第2話)青天の霹靂
PM20:03/中田 静香
まさか、だよ。ホント、これこそ、まさかだよ。まさかのまさか、まさかだわ。まさか、こんな時間に。まさか、こんな場所で。まさか、こんな状況下で。こうして、さ。まさか、お裁縫をする事になるだなんて、ね。でも、此処に来てみて良かったよ。あ、これから居残りで残業なんですぅー。と、この子から聞いた時は。ぶっちゃけ、イヤな予感しかしなかったもんね。しかも、こんな場所なんだもん。会社の資料室だよ、此処。誰も来ないよ、こんなトコ。だから、ほら、カビの匂いがするじゃん。カビの匂いがしちゃうような資料室で、整理整頓? 何年かぶりで必要になった過去の書類を探し出せってんならまだ、ね。でも、整理整頓だよ? 他の理由があるんじゃないかって、思うよね。あ、もしかしたらあの野郎、って言うかこの野郎、常習犯なんじゃないかしら。事ここに至ってあらためて思い返せば、突然と言えば突然な感じで退社した女の子とか何人かいたし。その中には、ビンゴな女の子がいたりしてね………ま、私の私による私の中だけの疑惑でしかないんだけどさ。兎にも角にも、間一髪の危機一髪。際も際の土俵際、目一杯の、ぎりっぎり。俵に両足かかっちゃって、体勢も不充分で、絶対絶命の大ピンチ。どう頑張っても、寄り切られるか、若しくは押し出されるか、或いは抱え上げられて投げ飛ばされるか。そんな、風前の灯火。って、ところだったからね。こんな時に結構重要な事を任されちゃったから、だから駆けつけるのが遅れちゃったのだけれど、それでも一応は、うん。なんとか、間に合いました。と、そう言えるのかな。イヤな予感ってさ、大概はもう手遅れって時に、ぴん。と、来るものだからね。私、頑張ったと思うよ! えっへん! 誰も褒めてくれないから、だから自画自賛してあげちゃおう。って、褒めてもらうワケにもいかないよね。だってそんな人がいたらそれは、目撃者だもん。誰にも見られなかった、それに越した事はないからね。あ、でも。褒めてくれるんなら味方だろうし、仲間が多い方が仕留めやすかったかも。ホントにあの野郎、じゃなくてこの野郎か、油断デキないね、マジで。可哀想にさ、あんな事されて怖かったろうね。私が来た時には、もう殆ど裸も同然って感じの姿にされちゃっていて、制服とかもこんな事にされちゃっていて、さ。抵抗しても、抵抗しても、どんなに抗っても敵わなくって、さ。それで、更に凌辱される自分の姿を連想してしまいながら、それが刻一刻と現実にリンクしていく………そんなの、絶望でしかないよ。それが例え、未遂という段階での幕引きを迎える事が叶ったとしても、それでもトラウマとなって、少しも忘れられないんだろうね。そんなの、想像するに容易いよ。加害者である鬼畜が、快楽の極みを体内から放出するに至る前。それまでなら、何をどう足掻いても未遂なのよね。それでも訴えれば、社会的な制裁ってヤツを幾らかは浴びせられるだろうけれど、それによって下される判決は、それで納得するだなんて不可能なくらいに軽い。それで水に流せるだなんて無理だと、憤りすら覚えてしまうくらいに緩い。被害者からしてみれば、それでも存分に弄ばれた事には変わらないのに。大事なとこに挿入される前であろうと、恥部を晒され少しでも痛ぶられれば、事なきを得てなんかいない。更には、実際のところ公になんて出来なくて泣き寝入り。今回のこの子のように、その前にどうにかこうにかなんとかなったとしても、味わわされたその恐怖は、その先ずっと拭えない。それなのに、それでも未遂だからね。未遂って何なのよ、マジで。この国の法律どうなってんの? って、感じだよ。ゴメンね、手間取って遅れちゃって。ゴメンね、傍に居てあげられなくて。どうすれば、泣き止んでくれるのかな。せめて、せめて、さ。すぐに、うん。ちゃちゃっと、さ。この服、縫ってあげるからね。「ふふふん♫」実のところ、お裁縫は苦手なんかではない。こうして鼻歌交じりでも、ちょちょいのちょいだったりする。実を言えば、得意科目だと胸を張りたいくらい。鼻息をふんがぁーと吹かせて、大気を震わせながら、えっへん! と、ぺったんこなこの胸を突き出したいくらいだよってぺったんこ言うな! 長年の付き合いで自覚せざるを得ないから、自分で言ってしまったわ。どうして、少しも成長してくれないのかねぇ………揉んでくれる人がいないままだからかな。って、揉みたくても揉めないか。自分自身でさえ先端しか刺激しないしな、あはは! って、うるさいよ。これでも、寄せて上げて盛って頑張っているんだからねっ! って、そうだね………虚しさが押し寄せてきたわ、無性に。ダメだ、私まで泣きそうになってきたよ。あ、ううん。並べようとして、ゴメンね。私のこんな自虐による自爆なんてさ、そんなのなんか比べものになんないよね………可哀想に。「ふんふん♫」兎にも角にも。いつも冷静でいて男勝りだと、社内で少し失礼な評判の私ではあるのだけれど、ううん。少しなんかじゃないわよ末代まで泣かしてやろうかしらってくらい失礼なのだけれど、どう見えているのかってそう見えているんでしょうけれど、だから末代まで泣かしてやるんだけれど、こう見えても私はお婆ちゃん子なんです。だから、そう。大好きなお婆ちゃんに教えてもらいながら、子供の頃から二人でお裁縫をしていたものです。手縫いのみだったから、ミシンとかはよく知らないままだったりするのだけれど、ね。「ふふふん♫」なので。最近は、とん。と、ご無沙汰ではあったのだけれど、お裁縫は嫌いじゃないの。実際に、面倒だと思った事なんてないし。だから、意外だわぁーとしか思ってもらえないのだけれど、だから末代まで泣かしてやる所存なのだけれど、特技は何ですかとか訊かれると即座に、お裁縫です。と、答えても定番のギャグみたいにしか受け取ってもらえない。嫌いでも苦手でもないのに、ぷんすかの極みだよ。ふん! でも、今回こうして、乱暴に弾き飛ばされたのだろう事は想像に難くないボタンの一つ一つや綻びは、可愛い可愛い後輩の制服なワケだし、特技じゃなかったとしても、慣れない手つきだったとしても、それでもこうしているんじゃないかなと思う。あ、それなら。不得手な感じを演じたら、苦手っぽいのに私の為にそこまで。なんて、高感度が好景気に沸くかもね。って、お裁縫が不得手な人が簡易セットなんて持ち歩かないか。もっとも、自分で言うのも悲しいのだけれどこの意外性に、男性陣から好印象を得るという場面は、皆無だったワケではないんだよね。でも、世の男性諸君は私のターゲットではないから、好意を寄せられても困ります。「ふんふん♫」そんなワケで私は今、鼻歌まじりに、てきぱき。と、ボタン付け及び綻び直しをしているのだけれど。
「こんな時間までゴメンなさい………」
そんな私の、横で。傍らで。すぐ近くで。先程から、私の手元と私の顔を交互に見つめながら、そうしながら私の様子を窺っている、もう一度言おう可愛い可愛い後輩が、もっと言おう可愛い可愛い仔猫ちゃんが、震えた声で、か細く、ぽつり。でも、私がその声に反応して目が合うや否や、泣き顔を更に崩し、そしてすぐに俯く。もう、何回目になるのだろうか。やっと泣き止んで、少しは落ち着いたかなと思ったのも束の間、その繰り返しなの。声をかけてくれた事だけは少しの進展を見せたのだけれど、こんな酷い経験をさせられて、それでこんな有り様にさせられて、そんなにもすぐに落ち着けるべくもない、か。そうだよね。「気にしなくてイイから。だから、ほら。もうめそめそしないの。ねっ?」私の、可愛い可愛い可愛い後輩。名前は、篠原恵子。しのはら・めぐみこ。恵子と書いて、けいこ。ではなく、めぐみこ。そんな御両親のセンス、私は嫌いではない。あ、今は疎遠なんだっけ。いろいろあるよね、生きていると。私も家族とは仲が悪くなっちゃったままだし、さ………兎にも角にも。私はこの子を、めぐみ。と、呼んでいる。この子の為なら、めぐみの為であれば、どんな事でもシテあげるつもりでいたし、どんな事だって損得なんて考えずシテあげられると思っていた。でも、まさか、あんな事まで躊躇なくシテしまえるだなんて、それは流石に自分でも、びっくり。では、ある。もしかしたら、びっくり。では、足りないかもしれない。だとしたら、びっくりの最上級って何だろうね? びっくりの三段活用、びっくり、びっくら、びっくりすと。うん、スタイリストみたいで悪くないね。って、全国のスタイリストさん激しくゴメンあそばせ、おほほ。何はともあれ、頭に血が上るとはあの事を言うんだろうね。めぐみの姿を見た瞬間、あの野郎じゃなくてこの野郎、って、もうイイか。そこに転がっているそいつに、殺意しか浮かばなかったもんね。いつも冷静で男勝りな私の筈が、そんな筈の私は何処に行っちゃったのかしら? でも、めぐみへの想いの強さ、そして深さ、更には大きさに、私は漸くといった感じで気づいたのかもしれない。そして、その想いの中にたしかにある淫靡な欲求を、再び叶えたい。もっと、もっと叶えたい。と、そういった目眩く桃色な類の邪な欲望についての、それらも。だって私は、誰が見たってとんでもない事をしたと思うだろう事をしたというのに、全く………うん、そうなのよね。何一つ、後悔してなんかいないんだもん。しかも、この先に期待を抱いてまでいる。まさに、びっくりすと。使い方、合ってます? そして、努めずともこうして励まそうとしているこの心の奥底には、めぐみの身も心も全て、めぐみというめぐみの至るところ全部を、永遠に独占してしまいたい。と、そんな事を渇望する種が花を咲かせるまでに成長していて、それを自覚する事になった。自分の気持ちに正直に向き合った分だけ、はっきりと認識する事となった。でも………めぐみときたら、さ。めぐみの先程の謝罪。こんな時間まで。と、いうそれについては。こんな時間まで。の、方だけを気にした上での発言だったとしたら。それがめぐみの場合、有り得ない事もないだけに。そうだとしたら、やっぱり。めぐみは天然ちゃんだわと溜め息の一つくらいは、ぽろり。と、ならずにはいられないかな。自分の想いでヤッた事だからお説教とまでは言わないけれど、そりゃないぜハニーくらいは言わせてもらいたい。あ、まさに、びっくりすと。合ってますよね、使い方。兎にも角にも、です。こんな時間まで、の、方よりも、あんな事を。の、方を少しは気にしてもらいたい。って、私も私であんな事をしておいて、こんな有り様だからね。めぐみの事は言えないか。あはは………末代まで泣いてやろうかしら。
「………ありがとうございます」
そんな、汚れた思惑に塗れまくって最早そっちが本体となっているのは内緒な、そんな私の声かけに際してめぐみは、そんな汚れた思惑になど気づく様子はなく、ただただ。私の優しさだとしか、そんなふうにしか受け取ってはいないみたいに見える。めぐみは震えた声で私に感謝の旨を告げると、力無げに、所在無げに、顔を上げた。でも、今度は。うるうるとしたくりっくりの瞳が私を直視したまま私から離れようとはしないので、私はハートをずっきゅんされてしまう。あぁー、ヤバいわ。これは完全にヤラれたよ。こんな事なら、さっき躊躇しなきゃ良かったなぁー。今更だけど、押し倒しちゃおうかしら。今のめぐみなら、そんな私でさえ拒否せず受け入れてくれるかも、じゅるる。そうね、そうよね、これはチャンスだと思うよ! って………何を考えているんだ、私は。そんなシチュエーションでは意味がないのは百も承知の筈なのに、目眩く桃色な方向に特化した欲望というのは、いやはや。この上なく恐ろしいものですな。それではまるで私、それはオマエを食べちゃう為だよというセリフでお馴染みの、あの狼さんと変わらないぞ。私が欲しいのはめぐみの身体のみではないし、疼く我が身の火照りを発散する為だけの道具にしたいワケでもない。そんな事をすれば、それこそそこに転がっている醜悪な鬼畜と何一つ変わらない。そんなの、のんのん。じゃんけんで言うところのグーにした状態から、右手第二指のみを高らかに上げて、それを左右に振りながらの、ちっちっち。どうぞ、お帰りくださいな。我が心から、早々に立ち去るが良いぞ。がはは、ですわよ。「もぉー、めぐみ? ほら、泣かないの」なので私は、涙で潤んで歪んで見えているだろうその視界に、そんな可愛い可愛い私のめぐみに、これこそ努めて、邪な想いをなんとか隠して、とびっきりでとっておきの笑顔を染み込ませようとしてみまくってみる。
「センパイ………はい!」
すると、めぐみの表情が暫しの間の沈黙を要した後、ううん。たぶん、何かしらの黙考の末なのかもね。ぱぁーっ、と。眩しく思えるくらいに、如実に明るくなっていった。あぁー、やっぱダメだわ。前言撤回しよっかな可愛いすぎるぞ、めぐみ! お帰りいただくに至らず、未だ余裕とばかりに鋭く目を光らせたまま戦局を見据えていた欲望が、この私を抑えつけられるもんですかアナタなんかにね、おほほ! と、赤い彗星さんばりの速さで遅いかかってくる。そして、嘲笑うかのように、この身を更に更に疼かせてきやがる。でも、まだここで、鼻息ふんがぁーでヨダレじゅるるんのケモノさんなアナタになんか、魂を売るワケにはいきませぬ。と、私はなんとか自重する。そんな事をしたら、それはもうケモノどころかケダモノだもんね。ここはまだ耐えるのよ、私。頑張るの、私。取って代わられちゃうから、寝ちゃダメ。そうよ、黒板さんはあそこで眠らなかったから生還してシリーズも増やせて万々歳なワケですし、悪魔の囁きに負けた僅か一回よりも、天使に祝福された沢山だと思うよ! この例え、合ってます? あ、沢山と言えば。お腹が減った。とは、言うのに。お腹が増えた。とは、言わないのは何故なのかしら? どうしてなんだろうね………よし! 上出来だわ。急にどうでも良い事を考えてみるわよ大作戦によって、目眩く桃色な魔人を封じ込めたぞぉー。「よぉーし、もうすぐ終わるよ。そしたら、ちゃっちゃと片付けちゃおっかね!」兎にも角にも私は、そう言いながら視線を落とし、これもまた努めてお裁縫という作業を再開してみる事にした。
「………はい」
そして。微笑みを浮かべながら頷いためぐみを、ちらり。そしてまた、ちらり。と、横目に見つつ、私はこれからの事を考える。そろそろ真剣に、流石に慎重に、更には落ち着いて、一つ一つ考えなければならないの。それこそ私は、名より実を取ったのだから。少しの甘味も感じない渋みどころか苦痛だらけの刺々しい現実より、甘美な妄想の具現化を孕んだ瑞々しい果実の方を選んだのだから。無我夢中で事に及んだその中心に宿っていたのは明らかな殺意だったし、めぐみを心の底から愛しているという想いだったのは間違いない。私だけが罪を被るという手もあるのだろうけれど、めぐみはそれを良しとはしないだろうから、それは最後の手段。そんな事したら、手にした瑞々しい果実が水の泡。だ、なんてホントに思っていない。めぐみがそれを望むのであれば、私はそれを喜んで引き受ける。だって、言った筈よ? めぐみの為であればどんな事でもシテあげられる。って、さ………。「ふふふん♫」思い返せば、そう。めぐみは、入社当時から失敗の多い子だった。そのあたり入社当時から今になっても、そのとおり全く変わっていないように思う。入社当時の頃であれば、まだ仕方のない事なのだけれど、問題なのは今になっても変わらずそうだというところ。めぐみはめぐみで、それでもいつだって一生懸命に頑張っているので、私は常々そんなめぐみの事をあれやこれやでなんやかんやと親身に気にかけ続けてきた。えっと、たしか、こういうのを、ドジっ娘萌え? とか、いうんだっけ。そんなめぐみは、被害をあまり被らない男性社員や、責任関係があまり及ばないお得意様あたりには非常にウケが良く、逆に何らかの責任関係や被害状況が及んでしまう側からすれば、ある意味でその理不尽とも言えるそれのせいで、特に女性陣からは非常に評判が悪い。めぐみは素直で一生懸命で、そして頗る可愛いから、そのあたりの妬みも多分に加味されているのだろうと思う。ちょっと可愛いからってチヤホヤされやがってという反感は、正直に言うと判らないでもないよ。でも、まるでその憂さ晴らしをするかのような陰湿な苛めというのはヤリ過ぎなんじゃないかな。と、思っている。めぐみ自身、そんな自分の容姿を武器や盾にしようとはしていないのだから尚更に、ね。めぐみは自分の容姿について優れていると自覚しておらず、優しくされても同情されていると思っちゃうみたいで、だからいつまで経っても自己否定感が強いままなのだけれど、実のところ容姿が武器にも盾にもなるのにそれで勝負デキないでいるのって、逆に可哀想にも思う。もしも自覚したとして、その上で武器にも盾にもしたとしても、結局は嫉妬されるからね。それならさ、嫉妬上等! って、自覚した上で勝負する方が、そうじゃないめぐみみたいな方より、さ………ま、容姿だけでちやほやされたくない私が言うのも変な話しだけどさ。「ふんふん♫」兎にも角にも。容姿うんぬん関係なく私は苛めとかする気にはならないし、僻んだり妬んだりするとすれば、その対象は完全に男性社員に対してだった。大きな仕事を任されるのはいつだって男性社員ばかりだという悔しさは、半ば諦めのような虚無感を覚えるくらいに、根深い。この世界はまだまだ所詮、女は女だし、所詮は男社会なのよねぇ………って、それこそ兎も角として。めぐみにも他の女子にも、男女問わず極めて均等に接していたつもりなのだけれど、そういうのも縁というものになるのだろうか、入社初期の段階でめぐみには既にすっかりと懐かれてしまっていたように思う。勿論の事、煩わしいと思った事は一度もない私がそこにはいるのだけれど。だって、初見で見事に射抜かれちゃっていたから。一目惚れってそれまでなかったのに、欲しいって思っちゃったんだよね。「ふふふん♫」そして、現在に至る。と、端折りに端折って店仕舞いするとなんだか意味深であり、逆にタンパクな感じも漂わせまくりだね。誰にというワケでもなく自白してしまえば、つまるところ職場の人間とだと、ちょっとした事でも同性異性問わず案外とすぐに噂になるので、私としては秘めたる想いとして自粛してきたし、そもそも想いを成就させようとする勇気なんて少しもなかったのに、幸運にもと言うべきだろうそういう雰囲気になっちゃったら、さ………こんなチャンスを逃してなるものか! って、なっちゃうよね? ましてや同性となれば、機会なんてそうそう得られないし。で、ただの一度でもそうなったらそうなったで邪険にするワケにもいかないし、おかわりとか期待しちゃうから尚更だし、暴走はしないようにってのが精一杯。それに、何でも健気に言う事を聞いてくれるってのは可愛いし、私に一途なんですよってくらいに好きです光線をばんばんに向けてくるのも、悪い気はしない。って言うか凄く嬉しいし、さ。でも、それでもあの一度きり。それでも、自分から動く勇気は奮い起こせないまま。それが、今は………。「ふんふん♫」たぶん私は、このままこの子に溺れてしまうかもなぁー。と、私の傍で、すやすや。と、眠るめぐみを見ながらそう思った僅か数日後に、こんな事にまでなってしまいましたとさ、あはは。いやはや、全く。困ったもんですな。って、全く困ってなんかいないクセに。殺意のままに最期にしてやったのは、暴走なんだろうけどね、たぶん。暴走まではしないようにと思っていたのに、まだたった一度であろうとも関係を持つ事が叶った事で、秘めておくつもりだった想いを閉じ込めておけなくなり、結局のところ暴走してしまいました。って、感じ? 私は今、ドラマの主人公にでもなれたかのような高揚感に満ち溢れている。本気で惚れてしまうと途端にチキン化してしまう私にとって、本気で惚れているめぐみとこのまま結ばれるに至れるかもしれないのだから、そうなるのも致し方なし。「………」でも、つい先程の事。めぐみ方から求めてくれたらしき折角のチャンスを、スカしてしまったんだよねぇ………スカしたそばから激しく後悔しているのに、平静を装った表情でこうしてお裁縫に勤しんでいる。そんなめぐみの想いに気づいていながら、それでも自分を晒す事を躊躇してしまう。本気で惚れているからこそ、嫌われたくないと怯えてしまう。遊びなら余裕なのに、本気だといつも、こう。思い返してみると、遊びのつもりが本気にというのならあるのだけれど、本気で惚れている誰かと関係を持てたのって、めぐみが初めてかもしれない。そっか………それなら、暴走する筈だわ。私は、ちらり。と、視界の隅っこにめぐみを迎える。めぐみには気づかれないように、めぐみを見る。私は、めぐみの今後が心配でならない。自分の事よりも、めぐみの身を案じている。めぐみの事が心配で、心配で心配で、心が張り裂けてしまいそうになっている。実のところ、少しも落ち着いてなんかいない。だから、落ち着こうと努力している。めぐみを守る為に、私はこれから先どうすれば良いのか。それを、懸命に探し求めている。敢えて自分自身を茶化してみる事で余裕を持たせようとし、そうする事によって少なからず生成されたそれを、次から次へと頭の中をフル回転させる為の養分としているのだけれど、事が事だけに良い案がなかなか閃かない。「………」めぐみに愛されているから自分の事については満足で、愛しているからこそめぐみの事が心配で仕方がない。恍惚と不安、我にその二つあり。みたいな感じ? 冷静に考えずとも、私は取り返しのつかないとんでもない事をしました。この首を少し横に捻りさえすれば、微動だにしない醜悪な鬼畜という名の塊を再確認する事が可能だ。つまるところ、今もまだ問題点は何一つとして片付いてはおらず、まだ少しの隠蔽すらもしていないという状況下に身を置いている。実のところ、渾身の力で二度と動かない塊へとジョブチェンジさせたので、だから未だ握力が戻らず、針を持つ手がかなりゆるゆるだったりもする。そして、自分の身なんかよりもめぐみの将来を心の底から憂う。私って、そんな殊勝なキャラだったっけ? と、なんだか声に出して笑ってしまいそうだわ。でも、わっはっは! なんて、実際にそんな事をしたらめぐみにドン引きされちゃうだろうから、しませんよ? しないしない詐欺でもないよ? しないって。しないから。しないもん………わっはっは! はい。心の中だけ終わり、まる。そんな事より、も。なんとなく思ったのだけれど、なんだか健気で一途なのは私の方だったりしない? うん、意外な発見だわ。「よぉーし、出来上がり! ほら、めぐみ。着てみて?」私はもう、後戻りなんて不可能なところにいる。そして、そんなこれからの私に期待を膨らませている。
「ありがとうございます、センパイ」
可愛いよ、私のめぐみ。名前のとおり、たよ。まさに、恵みの子だわ。こんな私がいくら考えたってさ、やっぱり名案なんて浮かばないみたい。だったら、もう開き直ろう。アナタは私だけのモノ。だから、誰にも渡さない。渡すもんか。この私が、必ず幸せにするよ。そうしてみせる。「じゃあ、行こうかね!」追い詰められたらその時は私が全ての罪を背負ってあげるから、だからそれまでは、それまでで構わないから、私の傍に居てね、めぐみ………。
この私が、
アナタを守ってみせるからね。
………、
………、
………、
PM19:55/橋野 麗菜
今日も今日とて私は、こうして閉じたカーテンから顔のみを、ちょこん。と、外へと覗かせている。と、言っても。こっそりと顔のみをそうしているのだから、当たり前だけど全身の殆どは部屋の中で、俗に言う女の子座りの姿勢をキープしている。勿論の事、明かりは消したままだ。細かく描写するのであれば、右手が少しだけカーテンから外に出てしまっているけれど、この状況下ではそれは致し方ない事。この双眼鏡で、こっそりと覗き見ているのだから。三脚を使用して、望遠鏡で。ではなく、双眼鏡なのだから仕方ないのです。序でに申告するとすれば、左手も極々たまにカーテンの外に出てしまう事はある。何故なら、スナック菓子をお口に放り込む為に、ね。前に乗り出すようになってしまい、ついつい顔がカーテンの外に出ている時があるからだ。と、なると。修正しよう。右手と左手と顔が、ですね。「あ、やっとカーテンが開いた………ん?」私は帰宅するや否やという感じで、上はブラジャーも取っ払ってシャツ一枚に着替え、下は下着のみというラフすぎる恰好となり、それからもう一時間くらいはずっとこうしている。自虐を込めてもう一度だけ、あらためて言おう。今日も今日とて、である。「久しぶりに見たかも。ヒナちゃんの裸………」今日は早くも裸を見れて、おもわず胸のドキドキが加速してしまう。けれど、このまま何もなければ嫉妬という劣情が遅れてノックノックしてくるのが悩みどころ。結局は肢体や表情に興奮して独り、恥ずかしくも果てるまで及ぶ事になるけれど、それでもやっぱり嫉妬を抱いたままというのは精神的に宜しくないと思う。だって、妄想に置き換えて興奮の中を耽っていても、果ててしまえば引き戻される。雛ちゃんは部長のモノ、それが現実。虚無感が半端ないのに、それでもまた、それでも何度も。そんなのいつか壊れそうだよね、私。「何か変だな………」双眼鏡の先に見える想い人の様子に、ぽつり。清水の舞台から跳び降りるつもりどころか飛び降りてみても足らず、けれど欲望には勝てなくて購入してしまったこの双眼鏡でも、この距離ではその表情の細かいところまでは判然とはしない。けれど、それでも不安感を誘発させる違和感を覚えてしまう。杞憂で済めば良いけれど、その方が良いに決まっているけれど、昔から知っているからなんとなく判っちゃうんだよね。だから、片想いだけど何でもする覚悟はずっと持っている。「うーん。ヒナちゃん、元気ないなぁ………」脳裏に浮かぶのは、想い人であるところの雛ちゃんとの、かけがえのない思い出の一つ一つ。けれど、心に巣食う後悔がその一つ一つを蝕んでいき、悲観に満ち満ちて精神が苛まれていく。どうせ、私なんてさ。いいもん、ふん! うん、独り暮らしが長いせいなのかな。独り言が多くなっている気がしてならない。誰かにというワケでもなく声に出して呟いている時もあれば、同じく頭の中だけで言葉にしている時もあって、その内容があっちに行ったりこっちに来たりとかもして、自分でもどうしてそうなったのか判然としない方向で盛り上がっていたりする。そんな有り様だから、意味が判らない方向へと着地を決め込む事だって少なくない。「ヒナちゃん………」脳内で他の事を考えようとしても、そして考えていても、心の中では雛ちゃんを思っている。そんな私を、我ながら器用なもんだと思わなくもない。脳と、心と………精神、かな。たぶん、それらは一つの同じ何かの筈。それでも、別の働きをする。細胞というのはそれぞれが個であるのだから、それぞれに意志がある。で、集合体としての意思もある。みたいな感じ? だとすると、ラグビー選手だね。
えっ、と………何だっけ。
『この世界にはサンタクロースなんて実在しない、そんなの架空の夢物語なんだよ』と、年齢を重ねていけば認めざるを得ない事を、わざわざ子供に言って聞かす大人は多く存在するのに、『この世には神も仏も存在しない、そんなの人々が作り出した甘ったれた幻影なんだよ』と、此方の方となると打って変わり、身を翻して知らん顔、頭ごなしに全否定する大人が少ないのは何故なのだろうか?
だったよね………たしか。
急な思いつき、おつ。折角だし、この戯れ言にこのまま乗っかってやろうかな。今日のこの不安感を見た本能が、何かあると直感している。だから、心は穏やかになれずとも、脳は俯瞰のままでいなければなりません。えっと、サンタクロース氏に神様に仏様、ね………さあ、ね。知るかよ。以上、終了。って、少しも乗っかってねぇー! 私、病んでいるのかな。「あのパワハラ野郎………ヒナちゃんに何したんだよ、全く!」きっと、何時でも何処でも幾つになろうとも縋る事が可能な存在と、年に一度だけでしかも子供という時期のみしか登場してくれない存在とでは、有り難みとかに差がありすぎちゃっているからなんじゃないかな。つまり、大人という年代になってしまった自分自身の立ち位置は須く守りつつも、その上で上から目線でマウントポジションよろしく優越感に浸りたいだけ、みたいな。人間ってのは常に自分より弱い者を求めていてさ、それでそれを見つけたら待ってましたとばかりに、たっぷり。と、自己顕示欲を満たす。その為に、わざわざ生きている気がしないでもないし。それは人間に限らず生きとし生ける生き物はそれこそ、それによって自分という存在を示す証しとする。みたいな、さ。なんとなく、そんなところがありそうだし。その方法や度合いといったものに差異があるだけで。「ヒナちゃん………大丈夫なのかな」けれど、神様や仏様の存在を否定するという心境に至る事こそ本当の意味での絶望だ。と、そう思えなくもない今日この頃でもあったりして。「ヒナちゃん………大丈夫だよね」心、精神、脳。使用する際の用途や、そのままそのものズバリ、言葉自体は違えど、そして容量や用法の程度に誤差はあれど、たぶんきっと。そう、たぶんきっと。発動場所はどれも同じなのだろう。思う、感じる、考える。それに大した違いはない筈で、それどころか、全ては同じと言ってしまっても良いくらいの範疇だ。図る、目論む、企む。と、いう言葉の方が似合っているように思えなくもないけれど………もしかして、私って人間不信なのかな。自分のデスクにそう書いた用紙を置いて、暫くの間をハワイでバカンスかましてやろうかしら。って、会社存続の危機を救った副社長ならそんな事をしても大丈夫なのだろうけれど、私は一介のヒラ社員だから、一発退場の赤い紙でクビ宣告だよね。昭和のプロレス、生で観たかったなぁー。産まれるのが遅かったわ。あ、雛ちゃんと年齢差ハンパなくなるか。仲良くお風呂にも入れないな。よし、諦めよう。タイムマシン、ぷりーず! って、他力本願で座して待つ無力さよ。こんな事なら、もっと真面目に算数から勉強しておけば良かったよ………うむむ。「何が、うむむじゃ!」尊敬しております、横山先生。孟徳様と本初様の決戦、描いてほしかったなぁー。って、病気か私は。話しが飛びまくりだ。少しだけ戻ってみようか。心と精神と脳について、だったよね。覚えていた私って、凄くね? うん、敢えて試みてみるとするならば、何か他にワードを引っ張ってくる必要がありそうだね。えっと、あ、寄りどころというワードには、安心感とか安堵感というワードが連想されるし、当てはめてみようか。
精神→寄りどころ。
脳→安心感。
心→安堵感。
と、私なら。ではあるのだけれど、私の場合はこのように使い分けると、なんだかしっくりとくる。どれも同じだと思っているのに、それなのに。その筈なのに、それにもかかわらず、そのように分けないと、なんとなく違和感を覚えてしまう。これもまた、三位一体なのかもね。あ、本来はそういう事だったりするのかな。だとすると新たな境地に辿り着いたな、私。私という個体のみが酷く屈折していたりして、だから激しく面倒な生き物というだけの事なのか。それとも、人間という動く塊の全てがそういう生き物なのか。そもそも、人間に限らずこの世に宿る生命体は、そのどれもこれも一切合切がそうなのか。もしかして、生命体とは思われていない物質も含めてそうだったりするのか。それは、うん。私には判んない。けれど、だからといって悩むという事もない。悩むのは、精神? 脳だとすれば、不安感と表現したいね。心なら、逡巡? どうかな。哲学とか、専攻しておくべきだったかな。それにしても、こういうふうに思考するという感覚は、いつから備わるのだろうか。母様の胎内に宿る前は父殿と母様の体内にあって、それが合体して一つになってってところがもう不思議だもんね。卵子と精子が合体して十ヶ月と十日を経て体外へと進み出る。けれど、まだ未完全なまま。それなら、十ヶ月と十日の意味って何? 魂という何かは、そのうちのどのあたりで出現するの? 心肺が停止しても他の箇所は暫く活動しているとか聞くけれど、それなら魂はどの段階で消滅するの? 心肺停止でご臨終の時なら、魂は心臓って事だよね。魂は一人に一つなのだから、父殿と母様に分かれている時はどんな状況なのかな。いやはや、生命というのは不思議なものです。「何か、イヤな予感しかしない………」と、ぽつり。生命の不思議について考えつつも、雛ちゃんから意識を薄れさすつもりはない。今日は裸の雛ちゃんを見てもついつい欲情に負けるなんて事なく、雛ちゃんの様子を注視している。たしかに、今日はばっちりカーテンが開いたから見えるかも。と、期待しちゃいました。そして、実際に見れたので鼻息ふんがぁーの唾液じゅるるでした。だって、なかなかそこまでの幸運は訪れないんだもん。けれど、流石に、流石にさ、私以外のしかもあのパワハラ部長とのアレやコレやの雛ちゃんなんて見れたとしても見えたとしても、そこまでは………見たいです。っていうか、何回か見た事あるし。見ながら自分でしちゃった事もあるし。そんなの雛ちゃんだけにピントを合わせればイイだけだし。開き直ろう、そうならないようにとか言いながらこの軽装ですからね。思い違いで雛ちゃんが大丈夫そうなら、シテもイイよね。と、思っていました。クズだわ、私。「ヒナちゃん………激しくゴメン」けれど、Tシャツとパンツになったのはまだ違和感を覚える前、です。前だから、そのつもりだったのは許して。そして、大丈夫そうならイイかなってのも許して。欲望にからきし弱くて、それでいつも後悔する事になるのが私のダメなところ。自覚しております。けれど、雛ちゃんの様子が変だと思うと、私って………余裕で抑えれちゃうんだね。あれやこれやと気を紛らわさずとも、雛ちゃんが心配でそれどころではないもん。誰に言うでもなく自虐の精神で自白したりしているけれど………やっぱり、雛ちゃんは幸せになってほしい。今が幸せと言うのであれば、幸せのままでいてほしい。
例え相手が、あんなヤツでも………。
浮かない表情でベランダに出てきた雛ちゃんに、確信してしまったかのような異変を感じた理由。それは、雛ちゃんが裸だったから。裸のままでベランダに出るなんて、普通なら有り得ないよ。実際に、そんな雛ちゃんを見た事はないし。きっと、部屋の中で何かあった筈。職場ではいつもと変わらなかったし。だから、一番目に考えられるのは部長との諍い。二番目は、一番目を発展させて別れ話。三番目は………考えたくないような事。けれど、三番目を危惧している。だって、いつまで経っても部長の姿が見えないんだもん。もしも、雛ちゃんがそうであるのなら。私はこのまま、第三者でいるワケにはいかない。雛ちゃんの一大事ならば、傍観者を決め込むつもりはない。だからこそ今日は、いつにも増してとっ散らかった思考を無理矢理にでも続けて、欲望に負けてついつい欲情するままという事態を避けたんだし。そんな事になったら呆けちゃって、もしもの時に役立たずだからね。いつもとんでもなくそうなっちゃっているのは、自覚しているし。欲望に負けて後悔する。それが、私。どうやら、私はそこまで色惚けさんではなかったようだけれど、三番目の危惧が当たりだとしたら、後悔しても後悔しきれない。やっぱり雛ちゃん、いつもと様子が違うもんね………え、雛ちゃん?
え、え、ちょっと待って!!
「ちょっ、ヒナちゃん?!」雛ちゃんが何をしようとしているのか完全に見知れた私は、携帯電話を使用しようとポケットに手を入れようとした。勿論の事、雛ちゃんの携帯電話にすぐさまコールする為です。けれど、今日も今日とて下は下着のみでした。肝心な時にこれだよ、私のバカやろぉー! 危惧していたのに、それなのに、この有り様。欲望にからきし弱くて、それでいつも後悔する。はい、そのとおりです。「もぉー、私のバカやろぉおおおー!」双眼鏡にて雛ちゃんから目を離さずに、わさわさ。と、近くに脱ぎ捨てていたジーンズを探るようにして掴み取り、すぐさまポケットの中を探してみる。けれど、ポケットの中に探し物は見当たらず。「ちょっ、こういう時にかぎってバッグの中? ああぁーっ、もおー!」女子かよ! あ、女子だったわ。 恋する乙女、乙な女です言ってる場合か! もう、双眼鏡で覗き見ながらわちゃわちゃしている余裕はない。ソファーに放り投げていたバッグの元へと膝立ちのまま急ぎ寄り、ごそごそ。と、乱暴に手を差し入れる。けれど、そこにも見当たらない。「え、え、え、どうして?」よくよく考えてみずとも、それはそうだ。私には双眼鏡で覗き見るという目的があるのだから、その間に使う機会のない携帯電話は充電しているに決まっているのだよ、ワトソン君。「うっせぇーよ、ホームズ!」落ち着く余裕なく、ついついイライラが募る。焦燥感が乱れ打ちとなっている。けれど、それもまたそれはそうだ当たり前だのスパークリングフラッシュだよ。今まさに、私の想い人がとんでもない事をしてしまいそうなのだから。「私の、スマホ!」寛いでんじゃねぇーよ、マジで! のんびりしやがって、温泉宿かよ! って、充電器にセットしたのは私です。だから、完全なる八つ当たりです。けれど、早くしないと手遅れになってしまうんだよ。私は一目散に携帯電話の元へと駆け寄り、まるでかっさらうかのように急ぎ充電器から握力全開で奪い取り、余裕バロメーターは赤色点滅です状態の震える指で、雛ちゃんのコールナンバーを押そうとする。アドレスを探して、ぽちっとな。の、方が早いのかもしれないけれど、覚えているのだから押しちゃった方が早い筈! 余程の焦りからなのか、警報サイレンが鳴り響いているかのように耳の奥が、きゅいいいーん。と、なっている。「う、うう、うっ、ヒナちゃん、ヒナちゃん、待ってよ、お願いだよヒナちゃーん!」村瀬雛子、むらせ・ひなこ。だから、雛ちゃん。私は子供の頃から、雛ちゃんの事を雛ちゃんと呼んでいる。「アイツ、マジで何したんだよぉー!」雛ちゃんはハーフのような顔立ちで、可愛らしさと綺麗さが両方ともバランス良く同居しているような、そんな素敵すぎる女性で、年齢は私と同じ。悲しい事に同じクラスになる事は一度もなかったけれど、幼稚園も小学校も中学も高校も同じ。大学も同じで、そこで漸く一緒に講義を受ける喜びに出会えた。そして、卒業後に働いている職場も同じ。学歴の後半と就職については、そうなれるように私が頑張った結果で、奇跡的に当事者に嫌がられていないストーカーみたいなもんだ。勿論の事、本当に嫌がっていないかどうかを本人に訊いてみた事は一度もないし、嫌がられないストーカーなんているのかどうかも知らない。嫌だって言われたら嫌だから、雛ちゃんに訊けるワケがないよね、嫌かどうかなんて。「おおおお願いだからヒナちゃん待ってよマジで変な事しないでよヒナちゃーん!」自分のパーツなのに、こんな大事な時に限って思うように動いてくれない。ちゃんと働けバカやろぉー。と、そんな我が指に激しくイライラしながらも。それでも私は、兎にも角にも何はともあれなんやかんやあろうとなかろうとどうにかこうにかベロニカで、雛ちゃんにコールする。
ぷるるる、
「間に合って………お願い間に合って!」愚直と言うべきなのだろうか、本当に落ち着こうとしてみるなんていう気は更々ない。そんな暇があるのなら迷わず押せよ、押せば判るさの心持ちだ。で、いつも後悔する。けれど、どうか間に合って! どうやら私、困難を前にすると根性と気合いのみで突破してやろうとしてしまうタイプのようです。
ぷるるる、
「気づいてよヒナちゃんお願いだから気づいてマジで気づいてお願いだよマジでマジでマジでヒナちゃーん!」後方で涼しい表情を見せながら優雅に、さらり。と、選ばれし者のみが可能な大魔法を詠唱してみたかったのに、ぬおりゃあああー! と、叫びながら。そして、おんどりゃあああー! と、なって。血走った眼で突進していき、眼前の敵に片っ端から打撃を与えていく。斬撃とかではなく、打撃。それも、徒手空拳のマスターなんていうような華麗な使い手さんではなくて、武器は棍棒。角材。金属バット。大金槌。フルスイング・命。の、精神。盾なんて、恥。ちょっと動くだけでもモザイクが必須な箇所が丸出しになりそうな、そんな露出度の高い防具を身に纏った戦士。剣と魔法の世界って、女性用だと何故かしらそんな防具しかないけれど、毎日のお手入れとか大変だよね。その、道具のお手入れじゃなくて、こまめに処理しておかないと見えちゃったりハミ出ちゃったりするでしょ………なんでもないッす。
ぷるるる、
「ヒナちゃん………神様、仏様、お願い!」それはもう、アレですよ。パーティーを組んだとしたら、完全に前衛ですよ。脳筋って影で呼ばれてそうだよね。って、魔王の前にヤッてやろうか? ま、パーティーに加入したとしても雛ちゃんしか守りませんけどね。せめて、華麗に舞うかのようにどったばった、と。って、それだとドタバタか。ばったばったと、だよね。やっぱ脳筋だわ、がるる!
ぷるるる、
「もぉー、こんな時に何を考えてるの!」雛ちゃんが今にも飛び降りちゃいそうで、私の方が大泣きしそうなくらいに動揺しているからなのだろうか。脳筋だの戦士だのとどうでも良い事を考えている自分に腹が立った私は、意識して神経を逆撫でしているかのようにしか聴こえない、そんな無機質で無感情で無愛想な発信音の連続に、多大なるもどかしさと激烈なる苛立ちを覚えてもいたので、空気を読まない子供を叱りつける母親のように、自分自身を怒鳴りつける。「神様、どうかお願いします! ヒナちゃんを助けてよ!」そして、私はベランダに躍り出た。雛ちゃんの部屋と私の部屋は、マンションは違えど同じ階で、道路を間に挟むようにして建っている。なので、雛ちゃんが何かの拍子に顔を上げてくれれば、距離はあれど私に気づくかもしれないからだ。こっそり、と。なんかではもういられない。もう、雛ちゃんに覗いていた事がバレても構わない。このまま雛ちゃんが飛び降りてしまうのなら、私は自分の破滅を選ぶ。「ヒナ! っ………」けれど、大声で叫ぶのは躊躇いを覚えてしまう。だって、雛ちゃんは全裸なんだもん。私だけならまだ兎も角、私のせいで注目を浴びてしまったら………うん、そんな事を考えている状況ではないのは百も承知。日も暮れているし、八階の雛ちゃんの肢体を肉眼で眺め見るのは難しいとも思う。だったら、当事者の雛ちゃんもあまり気にしないかもしれない。それは最後の最後の最後でも。と、それでも躊躇いを拭えないでいる。「お願い、気づいて。ヒナちゃん………あっ!」雛ちゃんが、遂に飛び降りそうに見えて。ベランダの先にある私の胸くらいな高さの鉄柵に、身体を衝突させようがなんのその、実は私の方こそが飛び降りるつもりなんじゃないかしらというくらいに、勢いつけ過ぎのつき過ぎ、ありまくりのあまりまくりで、この身を外へと乗り出してしまう。この身ごと届けとばかりに、限界ギリギリまでこの身を乗り出し、神様と仏様に願う。どうか、雛ちゃんを助けてください。
ぷるるる、
ぷるるる、
「ヒナちゃん、気づいて! おぉーい、電話ですおぉー! あっ、今、振り返ったよね? だよね、振り返ったよね! ヒナちゃん、私だよ!」たぶん、雛ちゃんにとってはたった一度の、しかも、雛ちゃんにとっては泥酔した上での、言ってみれば、後悔しているだろう世迷い事でしかなかっただろう、あの時間。それを、私は今もまだ大切な想い出として記憶に残し続けている。「あ、ヤッた! 部屋ん中に戻った!」取り敢えず、飛び降りてしまうというバッドエンドは回避したようだ。「ヒナちゃん、お願い! 電話に出て! お願いだから!」大切な想い出。私はそんな自分の事を、バカな女だと本気で思っている。往生際が悪くて、諦めも悪い、面倒な女だと思っている。「ヒナちゃん、ヒナちゃんヒナちゃんヒナちゃあああーん!」けれど、忘れてしまう事なんて無理なんです。だって、ずっと前から大好きなんだもん。
ぷるるる、
ぷるるる、
ぷるるる、
ぷるるる、
ぷつ。
「ふえっ………レナ、レナぁー」
何度目の、ぷるるる。なのかは、数えていない。何故ならば、そんな事はどうでもイイからだ。私は確信するに至った。神様も仏様もいらっしゃるに決まっている。だって、願いは叶えられたのだから。だって、ヒナちゃんの声が私の右耳から全身へと駆け巡ったのだから。心の底から感謝の意を表明します、ぺこり。
よっしゃー、
ヒナちゃんキタぁあああああー!!
………、
………、
「はあ、はあ、はあ、はあ!」暫しの電話の後。私は、施錠って何それ美味しいのかしらとばかりに、部屋を飛び出しました。なかなか踵が入らない靴に殺意にも似たイライラを覚えつつ、けれど一目散に全速力で、全身全霊を走力に全振りして、私を待つ想い人の元へとおっとり刀で向かっている。あ、刀じゃなくて丸太だったか。って、どっちも持ってねぇーよ。「ぜえ、はあ、ぜえ、はぁ!」日頃の不摂生が要因なのか、その中でも特に運動不足が原因なのか、ダイエット中で栄養不足だからなのか………って、お菓子パクついていましたけどね。何はともあれ! きっとそれは、どれもこれも、理由として正解で大当たりなのだろう。本当にダイエットに取り組んでいたのかは、見逃してください。「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ、あふっ!」階段を駆け降りた頃にはもう、醜態を晒しているといっても過言ではないくらいに、どこからどう見ても青色吐息となっている始末。始末というより、お粗末かな? 上手いねどうも。お菓子あげようって余計に太るわ! けれど、運動不足は改善するべき。そんな、体たらくぶりです。偏った食事は控えましょうね、まる。前屈みになって肩を大きく揺らしているし、手を膝に付けて肩を落としてしまいたい気分でもあったりする。もしかして私の体力、日曜日ですか? 情けなさすぎてストレスが溜まるわ、マジで。暴飲暴食かまして発散してやろうかって余計に太るわ括弧二回目括弧閉じ、まる。って、そんな事はどうでもイイ! 悠長にエレベーターなんて待ってなんかいられなかった。待って乗り込んだ方が結果的に早いのかもしれないけれど、早かったのかもしれないけれど、この逸る気持ちがそんな判断力を著しく低下させていたのだから仕方ない。駆け上るのならキツいけれど、駆け下りるなら階段の方が早い。と、思った私がバカでした。けれど、本当に手を膝に当てて暫し休憩なんていう時間なんかない。あ、途中からでもエレベーターに乗れるじゃん。と、気づいた時にはもうここ二階。どうやら、私の脳ミソも日曜日らしい。って、平日でもそうなんだけどね。今日は金曜日ですし。よし、一階まで来たぞ。「ぜぇ、はぁ………おえっ」電話では訊けなかったけれど、私はもうある程度の推測を済ませている。そしてそれは、凡そではあるものの間違えてはいない筈だ。って言うより、ビンゴだろう。「あのヤロぉ………」雛ちゃんの事、傷つけやがって………。あろう事か、雛ちゃんは。あのパワハラ部長と、不倫という形の付き合いを続けている。ううん、続けていた。に、なるのかな。たぶん、もう。だから今、アイツが自宅とは別に借りている部屋に雛ちゃんは居る。そして勿論の事、あの部長のヤロぉーもだ。何故なら、二人であの部屋へと帰宅した事を知っていたからだ。見ていたからだ。いつものように気づかれないように距離を置いて、私もタクシーで帰ってきたからだ。けれどそんな中で、そんな状況下で、いつもと違って雛ちゃんがベランダから飛び降りようとした。あのマンションに帰ったのだからアイツも居るのに、それなのにアイツの姿はまるで見えないまま。普通なら止めようとしたりする筈なのに、それなのに姿がまるで見えない。たまたま、外出している? そんなワケがない。ちょっとコンビニとかそんな事していたら誰に見られるか判ったもんじゃないし、そもそも外に出た場面をこの私が見ていない。だから、まだ部屋に居る筈なのに、それなのにアイツの姿がまるで見えない。不倫関係の雛ちゃんが飛び降りようとしているんだ。そんな大騒ぎになるような事、知らん顔でいるワケがない。確実に居る筈なのに姿の見えないアイツと、思い詰めた表情でベランダから飛び降りようとまでしていた雛ちゃん。そして、電話に出てくれた雛ちゃんの、あの狼狽ぶり。辿り着いた結論は極論かもしれないけれど、暴論でしかないのかもしれないけれど、それでも、うん。謎は全て解けた、っていうヤツだ。姿が見えないのではなくて、姿を見せられない。だって、おそらくアイツは雛ちゃんに………。だから、私は急いでいる。早く行かないと、雛ちゃんが再び飛び降りようとするかもしれないし、別の方法で命を絶つかもしれない。それなのに、情けない事に息切れしている。息切れしまくっている。ヨタヨタとしている。ヨボヨボとなっている。これでは、ジッチャンになりまして。だよ。全国の元気なお爺様、ゴメンなさい。ただの戯れ言です。言う事を聞いてくれない身体のせいでバタバタしているし、もがいているし、喘いでいる。ジム通いを三日坊主した自分が、悔やんでも悔やみきれない。残念ながらこんな無様な姿を晒すようでは私、優秀な探偵さんにも立派な刑事さんにもどちらにもなれそうにありません。「ねぇ、ヒナちゃん。待っててね………私、頑張るから」例え、探偵さんや刑事さんを志していたとしても、それは永遠に叶わない夢になるんだけどさ。だって、そうでしょ? だって、これから先の私は………。
きっと、
追われる方になりますので。
………、
………、
………、
PM20:05/篠原 恵子
まさか、まさかのまさかでこんな事になってしまうだなんて。私はそういう星の下に生まれてしまったんだと納得して、諦めて、受け入れて、文句一つ言わずに、ただただ耐えるしかなかったのでしょうか。いつだって、そう。いつだって私は、周りの人まで不幸にしてしまう。その人が大切な人であればある程に、道連れにするかのように、こうして不幸にしてしまう。
「ふふふん、ふんふん♪」
それなのに静香先輩は、こうして鼻歌まじり。もしかしたら、ほんの少しも動じていないのかもしれません。いつだって冷静な人ですから、こういう時でもそういうものなのでしょうか。しかも、元凶のこんな私がこんな近くにいるのに、こんな私のこんな尻拭いまでしてくれて、それでも優しいままでいてくれるなんて、静香先輩は本当に誰よりも優しい人です。静香先輩が優しくしてくれるから、私は職場のみなさんからのどんな仕打ちにも耐えてこれました。静香先輩がいつだって傍にいてくれるから、だから私は今日まで辞めずにこの職場にいられました。そして静香先輩がいる職場だから、辞めるつもりなんてありませんでした。それなのに私は………取り返しのつかない事をあろう事か大好きなその静香先輩にさせてしまいました。恩を仇で返すとは、まさにこの事を言うのかもしれません。「こんな時間までゴメンなさい………」だから私は、まだ嗚咽が残る震えた声で静香先輩に謝りました。もう何度目になるのか自分でも判らないくらいなのですが、今回の事は流石に謝って済む事ではないのですが、それでも私には何度目になろうと、こうして謝り続ける事しか思いつかない。
「気にしなくてイイから。だからほら、もうめそめそしないの。ね?」
それでも静香先輩はこうして、こんなにもこんなにも優しい言葉で私を元気にしようとしてくれる。嬉しくて嬉しくて、嬉しくて嬉しくて嬉しくて、溢れ出る涙の意味が真逆に変わる。不謹慎にも、私は世界一の幸せ者だと感じてしまう。私は何てイヤな女なんでしょう。「センパイ………ありがとうございます」静香先輩の温もりを感じた私は、感謝の気持ちを心を込めて言葉にしようとしました。
「めぐみ、もう泣かないで。ね?」
静香先輩の笑顔に心が温められ、優しい声に身体が反応してしまう。どうしても疼いてしまう。求めようとしてしまう。甘えてしまいたくなる。既に知ってしまっている身だから余計に、静香先輩に与えてもらいたくてたまらなくなる。「センパイ………はい!」静香先輩は誰よりも優しいから、世界で一番に優しい人だから、だからこんな私にさえも気遣いし続けてくれる。それがとっても嬉しくて、嬉しくて嬉しくて、嬉しくて嬉しくて嬉しくて、ぱっと明るくなるのが自分でも判った。
「よぉーし、もうすぐ終わるよ。ちゃっちゃと片付けちゃおっかね!」
たった一度の。静香先輩にとってはきっと遊びのつもりの、静香先輩にとってはそんなたった一度の過ち。あれは私を笑顔に戻す為の最終手段の優しさだったのでしょう。でも私にとっては、たった一度の大切な大切な想い出。大切な大切な記憶。今から一週間前に貰った至福の数時間。判っていてもどうしても期待してしまう、夢にまで見た静香先輩との未来。静香先輩を永遠に独り占めしたくてたまらないのに、私は………静香先輩、私のせいでこんな事になってしまって本当にゴメンなさい。でも、それでも私は静香先輩の事が大好きなんです。私は静香先輩の事が、ずっと。ずっと、ずっと前から、出会った時から。「………はい」思い返さずとも私は、入社当時から失敗の多い奴でした。そしてそれは今でも変わらないままです。一生懸命に頑張っているのですが、真面目に集中して取り組んでいるのですが、いつだって真剣なのですが、私はちっとも役に立っていない。それどころか、足手まといになっている。ううん、足手まといにしかなっていない。そんな始末。いつもお粗末。きっとそれがイライラさせてしまう要因なのでしょう。私はどこに行っても苛められてしまう。男の人は呆れ果ててなのか諦めているのか、失敗ばかりする私を怒りもせず笑いながら放置するばかりで、女の人はいつまでたってもそんな私だから許せないのでしょう。どこに行ってもそうでしたし、どこにいても私は少しも成長しないままでした。思い返せば小学校の時からずっと、その時その時の周りにいた人達からそうされてきました。あまりに幼くて覚えていないだけでもしかしたら、保育園の時もなんなら産まれた時からそうだったのかもしれません。だからなのかな………苛められるのが怖くて不登校児になった私を、それからは家族でさえも半ば見放しています。だから、今でもお父さんとお母さんにはよそよそしくされ、お兄ちゃんと妹からはバカにされています。お母さんは私なんて産まなければ良かったと思っているでしょうし、お父さんも私なんて育てたくなんかなかったと思っているに違いありません。だって、私の名前は恵子と書いて、めぐみこ。誰だって、けいこ。って、読むに決まっています。そう思うに決まっているんです。きっと、恵子と書いて、けいこ。の、つもりが届ける際に恵子の恵を見て、めぐみ。って、書いちゃったんです。で、書き直すの面倒だからイイか。と、めぐみこ。そんなふうに適当に届けたんだと思います。きっと、そのくらい私の事なんてどうでも良かったんですよ。学校でも職場でも、恵子なのに、めぐみこ? 可笑しいよ、そんなの。と、言われ続けてきましたし。わざと、けいこ。と、呼ばれたりもしてきましたし。私は誰からも愛してもらえない。でも、そんなの当たり前だ。こんな女、面倒でしかない。そんな事は自分でも充分に判っている。存分に自覚している。生きる価値のない女です。生きていても何一つ意味を持たない、どうしようもない女なんです。だから、今までずっと独りぼっちでした。ですがそんな私が、こんな私がこんなにも素敵な先輩と出逢えたんです。ふぅーん。恵子と書いて、めぐみこ。って、読むんだね。素敵な名前だと思うよ。そう言ってくれたのも、静香先輩だけです。
中田静香さん。
私の大切な人。
なかた・しずか、さん。だから、静香先輩。私はそう呼んでいます。静香先輩は、どうしようもない私を救ってくれた人。生きていたって何の意味もないのに、それなのに死ぬ度胸はなくて、生きていたくて、だから嫌われないように何でも言う事をきく子だった私を、苛められてばかりだけどこれ以上そうならないように笑ってばかりいる私を、それも苛められる要因の一つなのだと判っていながらそれでもそれを続けてきたそんな私を、一人の人間として扱ってくれる人。しかもいつだって優しくて、そして真っ直ぐに接してくれる人。そんな静香先輩と、私は一度だけ結ばれました。たった一度の大切な想い出。忘れられない記憶。忘れるつもりなんてありません。たった一度きり。それ以前もそれ以後も経験した事はない、大切な大切な想い出。静香先輩にとっては痛恨の過ちであっても、私はもう静香先輩がいないと生きていけません。静香先輩は誰よりも優しい人だから、だからその過ちの後もこんな私に変わらない優しさを与え続けてくれます。だから私はそんな優しい静香先輩につけ込み、静香先輩との距離をもっと縮めようと思っている。だから、社内で噂になるようにわざとベタベタしてきました。静香先輩への抑えられない想いが自然とそうさせている面もあるのですが、静香先輩は世界で一番優しい人なので、私がそうしてもそれを続けても決して邪険にはしないでいてくれました。迷惑に思っているに違いないのに、苦笑しつつも私を思って優しく受け入れてくれる。「………」でもね、でも、静香先輩。私は知ってしまいました。知っちゃったんですよ。静香先輩が与えてくれる幸せを。静香先輩が教えたんですよ。静香先輩が私に刻み込んだんですからね。静香先輩によって、昇りつめたんですもん。だから全て静香先輩のせいなんです………って、私はイヤな女だ。心の奥に閉じ込めているつもりだった、そんな計算をする私が、本当の私が、悪魔の囁きに屈しまくる私が、静香先輩を欲している。そして私は、それに抗わない。静香先輩を自分だけのモノにしたい。今まで死ぬ度胸がなかった私が唯一、死を選べる人。掴みかけているかもしれない静香先輩を失うくらいなら、私は………。
「ふふふん、ふんふん♪」
少し鼻にかかった静香先輩の声。特に高音になると、更に鼻にかかってとても可愛い。あの時みたいに、また耳元で囁いてほしいなぁー。可愛いよ、って。言ってほしいなぁー。あ、静香先輩の匂いがする………あはは、幸せ。って、こんな姿で何を思っているのでしょうか、私は。「………」激しく引っ張られたせいで制服のボタンは弾け散り、ちょっと破れてしまった箇所もあり、その下に着ていたシャツは見てのとおり所々ヨレヨレになってしまいました。ブラは大丈夫みたいだけどパンツはゴムが伸びちゃってダメだし、擦り傷とか痣とかでアチコチ痛いし、埃と汗で肌はべたべた、涙でお化粧はぼろぼろ。汚れてはいますが無事なのはブラと、スカートもなんとか、あ、シューズも大丈夫かな。ですが、ノーパンはなんだか………肌触りというか、風通しというか、その。こうして椅子に腰掛けているだけでも違和感しか覚えません。もう完全に見られたどころではない状態を静香先輩には晒しているのですが、それはまだただの一度きりですから、落ち着けば落ち着くほど恥ずかしくなってきて仕方ない。先程かわされてしまった反動もありますし………考えてみたらそっちのショックの方が大きいかも。
「よぉーし、出来上がり! ほら、めぐみ。着てみて?」
あの幸せを知ってしまった私は、もう静香先輩から離れられない。あの甘美で淫靡な行為そのものもそれはそれで刺激的ではありましたが、最高ではありましたが、それはあくまでも幸せの一部です。なくてはならないものではありますが、何よりも静香先輩の腕枕は最高の気分でした。おはよ、って。目覚めてすぐに耳に届く、静香先輩の優しい声。朧気な視界がどんどん冴えていき、静香先輩の笑顔が視界いっぱいに見える。幸せだったなぁー。今度は静香先輩の寝顔を見たい。そして、私の方から言うんだ。おはよーございます、って。二人きりであればおもいっきり甘えられる。誰の事も気にせず、静香先輩にべったりとくっ付いていたい。次は、次こそは。どうしても、そんな思いが私を離さない。だから、静香先輩を独占したい。他の誰かがあの幸せを静香先輩から得られるだなんて、少し考えただけでも気が狂いそうになる。誰かが静香先輩と笑顔で話しているところを見ただけでも、私はその誰かに悪意を抱いてしまう。殺意すら覚えてしまう。つまるところ私が欲しいのは静香先輩そのもので、静香先輩が与えてくれる数々の至極の幸せは静香先輩の一部でしかなく、逆に言えばそのどれもこれもは静香先輩からでしか欲しくもなんともない。「ありがとうございます」ですが、静香先輩はどう思ってくれているのかな。遊びのつもりが本気に、とか。そんなふうになってくれないかな。一度きりでは無理、ですよね。「センパイ………」私ね、こんなにも愛しているんですよ? だからこのまま、誰にも渡しませんからね。離れてなんかあげませんからね。こんな事になってしまったのは申し訳なく思っていますし、謝って済む事ではないのも充分に理解しています。ですが、これはこんな私にやっと巡ってきた幸せへの絶好の機会なんです。最大にして最高の、そして最初で最後の、そんな大チャンスなんです。図らずして、静香先輩が手に入るかもしれないのですから。しかも………永遠に。大切な人ほど迷惑をかけてしまうこんな私に、それでもこんなに優しくしてくれる静香先輩。誰だって独り占めしたくなるに決まっています。
「じゃあ、行こうかね!」
静香先輩が繕ってくれた制服を言われたとおり私が着るや否や、静香先輩は元気よくそう言って笑顔で私に手を差し出してきました。つまり………手を繋いで二人、手に手をとってここから逃げようという意味ですか? 頭の中でいくつものハテナ印が、からんころん。と、不規則にそれぞれ転がり回るに至ったのですが、静香先輩と手を繋げるのならどんな理由でも構いません。さうんど・おぶ・さいれんす、です。あ、あの映画は手に手をとって教会から逃げるのがラストではなくて、本当のラストはその後に続くバスの中での二人の表情が………うん、前言撤回しましょう。激しく却下ですよ。即座に否定です。私が望む結末ではありませんでした。私が渇望するのは、一瞬の煌めきではない。「………」私は希望を棄てきれない。棄てたくなんかない。だから棄てない。棄てようなんて思わない。不安があるとすれば、そう。あの映画の中の二人が思う漠然とした未来への不安ではなく、もっと現実的で直接的な私にとって邪魔でしかない事です。それは、悪い事をすれば罪を償わなくてはならないと、いう事です。被害者は被害者のままでいなくてはいけなかったという事。今の私は被害者ではなく、加害者となってしまった身ですからね。正当防衛? どうでしょうか………もしも、引き離されてしまったら。静香先輩、それでも再びこうしてこんな私の手をとってくれるでしょうか? 今この時だって静香先輩の本当の気持ちを探っているというのに、静香先輩に惚れてもらえる自信がこんな私なんかにある筈がないじゃないですか。今の私を選んでもらうには、今の私ではあまりにも弱すぎる。武器となる取り柄がなさすぎる。「………」だからこそ、しがみつくんです。だからこそ、まとわりつくんです。だからこそ、つきまとってきたんですから。だから、このまま私………。
静香先輩を、
諦めたりなんかしませんからね。
………、
………、
………、
PM19:30/河合 梨花
もう、耐えられない。と、言うよりも。もう、期待するのをヤメよう。と、諦めたのでしょうね。もう、こんな毎日は限界だったんです。だから私は、まだ幼い頃は兄であった筈の現在ケダモノを突き飛ばし、そして一目散にお部屋を飛び出しました。それが、私が出来る精一杯の抵抗でした。毎日のように受けていた、理不尽な暴力。今日も浴びた、酷い仕打ち。毎日、毎日、毎日。当然の事のように。当たり前の事のように。私はそんな数々に、怯えながら耐え続けてきました。震えながら暮らしてきました。仕方なく生きてきました。そうするしか他ありませんでした。でも、遂に弾けてしまったんです。遂に、なのか。それとも、やっと。だったのか。本当のところは判然としませんが、その事についてここで深く掘り下げてみる余裕なんてありません。兎にも角にも、私はもう私でいるという事がイヤになりました。私でいる限り、私はきっと、明日も明後日も、ずっと、ずっと、こんな苦しみに晒されるのでしょう。と、そんなふうにしか思えなくなったんです。でも、私は私以外にはなれません。そんなの当たり前の事です。私が今すぐにでも私をヤメるには、私が今すぐにでも私の息の根を止めるのが確実な手立てです。ボタンの弾けたパジャマ。破れたシャツ。乱れた髪。そんな姿のまま、何も履かずに部屋を飛び出した私は、屋上へと続く階段を駆け上がりました。「ふえぇん………」吐く息に混じって漏れる嗚咽。傷つけられて傷つくだけの、そんな毎日でした。私に与えられた役割は、鬱憤を晴らす為の玩具、当たり散らす為の人形、それと………性欲処理の為の道具。こんなのあんまりです。だって、私にだって感情というものはあります。こんな私にだって、等しくあるんですよ。「うくっ………」向かう先、それは決まっていました。子供の頃から住んでいる、この古ぼけた団地の屋上です。そこが浮かびました。ぱっと浮かびました。もっと言えば、そこしか浮かびませんでした。だから、屋上へと向かいました。一つ、また一つ。と、階段を駆け上がります。上がる。上がる。上がる。すると、ドアが見えてくる。そこまで来れば、後はもうすぐです。ドアのノブを触れ、握り、回して、押す。がちゃ、ばたん! と、鈍い音がする。そして、ドアを開けた勢いのまま外へと飛び出せば、そこが屋上です。向かう先の最終地点、それがその場所の端っこです。「ひぐ………っ」ですが、一歩、二歩、三歩、そして、四歩。思いに反して徐々に徐々に、その勢いは弱まっていき、私はその場に立ち止まりました。その場とは、屋上と此処を隔てるドアの前です。屋上の直前です。場所的には屋上と同じ位置にある一角で、コンクリートの天井と壁に囲まれていて、更には固くて重いドアで屋上を遮っている。そんなスペース。そこで私は立ち止まりました。力尽きたワケではありません。封鎖されていたワケでもありません。心が動けば、身体は動く。ならば、心が気力を失えば、身体は止まる。まだ、私には覚悟が足りなかったのかもしれません。再び、嗚咽が強まっていく。「ぜえ、はあ、ぜえ、はあ………ひんっ!」でも、屋上へと続くドアの前に到達したという事をあらためて意識すると、衝動的だったんでしょうこの先の事に、本当に決心がついたのかもしれません。指で、手で、腕で。溢れ、零れ、流れ続ける涙を何度も拭う。何度も、何度も、何度も拭う。「えぐ、うっ、ふえぇん………」でも、それでも涙は次から次へと滲み、瞳を覆い尽くそうとする。そして、押し出されては零れ、頬を伝いながら流れていく。だから、私の視界はいつまで経っても朧気なまま。だから、この世界はいつまで経っても歪んだまま。だから、目を閉じる。「ひくっ、ふぐっ、も、もう、うぐっ、もぉ、こんなのヤダよぉ………」その時。区切りがついた私の脳裏に浮かんでいた、たった一つの魔法が、止まらない涙を止める方法ともリンクしました。その魔法を唱えれば、心につきまとい続ける悲しい気持ちも、虚しい思いも、身体に刻まれる傷も痣も、忌まわしい感触も、悍ましい穢れも、屈辱的な羞恥も、そしてこの涙も、もう二度と感じなくて済む。味わわなくて済む。その魔法を唱えさえすれば、その全てから。「解放………される」もう既に、心では決心がついていたからでしょう。そして、頭の中でも納得してしまえたからでしょう。何の躊躇いもなく、右手がドアのノブを握り締めました。そして、そのドアノブを回す。更には、ドアを押す。あ、私は本当に諦めたんだね………と、今更ながらに思って、なんだか他人事のような気にもなってしまいましたが、それが私の望みであるのなら、私はそんな私に協力するよ。それならそれで、このまま委ねてみるよ。反対する理由なんて何一つありませんし。「今日までよく頑張ったと思うよ、私。よく頑張ったよ、私」と、ぽつり。明日になれば希望の光が見えて、明後日になったらその光が大きくなっていて、こんな私にだっていつかは………だ、なんて。もう少しも思えませんでした。生きている限りずっとこのままなんだ、と。ずっとずっとあれが続くんだ、と。それは変わらないんだ、と。そうとしか思えないから。私が私をこの世から消すまで、ずっと。「じゃあ………さよなら、だね」そう、ぽつり。ドアの先に見える未来を求めて、私は屋上へと進み出ました。まだ、俯いたままだったのですが、たぶん。すっきりとした面持ちだったと思います。屋上へと続くドアは、いつもより軽かった気がしました。ばたん。と、閉まるドアの音が聴こえる。
さよなら、
もう戻る事はないと思います。
………、
………、
………、
PM19:33/藤本美里×河合梨花
ばたん。と、いう音がした。「………っ!」現実から逃避しつつもそれを現実にする最中にあった意識が、一気に今ある現実へと引き戻される。だから私は、その音がした方へと反射的に振り向く。そして、ここへと続くドアを見つめる。すると、そこに人影が一つ。まさかアイツ、ここまで追ってきたというの? そこまでして私を苦しめたいの? いつまで経っても戻らないのなら、それならばこうしてやる。と、この場所まで奪うつもりなの? 多大なる恐怖という感情が、身に覚えがありすぎるからこその私を途端に強張らせる。怖くて怖くてたまらない。「………?」けれど、そこに見えたのは。自分と同じような姿をした女性だった。何度か目にした事がある、挨拶程度なら何回か言葉を交わした記憶もある、自分と同じくこの団地のどこかの部屋に住んでいる、可愛らしい女性。その彼女が、記憶にある印象とは真逆とも言える散々な格好をして佇んでいた。「どうして………」その女性が自分と同じような姿で、しかもつい先程の自分のように泣いているように見えた。もしかして、彼女もそうなのかしら………と、私は思った。もしかして彼女も、私と同じ境遇なのかも。と、私は直感した。だから、なのかどうかは判らないけれど、おもわず私は彼女に声をかけてみようとした。「………!」のだ、けれど。私に気づかないままの彼女は、私の方へと歩いてくる。とぼとぼ、と。俯いたまま近づいてくる。どういう理由なのかは判然とはしないのだけれど、とぼとぼ。とぼとぼ、と。「………」どうしよう。声をかけるべきか。声をかけても良いのか。見るも無惨なそんな姿を、誰にも見られたくはないだろうし。と、逡巡してしまう。隠れる場所も時間もないのだけれど。どうしよう。どうしよう。その時、私は………もしかしたら、独りぼっちではないのかもしれない。と、まだ直感したばかりだというのに。共感してもらいたいのだろう、期待してしまう自分が芽生えている事に気づいた。
「………」
彼女が近づいてくる。
「………」私は見つめ続ける。
「………」
彼女は進み続ける。
「………」私は見つめ続ける。
「………」
彼女が顔を上げる。
そして。
「………!」
私達は、漸く。
………、
………、
………、
視線が重なった。
青天の霹靂、おわり
最高の食卓へと続く
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