 まさか、先客がいらしていた。だ、なんて。そんな悠長な気分なんかでは決してありませんでした。だって、そうでしょう。その人、柵の外に立っているんですもの。しかも、私と同じような有り様で、です。そんなトコに立っていたら、とっても危ないですよ! とか。何があったのかは存じませんが、考え直してみてください! とか。他に方法があるかもしれませんから、どうか、どうか、早まらないでください! とか。そんな感じの事を声かけしてみるのが普通なんでしょうね、この場合。それはもう見たまんまそのとおり、其処から飛び降りるつもりなのでしょうから。私自身が何度もそうしようとして、結局のところその勇気なく断念した事です。なので、そういう想像と直結してしまっただけなのかもしれませんが、わざわざ柵を乗り越えて立ってらっしゃるというこの状況は、十中八九という高い確率でそうしようと思っている筈で、つまるところそう危惧するに及んだこの発想は、何一つ突飛な結論なんかではない、と。そのように考察を結んでしまっても何ら差し障りはないでしょう。私の視線の先にある視界に映る光景は、それ程までに真実は一つ。なので、私の私による私自身の何らかによる早とちりなんかではない。と、そのように思うのですが。私が及ぼうとしてきた事を、そして今そうしようと決断した事を、実際に私ではない何方かがこうして、そう。こうして実行に移そうとしている場面に遭遇してしまいますと、面喰らう。と、言うべきなのでしょうか。誰とも知らない間柄な関係性ではありますが、故に何の事情も存じ上げないままではありますが………いいえ、だからこそなのでしょうか。自分の事は棚に置いて、自分の様相も棚に置いて。そんな終わり方を選ぶ他には何一つ、手立てはないのですか? と、いう引き止め工作の一つでも講じてみようと思うものです。論じてみたくもなりますし、危惧してしまったりもしますし、その身を案じてしまったりもしてしまいますよね、どうしても。「えっ、と。あの、こんばん、わ………」ですか、そのワリに。なんとものんびりとした、場違いな挨拶をしてしまうに至りました。これはこれで逆に、呆気にとられてしまってそんな気分ではなくなるかもしれませんし、そちらの方向へと意識を少しでも向けていただければ、風向きが変わってくれでもすれば、それはもう結果としては効果的な介入だったと言えなくもないのですが、はたしてどうなのでしょうか。この屋上で何方かとこうして出会うのは、私の記憶に間違いがなければ初めての事になります。それなのに、その初めてが私と同じように無残なパジャマ姿の、たぶん同年代でしょう女性になるとは。シンクロニシティー? を、覚えずにはいられないといった感じがします。しかも、ですよ。近づいてよくそのお顔を拝見してみますと、あらヤダ。おかずにはもってこいどころか、主食として存分に味わいたいくらいの、かなりの美人さんです。たぶん笑顔がよく似合うでしょう、そして誰からも愛されるでしょう、きっと多くの人から憧れを抱かれるでしょう、言うなればこの世界の勝ち組の中の更にそのド真ん中を歩いているかのような、そんなふうに見えるその人が、そんなふうにしか思えないくらいのその人が、今の私と変わらない姿でこっちを見ている。私と同じような惨めさに共通しているかのような、そんな哀れなお姿を晒して、私を見つめている。驚きと悲しみがどっち付かずのような表情で、ただただ。呆然としているような、唖然としているような、そういった感じで、私を真っ直ぐに捉えている。しかも、よくよく見つめていますと、何度かご挨拶程度の会話を交わしたような事もありましたよね………その度に私、綺麗な人だなぁー。と、思ったような気もします。人間というのは不思議な生き物ですね。つい先程まで確実に飛び降りるつもりでいましたのに、そんな自分は棚に上げたまま、とある邪な思惑が頭の中に浮かんでいる。私と同じと言っても良いそのお姿に、興味を抱きつつある。


「どうしたの? その姿………大丈夫なの?」

 暫しの沈黙の後、その人はそう言って私を窺う。心配してくれているようなのですが、それはこっちのセリフでもあります。誰かの事を心配デキるようなお姿ではない筈なのに、そんな余裕なんて少しも見受けられない有り様なのに、それなのに私の事を心配してくれている。素振りだけではなく、その声からもそれが充分に伝わってくる。だからなのでしょう、その声は私の心にまで染み渡ってきて、温もりさえ感じてしまったかのような覚えもする。この人はきっと、心の綺麗な人なんでしょうね。と、思わずにはいられない。御自身の現状を棚に置いて、見ず知らずの私の事を憂う。例えるとするならば、千載一遇の大チャンスが到来し、今まさにその最終段階の中に身を置いているとしても、目の前で困っている人に手を差し伸べてしまう。それによってそのチャンスを棒に振る事になろうと、天秤にかける事すらなく即断そして即決で、その人を救おうとする。この人は、きっと、そう。誰かの心の痛みにも涙してしまうような、そんな心も綺麗な人に違いありません。「ふえっ、うっ、うぐ………ひんっ!」一見した感じだけでも、私と同じように大変で酷い事になっているというのに。私はその優しさが嬉しくて、嬉しくて嬉しくて。涙が、ぶわっ。と、溢れてきてしまいました。どうしようもなく泣いてしまいますよ、そんなの。泣くに決まっているじゃないですか。勿論の事、言わずもがなではありますが、先程までの涙とは理由が真逆のそれです。あ、そう言えば。真逆なのに同じ事象って、涙するくらいしか思い浮かびませんね。うん………私、まだ意外と冷静のようです。


「え、え、あ、ゴメンなさい! えっと、泣かせるつもりじゃなかったの! ゴメンね、あの、泣かないで、ね?」

 私が子供のように泣き出したものですから、そう告げながら慌てて柵を戻って近寄ってきて、そして頭を、ぽんぽん。と、撫で始める。そして、優しく抱き寄せてくれて、慌てた様子とは異なり私を宥め落ち着かせようとする。「ふえっ、うぐ、ゴメンなさい。私………三階の、河合梨花です」その一部始終を泣きじゃくりながらもつぶさに視認していた私は、溢れ零れてなかなか止まってくれない嗚咽を、それでも。ぐっ、と。堪えて、その上で。どうにかこうにか、自己紹介をしました。これもまた、場違いだったかもしれません。いいえ、場違いそのものだったでしょうが、自分の事を差し置いて優しくしてもらえた事が嬉しくて泣いてしまったので、慌てさせて更に心配までさせてしまった事へのお詫びのつもりでした。ですが、続く自己紹介については自分でも、こんな時に私ったら何を言っているのかしら。と、告げたそばから思いました。完全にそう思いましたし、そのように自覚もしました。すぐに気づいて恥ずかしくなりましたし、逃げ出したくなりもしました。ですが、です。きっと、子供のように泣きじゃくっているように見えてその実、冷静に観察している部分もあるからなのでしょう。この人を見極めよう、と。見定よう、と。そして、見合いそうだという期待が持てたその時には、と。そういった、どろどろ。と、した思惑。が、じわじわ。と、私を内側から浸食し始めていました。とは言うものの、自分で言うのも哀れな感じが満載なのですが、惨めな感も壮大なのですが、そもそもがかなりのコミュ障さんですから、例え充分に冷静さを保っている状態であったとしても、結局のところ存分にヤラかしてしまうという可能性の方も否定はしませんけどね。庇ってくれているのか貶されているのか判然としない表現なのですが、天然な人。と、いう括りで私をインプットしていらっしゃる人、実のところ多いですし。あ、好意的なら天真爛漫と表現しそうですよね。と、なれば。天然………申し訳ございません、ぺこり。


「え、え、今? いやその、あああの、私は、二階に住んでる藤本美里、です。えっと………落ち着いた? ゴメンね、泣かせちゃって」

 きっと、私自身が私の事をそんなふうに思っているくらいですから、この人も。美里さんも同じように、突然で唐突な自己紹介についてそう思ったんでしょうね。一瞬の事ではありましたが、きょとん。と、なっていました。くりくりの瞳を、ぱちくり。と、させてしまいました。ですが、優しい人だからなのでしょう。そんな私に合わせてくれたのか、場違いな自己紹介で返してくれました。なるほど、そうですか。ふじもと・みさと。藤本、美里さん、かな。うん、素敵なお名前ですね。「美里さん………おいくつなんですか?」実のところ、これより少し前に芽生えていたある種の思惑は、既に花を咲かせようとまでしています。それは故意に、そして意図的に、です。これこそまさに、どろどろ。と、した思惑というヤツです。それが今に至っては、じわじわ。と、花を咲かせようとするまでに成長しているんです。ですから、まだ初対面から未だ日が浅いどころか、つい先程ご対面したばかりだというのに、おもいきって下のお名前の方でお呼びする事にしてみました。そして、これもまたおもいきってなのですが、年齢を伺ってもみました。


「え、あ、その、二十五だけど………」

 思惑があるにしても些か、いいえ。かなり突然で唐突だったからでしょうか、美里さんは今度こそ完全に戸惑いを覚えた御様子で、怪訝な表情らしき顔色を浮かべるに至ったようにお見受けしますが、そうなりながらもそう思いながらも、それもまた優しさからなのでしょう、受け止めて飲み込んで答えてくれたように感じました。何はともあれお答えになってくれたのですから、これはもう思惑を更に先へと進めても問題ないでしょう。そうですか、私より三つ年上ですか。なるほど、クリアです。でも、これから先は思惑の根幹となる重要な部分です。とんでもない企みであり、たぶん、きっと、柵を乗り越えて飛び降りる事より現実的ではない目論見となります。心の優しい人だとお見受けさせていただいたものの、流石に情に訴えるだけでは如何ともし難いでしょうね。さて、どうしたものか。美里さんにとっての、見返り。実行に移した際のその先にある、魅力。それを、私は提示する事が可能なのでしょうか。この私を、そのような存在だと感じてくださるでしょうか。事に及ぶ覚悟を、共にする日は来るのでしょうか。勿論の事、試みる他に選択肢なんてただの一つもありませんけどね。「私………兄がいるんですけど、暴力を振るわれているんです。毎日毎日、毎日毎日毎日です。でも、もう耐えられなくって、あんなヤツ、いっそ、この手で殺してしまいたい。そう思っています。でも、でも、そんな勇気はないから、だから、だから私、もう、死んじゃおうかと思いまして………それで、此処に」自分が置かれている環境を、境遇を、悲痛さを、私は感情たっぷりに美里さんに晒していきました。状況を説明していきました。心情を吐露していきました。それについての反応を表情から窺いつつ、ある期待を込めて情に訴えかけてみる。まずは、そこから。やっぱり、そこから始めてみるしか、他に方法が浮かびません。あとはその胸に飛び込んで、壊れかけゆく私を最大限に見せつけて、晒すかのように溢れ零れさせ、しがみついて、懇願して、可能であれば共感していただいて、死んでしまう以外の方法はそれしかない、と。そのように、誘導するだけです。藤本美里さま。この人であればそこまでするに値します。直感ですが、これは運命の巡り逢わせです。そうまでするに足る、唯一の候補です。だって、今の今まで此処で誰かとお会いした事なんてありませんからね。そんな中で巡り逢ったんです。しかも、こんなにもシンクロしてしまうような様相で。このチャンスを、ここで逃すワケにはまいりません。どんなに時間をかけてでも、日をいくつ跨いででも、私はこの出逢いを失敗するワケにはいきません。逃したら後悔する、と。本能が告げています。そして、そう思えてなりません。そう感じてならないのです。期待せずにはいられないのです。だからこそ、私は進みます。此処に来たのは今度こそ死のうと決めたからではなく、この人に出逢う為だったのだ、と。そうに違いない、と。私は確信するに至る。さぁ、進めようか。進もうか。


 真逆にある、

 暴論を現実にする為に。


 ………、


 ………、


 ………、




PM21:10/村瀬雛子×橋野麗菜

「大丈夫だから。ね?」

 と、麗菜が耳元で優しい声をかけてくれる。もう何度目の事になるのかな、麗菜からその言葉を囁かれる度に、私は落ち着きを取り戻してきました。今までずっと、そうでした。もはや私は、死ぬしかないという現実から目を逸らし、背中を向けて、やっぱり死にたくなんかないという身勝手な欲求に支配されようとしている。そして、それと同時に、麗菜に甘えようとしている。「私、どうしたらイイのかな」だから、私は求めようとする。だから、そんな事を訊こうとする。敢えて、それを麗菜から言ってもらおうとしている。


「このままでイイから。このままで全く問題なし」

 すると麗菜は、私が望んでいた言葉を与えてくれた。それも、即答で。いつだって、麗菜はそうでした。全くとか、必ずとか、絶対とか。そういう言葉を敢えて使って私を励ましてくれる。そして、問題なしと言って勇気をくれる。真っ直ぐに私を見つめながら、迷いなく、淀みなく、私を導いてくれる。やっぱり麗菜は、私の王子様なんだね。麗菜はずっと、私の王子様でした。私にとって麗菜は、ずっとずっと私の王子様です。麗菜が男の子なら良かったのに、と。よく、そんなふうに思ったものです。麗菜が男の子なら、麗菜のお嫁さんになれるのになぁー。と、麗菜に言った事があるような記憶もあります。まだ二人とも、幼い子供だった頃の事ですけどね。麗菜、道連れにしてゴメンね………生きるという未来に執着する限り、私の精神は止まる事なく壊れ続けてしまうのでしょうし、苛まれ続けるのでしょう。麗菜を道連れにしてしまったという罪の意識に耐えられず苛まれ、それでも麗菜を誰にも渡したくないという身勝手さから、自己嫌悪に蝕まれていくでしょう。でも、自首する意思は持ち合わせていません。自分勝手だろうと何だろうと、逃げ続けたい。だから、たぶん決して遠くはない未来を終着駅として、脇目もふらずに壊れていくでしょう。身勝手で、自己中心的。そして自己保身欲が強い私は、そのクセにあまりにも脆い。「ゴメンね、レナ。ホントに………ゴメンなさい」私は、麗菜を不幸にする存在でしかないんでしょうね。


 でも、麗菜に居てほしい。


 麗菜がいてくれなければ、私はこの先の暫く後どころか、ついさっき詰んでしまっていたでしょう。言うまでもなく、セーブポイントも残機もありませんから、ゲーム・イズ・オーバー。もうとっくに、人生の幕引きに及んでいた筈です。思い返せば、そう。麗菜はいつだって、こんな私の傍に居てくれました。私が大ピンチになると、いつも私の傍に来てくれて、私に笑顔と元気をくれる人でした。


「もう謝らないで。大丈夫だから、ね?」

「うん。レナ、ありがとう………嬉しい」


 私がベランダの柵を乗り越えようとした時、携帯電話が着信音と共に震えました。耳に届いたその着信音で麗菜だとすぐに判った私は、死ぬのは待てと麗菜に言われているような気がして、そう言ってくれているような気になって、ふらふら。と、覚束ない足どりでリビングに戻り、テーブルに置いてあったバッグから携帯電話を掴み取りました。


「私はいつも、雛ちゃんの味方だよ」

「レナは優しいね………ありがとう」


 きっと私は、理路整然と、詳細に、克明に、私がしてしまった事についての説明をしてはいなかったでしょうが、麗菜に私が犯した事の顛末を吐露しました。麗菜には一線を引くみたいな接し方をしているものの、そのクセにいつも相談に乗ってもらっていたので、だからまた麗菜に頼ろうとしました。麗菜からすれば迷惑すぎる事だったでしょうが、慣れた事でもあったのでしょう。支離滅裂だった筈の私に、すぐ行くからと優しく告げてくれました。麗菜なら、麗菜が来てくれるなら、なんとかしてくれるかもしれない。と、そう思いました。麗菜が来てくれると約束してくれた事で、少しずつ落ち着きを取り戻していった私は、麗菜に自分の居るその場所を教えていない事に気づき、すぐに麗菜に電話しなければと思いました。でも、どうやらちゃんと告げていたようです。だって、告げていないと来れませんもんね。狼狽を通り越して錯乱に近い状況だった筈なのに、それなのにしっかり告げていただなんて、私はやっぱり自己保身欲の塊なんでしょうね。頼られても困惑するしかないような事態を招いた私の元に、麗菜はすぐに駆けつけてくれました。通話を終えてから、まだ僅か数十分後くらいだったと思います。汗をかいた肌の感触と、熱を帯びていましたから、言葉どおり駆けつけたという感じで、かなり急いでくれたんだとすぐに判りました。死のうとした間際に電話をかけてきてくれて、すぐに駆けつけてくれて、こんな私を救おうとしてくれる。嬉しくて嬉しくてたまらなかった私は、そんな麗菜にしがみついたまま、その温かな胸の中で、わんわん。と、おもいっきり泣きじゃくりました。すると麗菜は、そんな私を、ぎゅっ。と、抱きしめ直してくれました。ぽんぽん、と。頭を撫で撫でしてくれました。嬉しくて麗菜を見上げると、すぐに麗菜と目が合って、麗菜は柔らかい微笑みを見せてくれて、私が目を閉じて求めると、そんな私に優しくキスをしてくれました。きっと、私を落ち着かせようと思ったんでしょうね。だから、求めに応じてくれたんでしょう。それから私は、麗菜の背中にしがみつくようにして、自分が犯した状況を確認しに行きました。それによって、もう再び動く事はないだろう事を確実に認識しました。私は再び目の前が真っ暗になり、やっぱり無理だと、警察に捕まってしまうに決まっていると、我が身可愛さで頭がオカシクなりそうになりました。でも、麗菜はそんな私を抱きしめ直してくれて、そんな事をしてしまった私を再び落ち着かせようと思ってくれたのでしょうか、麗菜は泣き喚き続ける私を押し倒し、そのまま………私は、麗菜に抱かれました。最初は、あまりにも突然の事で驚きはしました。でも、そんな麗菜の狙いどおり驚いてしまった事により、私の意識はそちらへと集中して、頭がオカシクなる危機は寸前で回避されました。そして、精神状態が極限にあって昂っていたからなのかもしれませんし、麗菜には心を開いているからなのかもしれませんし、ただ単に私が淫らな女だからなだけなのかもしれませんが、その先を拒む気持ちなんて皆無でしたから、このまま麗菜に委ねようと思いました。あ、私………裸のままでした。今になって気づきました。私の元へと駆けつけてくれた時から、時折り目が泳いでいたように思ったのは、私が裸だったからなんでしょうね。それはびっくりしますよね、まさか裸でいるなんて思いもしないでしょうから。正直に言うと、麗菜に淫らな自分を晒してしまうかもしれないという不安を覚えていなかったワケではないのですが、麗菜に抱いてもらえるという嬉しさの方が上回っていました。だからなのでしょうか、身体の感覚が麻痺してしまうくらいに、頭の中が真っ白になってしまうくらいに、身も心も満たされてしまいました。あんな事をした私でも、麗菜は味方になってくれる。と、判った私の心に。どろどろとした、ドス黒い邪な思惑が芽生えました。


「じゃあ、さ。傍に居てくれる?」

「ヒナちゃん………勿論ですよ!」


 麗菜に抱かれている間、私は私が犯した重い罪を完全に忘れていました。麗菜によって与えられる感覚に酔いしれていて、それのみに溺れていました。実のところそうなるのは、初めてではありません。麗菜とそうなるのは、それで二回目となります。ただしそれは、所謂ところのお互いが共にガクガクとオチるというところまで、少なくとも一度は頂点へと導かれるそこまでに至った時の事のみをカウントするならば、ですけどね。お酒を飲み過ぎて酷く酔っていたので記憶が定かではありませんが、たしかにそういう意味合いにおいてなら問題なくカウントされるでしょうその時は、いつものように麗菜が私を慰めてくれていて、そしてそのまま成り行き任せで………だった。と、そのように記憶しています。なので、記憶が朧気で詳細に思い出す事が出来ず、淫らな姿を晒してしまったかもしれないと不安になり、麗菜がどう思ったかが気になって仕方ありませんでした。あんなに飲めば、悪酔いして二日酔いになる筈なのに、それなのに気にならないくらいでしたし、何を苦に慰めてもらっていたかなんて、そんなのはもうどうでも良いと思えるくらいでした。なので、私が変に意識してしまうに至りました。麗菜は優しくて、そして、心の広い女の子なので、そんな私にドン引きしているとしても、私を気遣って敢えて言わない筈です。だからこそ不安で仕方がなくて、麗菜に素っ気ない素振りをしてしまい、麗菜と距離を置くようになりました。嫌われてしまったかもしれないけれど、それなのに優しくしてくれている。そう思うと、もうそれ以上は悪く思われたくなくて、どう接したら良いのか判らなくなってしまったんです。でも、本当のところはどう思っているのか。それが、気になって仕方がない。そして、私はやっぱり、麗菜を頼りにしている。結局のところ私は、嫌われたくなくて一線を引いているクセに、どう思われているのか知りたくて悩みを相談したりして、その時の麗菜の態度などから、麗菜の本心を見つけ出そうとしてきました。でもはっきりと判らなくて、また気まずい態度になってしまう。その、繰り返し。堂々巡りという感じでしょうか。あの時の私ってぶっちゃけどんな感じだった? と、直球勝負で訊く勇気なんてありませんし、そんな賭けをして、もしも墓穴を掘るような事にでもなったりしたら、それで麗菜を失ってしまうような事にでもなったら、もう私は生きていけません。そして、殺めてしまったあの人と関係を持つようになっていた頃になると、私の中の淫らな自分がその存在感を増してもいましたので、そんな私を麗菜が知ったらと思うと、尚更にして麗菜に嫌われたくなかったんです。


 私には秘密がありました。

 麗菜には知られたくない。


 そんな秘密がありました。


 私はあの人に、弄ばれていただけでした。ただただ弄ばれていただけでした。教え込まれて育てられるに至った一端を耳にしただけでも、きっと、殆どの人は私の事を、淫乱な女だと罵り蔑むでしょう。でも、それでも私はそれらの全てを愛情だと思っていました。愛しているから、そんな事を私にさせようとする。そんな事をさせたいと願う。つまりそれは私をそれほどまでに信用し、信頼もしているからで、心の奥に秘めて隠して我慢していたあんな事やこんな事をシテみたい、シテほしいと、あの人は私に晒け出しているんだと。私は本気で、そう思っていました。私が麗菜に自分は淫らな女だと告げる勇気がないのと同様、特にそれがアブノーマルと形容される行為への欲求であれば、そういう人間だと告白するのはかなりの勇気が必要な筈です。だからこそ、その全てを受け入れてあげようと思いました。私には、あの人の勇気が判る。あの人は、勇気を出して告げてくれたんだ。だからこそ、私は応えてあげたい。と、あの人が望む事をそのとおりしてきました。従順に、そして健気に、そうしてきました。そして、いつしか、多大な快感を覚えてしまうようになっていました。あの人が高揚して更には喜んでいる様子に心から満足していましたし、その後にかけてくれる甘く優しい言葉と心遣いに愛情を感じていましたから、どんなに痛くても、苦しくても、恥ずかしくても、それを凌駕する強い快感を覚えるようになっていきました。本当は麗菜によって導かれたかったのですが、麗菜は女の子ですから、私をお嫁さんにはしてくれないでしょう。でも、淫らな欲求は私から消えてくれませんし、自分自身で満たすのも限界があります。


 私には、

 道具が必要だったんです。


 正直に言えば、私はあの人を愛していませんでした。あの人は、誰にも言えない欲求を私で満たす。私も、誰にも知られたくない欲求をあの人で消化する。しかも、あの人は私に惚れている。私の中に根深くある、惨めに凌辱される事に興奮を覚えるという性癖と、それでも奴隷のように下に置かれるようにはなりたくないという自尊心が、両方とも叶う相手があの人でした。そんなある種、相反するような気質を両立させる事が可能な道具。それが、あの人でした。


 それなのに、

 あの人の本心は違いました。


 あの人にとって、私はただの家畜でした。どんな事でも、素直に言う事を聞く。どんな事をしても、させても、甲斐甲斐しく懐いてくる。自分好みに調教して、自分好みに仕立て上げた、牝。ミイラ取りのつもりがミイラになる。そんな感じでしょうか。私の性癖と気質を両立させるには、愛されているという前提が不可欠です。でも、それが無ければ屈辱でしかありません。ただの享楽でただただ凌辱してくる奴に、そうと判っていても惨めな醜態を晒す。そんなの、プライドが許しません。私はそんな女なんです。普段は大人しくて、愛想が良くて、地味な女。でも、その本性は身勝手で、自己中心的で、淫らな女。自覚しています。私は、そんなイヤな女なんです。


「ずっと、私の傍に居てくれる?」

「うん………雛ちゃんの傍に居る」


 あの人の愛情に疑問を抱いたのは、態度が冷たいと感じる事が多くなってきたからです。私は彼を、試してみる事にしました。本来であれば、女性が一番ヤッてはいけない事、そんな嘘を、あの人にぶつけてみました。アナタの赤ちゃんを身篭りました、と。するとあの人は、がらり。と、豹変しました。ううん………私がただ単に思い違いをしていただけですから、あの人にとっては豹変でも何でもないんでしょうね。


『は? 避妊薬はどうしたんだよ。服用したって言ったよな? 今になってどうしたんだよ、結婚してほしいって事か? それともお金か? 産んでも認知なんかしないぞ! 今のヤツと別れるつもりなんてないしな。で、いくら欲しいんだ? 言ってみろよ。その代わり、会社を辞めてくれよな。手切れ金としてくれてやるよ。他にも家畜はいるし、オマエには飽きてきた頃だったし、潮時だな。シャワーを浴びてくるから、いくら欲しいのか考えとけよ』


 目の前が、真っ暗になりました。

 絶対に殺してやると思いました。


 今すぐにでも、

 この手で、と。


 それから先の暫くの事については、実のところ覚えていません。意識が意識として認識可能になった時にはもう、あの人は息をしていませんでした。プライドを傷つけられたと思った瞬間、私は激昂していました。そしてその激昂の中には、コイツを殺さないと私の性癖がバラされてしまう。と、危惧する自分もいました。そうです、私が自暴自棄に陥って死のうと思ったのは、激昂して見境なく殺めてしまった事への、罪の意識ではありません。あの人への贖罪でもありません。この先に待っている当たり前の現実に恐怖し、絶望したからです。罪を犯せば、法で裁かれる。逮捕され、収監される。そんな現実は恐怖ではあります。でも、それは絶望ではありません。羞恥に満ちた事実が周知となり、麗菜に露見する。それが絶望だったのです。そして、死のうと思ったのはその絶望の方が圧倒的だったんです。完全に、そうです。我が身可愛いさによる、自我の崩壊です。


 でも、

 麗菜が救ってくれました。


 麗菜がいつだって私に優しいのは、私の事を今でも、命の恩人だと思っているからなのでしょう。私は麗菜に何度も助けられていますので、私にとっては麗菜の方こそが命の恩人なんですけどね。だからこそ、今でも身体に残る傷痕の事で、麗菜を恨む気持ちも全くありません。コンプレックスではありますし、傷痕が理由で恋愛に奥手なのは事実ですが、麗菜のせいだと思った事なんて一度もありません。どちらかと言えば、名誉の負傷だと思っているくらいです。何故かといえば、麗菜を愛しているからです。傷痕にコンプレックスを抱くのも、恋愛に奥手なのも、私の裸を知る誰かからこの傷痕を麗菜に知られたら、更に私に気を遣うのは間違いないからです。麗菜に気を遣ってほしくないからこそ、これまで忘れたフリをしてきました。私に傷痕が残っている事を、麗菜は知りませんから。もしも知ってしまえば、私に罪悪感を抱いてしまうでしょう。もしかしたら、私の前から遠ざかろうとするかもしれません。私は本当に何とも思っていませんし、大好きな麗菜を救えた名誉の傷だと、そんなふうに自分を褒めてあげているくらいですから、眺めては微笑んだりする事も多々あるんです。でも、麗菜は優しいから、私が気遣ってそう言ってくれているとしか思わない筈です。そして、気を遣わせてしまうから会わないようにしなくては、と。そう決心して、私の前から完全に消えようとするに決まっています。麗菜がいない毎日なんて、私には耐えられません。産まれた頃から、ずっと、ずっと、一緒だったんです。幼稚園からずっと一緒で、高校や大学、更には就職も、麗菜と一緒になるようにしてきました。麗菜のお嫁さんになる事までが理想なんですが、それは諦めました。本当なら、私の淫らな部分も麗菜に慰めてもらいたい。でも、傷痕のある裸を麗菜には絶対に見せられない。それに、淫らな女だと麗菜に思われたくはない。だから、諦めるしかない。それに、女の子同士だし。と、そう思っていました。つい、先程までは。


「レナぁ………大好き」

「私も………好きだよ」


 麗菜が抱いてくれた時、私は淫らな自分を少しも隠しきれなかった筈です。傷痕に気が回らないくらいに。そんな私を麗菜は受け入れてくれましたが、傷痕が残っている事を知られる事にもなりました。それと、私が忘れたフリをしていた事も。傷痕がしっかり残っているのに、忘れる筈がないもんね。傷痕を見た麗菜は、予想どおりでした。なので、私は本心を告げました。本当に恨んでなんかいません。麗菜の方こそが命の恩人です、と。すると、麗菜は私に言ってくれました。私の事を愛している、と。だから、私も言えました。麗菜を愛している、と。私達はこの時、初めて、心から結ばれたんです。だったら………麗菜のお嫁さんになれるじゃないですか。そうと決まれば、話しは変わってきます。私に残る傷痕も、麗菜を逃がさない究極の武器になりますよね。


 私はイヤな女です。

 私は淫らな女です。

 自分勝手な女です。


 そして、私は気づいたんです。知っちゃったんです。麗菜に抱かれてさえいれば、麗菜が抱いてくれさえすれば、これから先ずっと襲われ続けるであろう、人を殺めた。と、いう事実を、もしかしたら、忘れてさえしまえるかもしれないという事に。それと、私にすっかり根付いてしまった淫らな欲望も、麗菜が満たしてくれる事も。私を選んでくれると判っていたなら、麗菜を諦めて麗菜以外の人で満たされようと思う事なんてなかったし、ずっと前に麗菜のお嫁さんになれていたかもしれません。こんな事なら、勇気を出して告白しておけば良かった。そうすれば、人を殺める事もなかったのに。私はそう後悔しました。それこそ身勝手すぎると、自己中心的すぎると、ドン引きされてしまうでしょうね。けれど、それの何がイケナイのですか? 私が正気でいる為に、都合の良い解釈をして、それの何が悪いのですか? 麗菜は私を救ってくれてわ私は麗菜と結ばれたんです。麗菜はやっぱり、私の王子様だったんです。諦めていたのに手に入った麗菜を、手放すなんて有り得ません。そう思うのは………当然の事ですよね?


 麗菜は、

 私だけのモノなんです。


 ………、


 ………、


 ………、




PM21:14/中田静香×篠原恵子

 何やら、です。踏み切りが降りているのに、つまり電車がまもなく通過しようとしているのに、それなのに踏み切りを横切ろうとしたおバカさんが居たらしく、当然の如く電車は緊急停止。暫しの遅れをもって漸く到着する事となった。ホームで心待ちにしていたのは私達二人のみだったので、私達も私達で終電を逃して佇んでいるおバカさんみたい。あ、おバカさんと言えば………いくら制服を繕っても、帰りは私服に着替えるのよね。それが当たり前なのに私ったら、ロッカー室の前を通るあたりになって漸くそれに気づいちゃうなんてさ。流石に制服のままで会社を飛び出したら、目立っちゃうよね。急いでいるとはいえ、やっぱり着替えるよね。もしも街の中を制服で歩いていたら、ハッピーハロウィンですか? って、言われちゃうよね。なんやて、こちとら本職じゃあー! って、言っちゃうよね。言うとる場合か。兎にも角にも。めぐみが私服に着替える間、めぐみも私も無言のまま。ただただ無言のまま。気まずいというか、恥ずかしいというか、そんな中でただ一言だけ。『意味なかったね………ゴメン』それに対して、めぐみは。『えっ、あ、そっ、そ、そそそそんな事ないでふっ!』うん………あれはさ、あきらかに気を遣ってくれていたわ。そんな事ないでふっ、だもん。でふっ、だよ? え、あ、そそ、だもん。そそそそんな事、だもん。あんな事したのに、その横でお裁縫………うん、次は早く逃げようね。



 ぷしゅー。



「よし、乗ろっか!」けれどもう、賽は振られたのだから。いいえ、賽を振ったのだから。忘れましょうね、そんな事。そうよ、いつか笑い話になる日が来ると思うよ! 兎にも角にも私はめぐみに声をかけると、誰も居ない車両に乗り込んだ………あ、一人だけ座っていた。見ていないフリしてあっちに行こう。あっちの車両は………誰も居ないね。チキンなのは自覚している。けれど、なるべくなら誰にも見られたくない。これから先の事を考えると、ね。その横で、何を思っているのかめぐみはずっと無言のまま。私が着ている上着の裾を掴んだまま、私の後ろをついてくる。気になって電車の窓に映るめぐみを見たのだけれど、俯いたままでいるから前髪が顔を覆うように隠していて、だからその表情は私からでは判然としなかった。振り返って確認する勇気がないところが、私の小心さを物語っている。もしかしたら嫌なのかしら、とか。制服の件をまだ腑に落ちないでいるのかしら、とか。マイナスな考えばかり頭の中を漂ってしまう。そして、たぶん、犯行の露見を今になって怖れてもいる。だから先程もホームで電車を待つ間、落ち着かなくてどうしてもきょろきょろしていたし、だからずっと二人しかいないままだったという事も容易に判ったのだし。それに、証拠隠滅とかあれこれ気にして、会社を出るまでかなりの時間がかかっちゃっているし。めぐみとの二人っきりの逃避行を決めた途端、このままめぐみを離したくないという独占欲が大きくなり、その結果なのか様々な不安な気持ちが私を更に臆病にさせてくる。だってそれはそうよ、日本の警察は甘くないもの。早ければ明日の朝には犯行は露見してしまう。めぐみを自分のモノにデキた最大の理由がその犯行の全てにあろうとも、それで離ればなれにされてしまっては、そんなのあまりにも哀れすぎる。「………」いつか逮捕されるという恐怖よりも、めぐみと離ればなれになってしまう事への不安の方が圧倒的に勝っている。私はもうめぐみを手離したくはない。このまま、自分だけのものにしていたい。私は、もう………。「わざわざ都会へ夜遊びに繰り出すような人間は皆無なのかぁ………どうしたんだよ、せめて若者達ぃー! って、平日なんだから帰ってくる前に都会で遊んでるか」座席に腰を下ろしながら、巫山戯るようにそう言い、あはは! と、気恥ずかしさも含めて大袈裟に、そして道化師のように、努めて明るく笑ってみせる。そして、ちらりずむ。ずっと俯いたままでいるめぐみの心の内を、どうにか窺おうとする………うん、暗いね。果てしなく暗い。暗黒の中の暗黒だわ。漆黒とでも言い直すべき暗黒だよ。「こら、めぐみ。暗いぞ? そんな表情してないで笑ってごらん? シズカさん渾身の、面白トークだったんだぞぉー」私はめぐみの額に自分の額を寄せて、囁くような優しい声色に努めながら、めぐみの笑顔を誘おうとした。けれど、その結果………私がかなりドキドキしてしまうっていう、ね。完全に自爆だわ、あはは。って、暗くもなるよね。だって、怖かったろうし。失禁までしちゃっていたくらいだもんね。可哀想に………あのヤロー、殺めても殺め足りないくらいだわ。あ、私に背中を向けて恥ずかしそうにティッシュで拭いている姿、可愛かったなぁー。おもわず、後ろから抱きしめたくなっちゃったもん。私が綺麗にしてあげる、お口で。なんてな! って………変態か、私は。あんな酷い事されたというのに、そのめぐみの横で私ときたら、さ。頭を丸めるくらいの反省を見せるべきところだよ。もしも丸めたら、なんとかジェーンみたいになるかな。なるワケないよ、あっちは女優だ。あ、めぐみが寄りかかってきた。私の腕を、ぎゅっ。って、しがみつくみたいにして。ゴメンね、めぐみ。怖かったよね。今も怖いままだよね。私、何一つ安心させてあげられていないもんね。もっと早く駆けつける事がデキたら違う未来もあったかもしれないし、あの場で殺めようとまでしなくても、だよね。けれど、逆上しちゃったの、私。めぐみが傷つけられていて、あんな事までするつもりだったのか、って。予感はあったよ。あったけどさ、その場面を実際に見ちゃうとさ、ダメだったよ。殺めてやるとしか思わなくなってしまって、さ。アイツを生かしておいても、あんな事をまたしようとするに決まっている。いつか、めぐみが完全にそうなってしまう。って………私のめぐみに。そう言っちゃったよね、あの時。私、言っちゃっていたよね、完全に。逆上しちゃった、あはは。どこがいつも冷静だよ。って、感じ? たった一度だけどめぐみを抱けて、それでもう抑えられなくなっている。チキンだからまだ自分から求められないけれど、それでも独り占めしたいという感情が渦巻いている。蠢いている。暴れ回っている。可愛くてたまらなくて、愛しくて仕方なくて、けれどその想いを抱く事に全振りしちゃいそうで、抱きたいだけかって思われるのが怖くて、そうじゃないのにそう思われて遠ざけられるのが怖くて………ゴメンね。今も、そう。めぐみの事が心配で心配でオカシクなりそうなのに、けれど可愛くて可愛くて、可愛くて可愛くて可愛くて、どうしても欲情してしまう。だから、だから、いっそ、このままキスとかしてしまいたい。と、いう欲求に逆らえそうもない。「めぐみ………んっ」私はその欲求に抗う事がデキず、けれどやっぱり実直に遂行する勇気なんてなく、なのでめぐみの額にキスをするという妥協案、ううん。消極案を選んだ。ネットであれば安価で唇とか平気で煽るクセに私ときたら、ね。いっそ、めぐみの方から来てくれたりすれば………って、そうなったらここで始めちゃうかもしれないな。この車両には私達の他には誰もいないし。って、つくづく私は意気地無しだわ。相手も完全に望んでいるという確信が持てない限り、自分からは何一つ動けない。自分から自分のペースというヤツに持っていくという事がデキないんだよね。たった一度きりとはいえ既にもうそういう関係を持つ事をクリアしていても、私への好意を完全に確信している今この時でさえ、めぐみが今そこまでを私に許してくれるのか自信が持てない。実のところ私は、自分自身がイヤになるくらい、恋愛となると途端に、チキン野郎なんだよなぁ………くそっ。


「ん、はう、う。センパイ………」

 名残惜しい気持ち満載で、めぐみの額から唇を離す。そして、おそるおそるめぐみの様子をチラ見してみると………うるうる。めぐみはそんな瞳で、既に私を見つめていた。そして、この呟いたのか囁いたのか判然としない吐息まじりの絶妙な声。と、きたもんだ。「………」あうう、ダメだ。可愛いすぎだよ! マジで、恵の子だわ。もう、辛抱たまらんかも………って、おっとイケナイ。自重せよ、だ。これではネットの中の私だわ。「めぐみ………私が守ってあげるからね」努めて、努めに努めて、優しく。私はめぐみに囁く。


「センパイ………大好きです」

 するとめぐみはそんな私にそう、ってあらヤダ何回目かの告白キタぁあああぁー! これが夢なら覚めませんようにぃいいいー! って、冷静になれ。まだ冷静でいるんだぞ、私。「私も大好きよ、めぐみ」言っちゃったぁあああー! ゴメンなさい、前言撤回します。ダメですもう我慢の限界ですめぐみも拒まないよねそのつもりありありだよねイイよねこれはもう踏み出しちゃおうそうだよ踏み出してもイイと思うよ! うん、もう無理だわ。


「センパイ………」

 じゅるる。ヤバいよ可愛い可愛いよ、めぐみ。いつでもどこでも冷静で優しい先輩。って、思ってくれているかどうかは判らないけれど。もう、そんな見栄を優先しておくのは限界だわ。


 我慢デキません。


 んんっ。


 電車の中とはいえ二人きりだし、って言うか誰か来ても私達が構わずこのまま続けていたら、視線のやり場に困って立ち去る筈………って、立ち去らなくてもイイけどね。「んっ………」ぷにぷに、だ。めぐみの唇。思い出してしまうよ、あの時のめぐみを。この感触、たまんなかったなぁー。勿論の事だけど、今も。ううう、止まらないよ止めたくないよ止めたりするもんか続行だよだってめぐみも拒否しないしアレやコレやの時の反応もまた見たいしまた聴きたいしまだまだ確かめたいしめぐみあうう可愛いよおおおぉー!! もう、このまま………食べちゃおっと。


 こんなヤツでゴメンね、めぐみ。


 ホント、ゴメンね………。


 ………、


 ………、


 ………、




PM21:00/藤本美里×河合梨花

「やっぱり私達………とんでもない事をしたんですよね」

 不安そうに。たぶん、そう。これから先に待ち受ける現実を思えば、そういう精神状態になるのは当たり前の事です。思わずにいようとしてみたところで、それを試みたところで、忘れるなんて出来ないだろうし、忘れたフリすら不可能な事だと思う。梨花ちゃんは落ち着いているように見えてその実、たぶん。いいえ、きっと。叫びたくなるような不安感と懸命に闘っているのでしょう。「これからを考えようよ、ね?」二人がかりで一人ずつ、合計二つの罪を共に背負った私達は、言うならばもう運命共同体。若しくは、一心同体。身も蓋もない言い方をしてしまえば、完全なる共犯関係。しかも、重罪を犯した二人。と、いう事になるのでしょう。けれど、なんとなくそういうドライな言い捨て方をしたくなくて、そんな身も蓋もない現実から目を逸らしたくて、だから。同じ境遇を共にした同志。と、言いたい気分なんだよねぇ………うん。それがしっくりくるかどうかは別として、共感して同情して感情が振り切って辿り着いた、境地? それはたぶん、親友とかいった感情すら一足跳びに飛び越えてしまうに至る、そうね………家族、かな。そんな繋がりになれたのかもしれない、ううん。なりたい、の、かもしれない。


 皮肉にも、

 本当の家族の方を殺めたのだから。


「………そうですよね。ゴメンなさい」

 私の言葉は梨花ちゃんを元気づけるにはまだ力不足だったのでしょう、梨花ちゃんは絵に描いたような落ち込みようを見せる。「謝らなくてイイから。私も内心では同じ気持ちだし」だから私は、努めて穏やかな声色を振り絞り、これもまた努めて穏やかに微笑む。そしてそうしてから、膝の上で小さく震えている梨花ちゃんの手を優しく、そして深く握りしめた。「………」私は引きこもりの弟からの、そして梨花ちゃんは一見すると爽やかそうにしか思えなかった兄からの、それぞれ誰にも知られたくない数々の羞恥の日々に苛まれ続けていた。同じ棟で、階は違えど殆ど同じような時刻に、それぞれが耐え続けてきた、そんな同じような毎日。今まであの屋上で鉢合わせしなかったのが不思議なくらい。けれど、私達は今、そんな地獄から逃げ出してきた。しかも、ただただ消息を絶とうとしたのではなく、捜されるかもしれない見つかるかもしれないという恐怖に怯える毎日を避ける為に、二人で協力して、それぞれの苦しみを終わりにしてきた。もう死んでしまおうという選択肢に身も心も委ねてしまった矢先に、その真逆にあった選べないままでいた願望を叶えるだなんてね。しかも、怯えながら耐えるだけだったのに、完遂してしまえただなんて、さ。独りで抱え込む無力さ、非力さを痛感せざるを得ない。私は独りでは何も出来ない女なのだろう。そして、共に寄り添ってくれる誰かの為に生きていきたかったのだろう。だから躊躇なく、勇気なく溜め込んでいるだけだった殺意を、アイツに向ける事が出来たのだろう。だから迷いもせず、自分自身に重ねてシンクロし、それで宿った殺意を梨花ちゃんのあのお兄さ、じゃなくて、ケダモノに、向ける事も出来たのだろう。「………」踏み出してみれば、例えそれが小さな一歩であったとしても、物事は一瞬にして変わりゆく。まさに、そうだった。つい先程の事だから、まだ思い出そうとすれば、鮮明に思い浮かべてしまえる。殺める為に力を込めた手が、実感として震えを帯びてくる。終わってみれば、呆気ないくらいに短い時間だった。と、思う。それこそ、あっと言う間に。それも、二人。今まで怯えて暮らしてきたのは何だったのだろうと、自分自身に問いたいくらいに、今まで耐えてきたのがバカみたいだと、そんなふうにも思えてしまう程に、絶望にまで至った根源を、二度と動かない塊にしてしまえた。そうしてしまう事に、躊躇を覚えなかった。「………」特に、私の方は梨花ちゃんの方よりも容易かった。アイツは完全に油断していた。暫くすればまた私は戻ってきて、それで再び日常として繰り返されるだけだと。私に対しての罪悪感など微塵もなく、これからも奴隷のように好き勝手に弄び続けるだけだと、そんなふうにしか思っていなかったのだろう。アイツは、熟睡していた………いつものように。いつもと変わらず、当然のように、無防備で。『酷い人、ですよね』と、そんなアイツを見た梨花ちゃんが呟く。そして、私が憎悪に震えて身を乗り出したその瞬間、私よりも先に、梨花ちゃんが動いた。私と同じように、感情移入してくれたのかもしれない。アイツの顔に枕を当てるや否や、自分自身の全体重をその枕に押し当てる。少しして、異変に気づいたアイツが目を覚まし、暴れる。けれど、梨花ちゃんは必死に押さえ込む。私も後を追って乗り掛かる。暴れるアイツ。無我夢中で掴みかかってくる手もそのままに、梨花ちゃんは枕を下に体重を押し当て続ける。私はしがみつくようにして、アイツを動けないようにする。どのくらいの時間を要したかは、必死だったから実感として記憶に残ってはいないのだけれど、こうして思い返してみれば、大した時間を必要としないうちにアイツは息絶えてくれた。だからと言うべきなのかは判然とはしないのだけれど、私達はそれぞれ傷という程の負傷をせずに済むに至った。


「なんだか………ホッとします」

 何はともあれ。私が手を添え、努めて優しく声をかけたのが良い方に繋がったようで、今の今まで暗く沈んだ面持ちだった梨花ちゃんが、まだごく小さくではあったものの、可愛らしい微笑みを見せてくれた。けれどそれは、少しでも落ち着いたように見せようと努めている気遣いなのだろうけれど。「ホント? それなら十全ですなぁー」そんな健気な梨花ちゃんを見るに至り、私は私で、気持ちがかなり強くなったような心持ちがした。なんだか妹が出来たみたいで、心が高揚している。私までが怯えていてはいけない。私がしっかりしなきゃ。梨花ちゃんはこんなにも頑張っているんだから。


 と、思っていると。


「お姉さん、って。呼んでもイイですか?」

 まさかのまさかで、そのまさか。梨花ちゃんの方から、姉妹の申し込みを願い出てきてくれた。まさか、心を読まれたとか………梨花ちゃんって、もしかして、ニュータイプですか? って、なんちゃってね。かなり浮かれているわ、私ときたら。とんでもない事をしたのは、まだほんのつい先程だというのに。「うん。イイよ」けれど勿論の事、私は二つ返事で受け入れる。それはそうだ。受け入れるに決まっていますよ、アナタ。だって、こんなに浮かれているくらいなんですもん。大歓迎で迎え入れますとも。


「美里お姉、さぁん………」

 私が受け入れる意を示すと、梨花ちゃんは上目遣いで甘えるようにそう私を呼ぶや否や、私の指に絡みつくようにして指を絡ませ、更には私の肩に頬を寄せるようにしてそのまま、真っ直ぐに見つめてきた。「リカ、ちゃん………」正直に言うと。私はその時、どきっ。と、胸が高鳴ってしまいました。そして、きゅん。と、胸が高鳴りもしました。その二つ合わせると、どきゅん。ですけど、ずきゅん。或いは、ばきゅん。とかでもイイかもしれない。心を射抜かれたとはこの事だと、そう思ったのだから。もしかしたら、お姉さんの意味が私の思い描いている世界とは違うのかもしれないのだけれど、敢えて言えばそっちの方向を思い浮かべているようにしか見えないのだけれど、もっと言えばそっちの方向だと確信するような事を既に経験済みなのだけれど、その時のあれは昂った精神状態での気の迷いかもしれないし、えっと、えっと、どうなのかな………。


「この車両………二人っきりですね」

 真っ直ぐ私を見つめたまま、梨花ちゃんが含みを持たせたような事を言う。もしかして、私の反応を窺っているのかな。「えっ、と。あ………そうみたい、ね」私はかなり逡巡しつつも、どこか期待している。こちらの水は甘かったでしょ? と、再び手招きされているような、そんな気にもなってくる。梨花ちゃんの、あれ。とんでもなく気持ち良かったなぁ………って、何を考えているんだ私は。


「誰か来る前に………もう一回だけ」

 なんですと? えっと、えっと、思い違いではなかったようです。これはもう、明らかに、私を誘っているよね、どうしましょう? さっき、駅についた途端にトイレに引っ張られてしちゃったばかりだよ? って、はっきりと思い出した途端に、身体のそこかしこが熱くなってきている。それにしても梨花ちゃん、上手だったなぁー。梨花ちゃんも、なんか凄い気持ち良さそうになってくれたし。駅のトイレで、その個室の一つで、バレないように………あのシチュエーション、悪くなかったし。あ、ヤバいかも。顔から火が出ちゃいそうだわ。既にもう、視認可能なくらい赤くなっているかもしれない。「リカちゃん………それって、その」もう一回。と、誘いながらも。梨花ちゃんは、自分からそうしようとはしてこない。私が必ずそうしてくれると思っているのだろう。


「リカ………って、呼んでください」

 そして、そう言って目を閉じる。目を閉じて、じっと、待っている。河合梨花、かわい・りか。綺麗な顔立ちをした、美人と形容すべき、女の子。もしかしたら、小悪魔系女子なのかもしれません。そんな梨花ちゃんに、私は心ごと、いいえ、私という私が丸ごとごっそりと惹き寄せられていく。まだ学生だった頃から現在に至るまで、どちらかと言うと同性にモテるんだよなぁー。しかも、後輩とか年下の女子に。それでも、一線を越えるような事は一度も経験していないのだけれど、ここにきて遂に私、先程のたった一回もあって、そっちの道にどっぷりハマってしまったみたい………です。


「んっ………」

「んぐ………」


 このまま私、

 溺れてしまうかもしれません。


 ………、


 ………、


 ………、





          最高の食卓、おわり

          最後の晩餐へと続く

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