GOOD-BYE HONEY
野良にゃお
第1話)始めの一歩
PM21:15/七人のワケあり女子
がたん、ごとん。がたん、ごとん。と、とある田舎町を一定のリズムを保ちながら走り続ける三両編成の電車の中に、その所々に錆びの目立つ三両の電車の一つ一つに、それぞれがそれぞれにそれぞれの傷を負い、その傷に及ぶ現実を棄てる術なく、無かった事にする手立てなく、だからどうしようもなく抱え込み、どうにもならず背負い込み、しかしそれによって見出すに至ったかけがえのない思惑と、そのかけがえのない思惑を実現するに叶う相手を手にしたのかもしれない、そんな七人の女性が乗っている。そんな彼女達七人は、この後に続く数時間を経た後に、儚くも濃密だった運命の終焉を共有するに至るのだけれど、もしもそれを無事に越えたとしても、その先のどこかに確実にあったであろう無慈悲な結末を思うと、その終わる様は兎も角として、その終わり方はたぶんきっと、もしかせずとも最悪と形容する程ではない筈の幕引きであった。と、言えるかもしれない。めでたしめでたしとは言わないまでも、ハッピーエンドとは程遠くとも、平凡な日常さえ縁遠くても、笑顔に満ち満ちた毎日とはならずとも、そんな未来のただの一秒すら、或いはほんの刹那ですら辿り着けなくとも、それでも決して、不条理だと嘆き悲しみ、崩れ落ちるまでではなかったのではないか、と。それが儚すぎた輝きであったとしても、一瞬でもその煌めきに心を踊らせるに至れた分だけ、その分だけ決して理不尽などではなかったのではないか、と。彼女達七人からしてみれば少なくとも、彼女達七人が背負わなければならなかったであろう後々に待っていた筈の笑顔のない毎日に比べれば、これから暫し後に突如として遭遇する暗転は、言うなれば時間いっぱい、ぎりぎりの潮時だった、と。言い換えるとするならば、それが落とし所だったのではないか、と。そう思えば彼女達七人の数奇な人生も、これもまた、たぶん、きっと、平凡な人生こそが幸せな事だとは思えない者にとっては、咎を背負う対価として魅力的に見えるかもしれない。羨ましいという感情を抱くかもしれないし、妬みすら覚えるかもしれない。それが例え仮に、彼女達七人にとってはあまりにも無慈悲で、そして理不尽な顛末としか思えずとも。
がたん、ごとん。
がたん、ごとん。
………、
………、
そんな彼女達七人の名前はそれぞれ、
村瀬 雛子 (むらせ ひなこ)
石井 麻里香 (いしい まりか)
藤本 美里 (ふじもと みさと)
中田 静香 (なかた しずか)
橋野 麗菜 (はしの れな)
篠原 恵子 (しのはら めぐみこ)
河合 梨花 (かわい りか)
と、いう。
………、
………、
この古ぼけた三両の電車に至るまでの彼女達七人のその関係性は、初見の者、見知る者、親しい者、そして愛しい者というふうに、様々で色々でそれぞれなのだけれど、図らずも特異で異質な類似性を持つに至っていた。それはただただ偶然にもそうなってしまっただけとも言えるのだけれど、その数奇な運命の一つ一つが実際の事として、言い換えるならば後戻り不可能な現実の事としてこの世に巻き起こってしまったのは、そしてそれに巻き込まれてしまったのは、つまるところ咎を自ら背負う事となってしまったのは、兎にも角にもそうなるに至ってしまったのは、この時点からほんの少しだけ過去の事となる。遡って、そう。凡そではあるものの、二時間くらい過去の事になる。それは瞠目する程に無遠慮で、刮目する程に無節操で、あからさまに無配慮だったのだけれど、しかしどうしようもなく、けれど仕方なく、そして余裕なく、殊更に満遍なく、結果的に身勝手な運命と位置づけられてしまうような事だった。そんなその二時間ほど前を終わりの始まりとするのならば、次から次へと立て続けに起きてしまったそんな哀れな出来事は、描く未来を絶望視する中で見つけた、期待せずにはいられないその先への夢の切符だったのかもしれないし、咎を背負う事でしか得られない、永遠を渇望するほどの甘い果実だったのかもしれない。しかし、その切符を握りしめて乗り込んだ筈の、この三両編成の電車が向かう先で、そんな彼女達七人を待っていた有無を言わせぬ未来は、甘い果実を思えば思うほどに脳裏に巣食う苦い水を眼前にする前の、言ってみれば思いもしなかった終着駅であり、勿論の事この時の彼女達七人は、まだ誰一人としてそれを知る由もない事は言うまでもない。
がたん、ごとん。
がたん、ごとん。
がたん、ごとん。
………、
………、
………、
PM19:45/村瀬 雛子
一定を崩す事なく単調な旋律を奏でているシャワーの音が、微かに。そして無機質に、浴室からここまで洩れ聴こえてくる。と、言うよりも。完全には密封されていませんから、判り易いくらいに響いてくる。勿論の事ここまでというのは、私の耳に。今となっては、もう後戻りする事なんて不可能な現実を背負ってしまったこのお部屋で、そんな現実を抱え込んでしまうに至ったこのお部屋で、こうなってしまう以前までの記憶が、まるで火を点した蝋が溶けていくかのように、どろ、どろ。と、溶解していく。そして、その下から知りたくはなかった真実の姿が浮かび上がってきて、記憶が塗り替えられてしまう。そんなのはウソだと目を強く閉じて拒絶の意を示すと、既に侵食を終えた記憶として私の内側に住みついているので、瞼の裏に一つ、そしてまた一つ、と、頼んでもいないのにその一つ一つを投影させる。だから瞼を開けざるを得なくて、だからそうしてみるに至るのですが、どこを見ても沢山ある中の思い出のどれかを誘発する物が、どうしても視界に入り込んでしまう。そして映り込んで思い出させた途端に、その記憶の真実はこうだと片っ端からアップロードしていく。目を閉じても逃げられず、目を開けても逃げられない。だから私は、視線の先にある朧気な視界を、このお部屋の先にあるベランダの、更に外にある世界で埋めようとしました。そこ以外にはもう、逃げ場は無い。と、全身びしょ濡れのまま、滴る滴もそのままで。今の私には、ベランダに続く導線しか残されていない。その道の他に、歩を進めるに可能なスペースなんて一つもない。そもそも寄り道する場所が無く、小休止を挟む時間の猶予も見当たらない。そんな心の余裕なんて、欠片すら持ち合わせていない。ベランダのその先を目指すという事のみが、残されたたった一つの選択肢。だから私は、ベランダのその先を目指している。前へ前へと進み出る度に、唯一この身を覆うびしょびしょに濡れたもこもこの靴下が、どうしたって床に触れるものだから、その度に足の裏から頭のてっぺんへ、じんわり。と、不快な感触が一直線に伝わってくる。そして、ぞわぞわ。と、鈍い痺れが全身へと拡散されていき、ひんやり。と、心を寒くさせていく。涙が、ほろり。両の瞳から一つずつ、頬を縦に伝い落ちる。でも、濡れた髪の雫と相まってしまって、外側からではどちらなのか判然とはしないかもしれません。内側から溢れ零れ出たそれは、何を思ってのそれなのでしょうか。屈辱に塗れて自尊心から衝動的に起こしてしまった事への後悔なのか、それによって憂うばかりとなった行く末への悲観なのか。それとも、この事で露見してしまうのでしょう我が身に巣食う知られたくなかった羞恥への絶望なのか。或いは、これによって失う事を本能的に怖れる別の何かへの執着からなのか。そのうちのどれもこれもなのかもしれませんし、どれかに特化しているのかもしれないのですが、自分自身の事なのにそれが私には判然としない。でも、たしかに宿る何かに突き動かされて、ゆらゆら、ふらふら、と。そして、ぺたぺた。と、私は重い足取りで歩を進めている。たぶんその分だけ普段のペースよりも長く、気色の悪い感触を浴びている。この感触とは仲良くなれそうにないし、親しくしたいとも思わない。身体の相性が合わない。と、いうヤツでしょうか。靴下さんの方のお気持ちは知りませんが、こんな感触を味わわせるような御仁ですから、きっと性格の方も不一致となるでしょう。でも、私が履いたまま浴室に向かったのが原因という面を考慮すると、ご迷惑をおかけしているのは私の方ですから、私の方こそが何様という事になりますね。人間という種族は何者にでもなれる可能性を秘めてはいるものの、どこかで簡単に何様となってしまう低能な生命体ですから、私は所詮………って、そんな事はどうでもイイ。これではまるで、遅刻しそうなのにお部屋のお片付けを始めそうになる心理状態と同じです。もしかしたら、これが現実逃避という心境なのでしょうか。いくらそれを試みたところで、すぐに強制的に現実へと引き戻されて、否応なく実効支配されてしまうのに。どうやら私は、理性ではなく感情を優先してしまう性格なのかもしれません。我が身可愛さの強く、自己中心的なのでしょう。そして、軽薄なのでしょう。罪そのものへの後悔や、露見した際の視線や態度への恐怖はあるのに、贖罪という意識は全くと言っても良い程になく、予想するに容易いそれら全てを実際に浴びる前に、それらを阻止する手段として選択する一手。それが、あのベランダの先にある。と、思っている。逃げられないだろうからそうしよう。と、思っている。優柔不断でもある私が躊躇の念を見せていないのですから、ただただベランダの更に外へと歩を進めて行きさえすれば、それで十全なのだと思う。まだ判然としないままではありますが、たぶん後悔と悲観と絶望の全てに突き動かされているのでしょう。でも、このままでいれば達成されるのですから、間違えてはいない筈。って………間違いを起こしてしまったから、こうしているんですけどね。あはは………。
なんで、
こうなっちゃうんだろう。
これが、私の人生の終幕。前向きに頑張ってみよう、そう思った矢先に訪れる不運。そんな自分を不幸な人だと嘆き、見放されたんだと悲しみ、人ならざる誰かが苦しめて楽しんでいるんだ。と、妬む。でも、それでも頑張るんだ。と、立ち直る努力をする。すると、また不運に見舞われる。頑張ろうとしては不幸に襲われる頑張っても頑張っても不幸が待っている。私が諦めるまで続くかのようで、諦めても続きそうで、だからそんな自分を不幸だと思い込む………その、繰り返し。そんな事が何度も続いていくと、やがて精神が限界に到達してしまう。そんなの当たり前の事。特別な事なんかではなく、普通に起こり得る事。どうせ私なんてと考え込み、悩み続け、塞ぎ込むのは当然の事。負けるな。頑張れ。そんな思いはどんどん小さくなっていき、いつの間にか姿を見せなくなる。私を心配して励ます私はそのまま消息を絶ち、私を思いやる私も続け様にいなくなり、私を気遣う私までが立て続けに離れていくと、私そのものが精神的な限界を迎える。それは蓄積によるモノですから、限界を感じた時の事の大小は関係ありません。限界点がどこにあるのかは差異があるのでしょうが、どんな些細な事であろうと、積み重なった結果としてある時、それをきっかけにして遂に限界を超える。すると、人間は脆くも崩れてしまうんでしょうね。不思議なくらい自然で、何の突っかかりもなくて、呆気ないくらい、不意に。それが、当然の帰路であるかのように。もう、壊れちゃおっかなぁー。と、そう思うに至る。それが、今の私です。カーテンを開け、ガラス戸を開ける。すると、途端に。肌寒い風が、お部屋の中に入ってきた。あ、そうか。私、裸だったね………別にイイか。もう、どうでもイイ。誰かに見られたって、たぶん………その時は、ぐちゃぐちゃになっているんだし。って、不意にグロテスクな自分を想像してしまっても、そうなるに至る事への恐怖みたいな事を感じないのは………もう、私のどこかが壊れているからなのかな。心が病むとか、頭の中がおかしくなるとか、精神的に限界とか。なんだろう、頭の中というのは脳の事よね。精神的にというのは、気持ちの事? それなら、その気持ちというのはどこにあるのでしょうか。気持ちと言えば、やっぱり心だと思うし、そうすると心の事になるのかな。で、あれば。心が病むというのと一緒だね。でも、心というのはどこにあるのでしょうか? 心というは不思議なモノですね。部位なのか、アイコンなのか、私の中のどこにいるのか判らない。でも、だからこそ思う。心というのはこの空間に漂っていて、人間では視覚する事がデキなくて、何らかの事象が起きる度に生成されている、と。そして、その事象を感受する度合いに比例して、それぞれの内側へと侵入してくるのかなって。だって心って、頭の中で思考を重ねた結果として投下されたような気はしませんし、心という字が使用されている心臓から伝達されたような気もしませんし、私という個体のどの部位を利用して生成されて培養されたのか何一つとして釈然としないまま、急に意識させられますもんね。時には、自分という自分を支配してしまうくらいに。時には、自分という自分が自分自身を追い込んでしまうくらいに………うん、そうだね。
私を追い詰めたのは、私自身。
目が霞む。音が靄がかる。匂いがしない。感覚がない。視線の先にある視界に入り込む全てが歪んで見え、歪んで聴こえ、何も流れず、意識が遠のいていく。私は今、時間の流れは止まっていない筈なのに、取り残されているかのような世界に身を置いている。そして、何処にあるのか判らない心が、まるで私自身がそれのみを望んでいるかのように、唐突に、言い換えれば突然に、それなのに当然の如く、私という私を誘惑してくる。勧誘してくる。耳打ちしてくる。見せつけてくる。おいでおいで、と。満面の笑みで手招きしたかと思えば、手を引っ張って引き摺り込もうともするし、背中を押して連れて行こうともする。達成する為ならあらゆる手段を用いて、私自身さえ用いて私を思いどおりにしようとしてくる。だから私は………ゆら、ゆら、と。ゆる、ゆる、と。ふら、ふら、と。ふわ、ふわ、と。
くらくら、くらら、
ぐらぐら、ぐらら、
………、
………、
ぷちん。
そう、たったそれだけでイイ。ぷちん。と、なるだけでイイ。たったそれだけで、後はもう何も思考せず、意図せず、ただただ従順に動いているだけ。それだけで、私どころか人間とやらを続ける事も辞められる。自我を何パーセントかずつ諦めて、そのスペースに他意を流し込んでいくという毎日。そんな日常から、未来永劫な規模で解放される。靴下の感触とか、心は何処にあるのとか、そんな事はたぶんきっと、私のこの判断を鈍らせる為のものではなくて、この決断を迷わせない為に仕向けているのでしょう。犯した罪は償わなければならないという当たり前の事を、我が身可愛さから放棄したいだけ。そして、放棄する方法がこれしか思い浮かばないだけ。ベランダの先を目指すという思惑で満たされきっていないその隙間を、どうでもイイ事を考えさせる事で埋めて、他の意思が入り込まないようにしている。更には、その上で確実に実行させるべく囁いてくる。そして私は完全に支配されてしまい、だからこそ私の中に………それに抗おうという意思はもう見られない。
ヤッちゃえば?
ヤッちゃえよ!
ヤッちゃおー♪
ねぇ、
それでイイじゃん。
でしょ?
でしょ?
うん、そうだね。もうイヤだって思っているのだから、死んだように生きていくのと、生きる事を辞めるのは、どっちも同じようなモノ。どっちを選んだところで、まだ動けているか、もう動かないか。その違いだけ。そこに大差なんてない。生きていく事の悲しさは、怖さは、もう存分に想像してしまいました。だったらいっその事、生きているとか、死んでいるとか、生きたいとか、死にたいとか、つべこべ言わずに壊れてしまおう。そんな事を考えてしまうような自分自身すら、今すぐにでも棄ててしまおう。だって、もう。後戻りなんて、不可能なんだもん。一歩。二歩。私は歩みを進めるのみ。
あ、まだ………。
手が震えている。
どうして、こんな時に思い出すのでしょうか。あの感覚を、思い起こしてしまうのでしょうか。私はまだ、私自身から苦しめられている。もう抗わないと服従したのに、私のどこに隙間があるというのでしようか。あの時は無我夢中だったから、断末魔というのでしょうその声すらも実際のところは記憶が曖昧で、背後からだったので、どんな表情をしていたのかも記憶にない。苦痛に歪んでいたのかな。それとも、悲しみにでも塗れていたのかな。もしかしたら、憎しみに満ち満ちていたのかな。でも、さ。でも、でも、せめて、私に際する少しの罪悪感くらいは、さ。覚えていてほしいかも………どうして私は、殺してやる。と、いう選択肢しか思い浮かばなかったのかな。私は、私は………って、どうしてこんな事を考えさせるの? 私にはもう抗う意思はないの。降参して服従して従順に、心のままに遂行しているでしょ? それなのに、どうして? どうして、まだ苦しめるの? 私のどこにそんな隙間があるというのですか? どうして? 私にはもう未練な、ん、て………未練?
あ、そっか。
………、
………、
私は、
麗菜に嫌われたくないんだ。
だから、私はこうしたいのか。そっか、それか。それだったか。そっちだったか。そっちの方か。それなら納得かも。想像してしまった未来の自分の有り様には、こんな続きがあったんだね。たしかに罪を償う現実への逃避の気持ちはありますし、羞恥に満ちた事実が露見するのも耐え難い事です。でも、それよりも。こんな咎を背負った私を、羞恥に満ちた私を、麗菜は蔑むかもしれない。ううん、きっと蔑むに決まっている。いくら優しい麗菜でも、流石に許容範囲の外でしょう。でも、でも、冷たい瞳で見られたくなんかない。そんな瞳を、表情を、見たくなんかない。「ひんっ………」そうだね。それこそまさに、後悔。悲観。そして絶望です。そうだったんだね………心って、酷いね。ここまで気づかせないと気が済まないだなんて。でも、うん。隙間があったんじゃなくて、まだ殆ど空っぽって感じだったんだね。私にとっては想像すらしたくない事だから、私からしてみれば本能として麗菜を思い起こさないようになるし、心からしてみればそれを思い出させて達成しようとするよね。うん、判ったよ。もう、これで何もかも終わり。だから、さっさと終わらせてしまおう。このベランダを乗り越えれば、こうして、よいしょ。って、乗り越えちゃえば、あとはもう。痛いのも、苦しいのも、今までのに比べたら、ほんの僅かの些細な事なんだと思う。その痛みと苦しさは、もうこれでおしまいという合図。これで終われるよという証拠。その証しとなる代償。それで済むのなら、きっと………これで嫌われずに済むという安堵感でいっぱいになれる筈よね。
さあ、行くよ?
………。
~~~♪
~~~♪
えっ?
ウソ、でしょ………。
その時です。さぁ、飛び降りよう。と、決めたまさにその間際です。こういうのを、運命と言うのでしょうか。これこそを、運命と呼ぶのでしょうか。それとも、ただの偶然なのでしょうか。でも、それがただの偶然だとしても、例えそうだとしても、そうでしかないとしても、私自身の行く先を変えてくれるかもしれないものだとしたら。これこそ、私の運命なのだと受け止めてしまっても、そう思い込んでしまっても、それは仕方のない事ですよね?
嫌われるに決まっている。
そう、思っていたクセに。
………、
………、
もう、期待してしまっている。
その時、私の携帯電話から着信を告げるメロディーが流れている事に気づきました。そして私が思い留まるに至った理由は、その着信を告げるメロディーでした。そのメロディーによって、です。そのメロディーだったから、です。何もかもを放り出して飛び降りようとしている私を、もう終わりにしようと決めた私を、そんな決して平穏なんかではない私を、それでも引き留めるそのメロディー。正確に言えばそのメロディーと言うよりも、私の携帯電話に自分の携帯電話から発信してきた相手。その人によって、です。「レナ………から、だ」橋野麗菜。はしの・れな。私はおもわず、彼女の名を呟いてしまう。彼女からの着信を告げる音として設定してあるそのメロディーが、私の携帯電話から聴こえてきたという事は、つまり。それは、彼女からのコールだという事になります。当然の事です。そんな事は当たり前です。もしかしたら誰か他に、例えば違う人とかが彼女の携帯電話を使用して、私にコールしているという可能性。それは、ゼロではないのかもしれませんが、でも。そちらの方の可能性を、わざわざ気にするなんて馬鹿げているし、そんな事は電話に出てみればすぐに判る事です。だから私は、ふらふら。と、ベランダの内側に戻る。そして、ずるずる。ずるり、ぺたん。と、柵にもたれかかるようにしてその場へと座り込む。裸だから肌に痛みを覚えたのですが、私の心を奪うほどではない。麗菜に敵うワケがない。嫌われるに決まっていると絶望視した先にあるのにもかかわらず、それでも私を引き止める。蔑まれるに決まっている咎を背負ったのにもかかわらず、それでも私を期待させてしまう。羞恥に満ちた私だって、しがみついて懇願すれば、優しい彼女なら受け止めてくれるかもしれない。私はもう、そんな事を思っている。願っている。手繰り寄せようとしている。彼女じゃなければ、私は気に留める事なく飛び降りていて、今頃はもうこの身をぐちゃぐちゃにしていたでしょう。突き放されたくないから飛び降りて死のうとしていたのに、こんなタイミングでその張本人の麗菜からのコールに………私は、身勝手なものです。つい先程とは真逆の期待が、彼女の優しさへの期待が、それを芽生えさせてしまいました。それも、あからさまに。往生際が悪いというか、諦めが悪いというか。優柔不断なんですよね、私って。「レナ………助けて」麗菜なら、麗菜であればあんな事をした私でも、麗菜であればこんな私なんかでも、麗菜だからこそあんな事をしてしまったこんな私なんかでも、麗菜だったらそれでも、こんな私の事を優しく助けてくれるかもしれない。今の今までとは真逆の、そんな我が身可愛さからくる願望が、私という私を駆け巡る。彼女にとって迷惑でしかない事だというのは、充分に承知しています。でも、それでも私は………。
ねぇ、麗菜? 私ね、私ったら、ね。私ったら、さ………とんでもない事をしちゃったの。私ね、取り返しのつかない事をしてしまったの。ねぇ、どうしよう? ねぇ、どうしたらイイ? ねぇ、ねぇ、麗菜………こんな私でも、助けてくれる? ねぇ、お願い。麗菜………私を、助けて、くだ、さ、い。助けて………。
麗菜ぁああああー!!
………、
………、
………、
PM19:55/石井 麻里香
「ふぅーっ」と、軽い溜め息を一つ零すと、続けざまに今度は大きく深く息を吸い、目を閉じてからゆっくりと吐く。そして頬を伝う一つ一つを、ぽん、ぽん。と、あの人がプレゼントしてくれたお気に入りのハンカチで拭う。更には、下を向いたままの姿勢が長時間となった為に、鈍い痛みと怠さを感じていた腰を、とん、とん。と、握り拳にした左の手で軽く叩きつつ、おもいっきり胸を張って、背筋を伸ばしてみる。すると、その結果としてふんぞり返るような姿勢になってしまったので、それ故にその視線の先にある視界に、壁掛け時計の文字盤が映り込む。それによって私は、今更ながらにして現在時刻を知る事となった。鳩時計なんて意外な心持ちを受けるのだけど、お相手さんの趣味なのかな。「あ、もうこんな時間かぁー」と、ぽつり。「大変だ。急がなくちゃだよ」そして、そう呟く。けれど、その声色にも態度にもそのような兆しが見えていない事にすぐに気づき、我ながらなんて呑気なのだろうと苦笑してしまいたくなる気分になる。「よし、ホントに急いでみよう!」なのでもう一度、その旨を声にしてみたのだけど。その声色とは未だ真逆にとでも表現したくなるくらいの、あたふた。で、焦燥感を形にしてみる。すると、どうでしょう。ここにきてそんな程度のそれでさえ、漸く。本当に焦りという心情が芽生えてきた、ような気がする。もしかして私ったら、所謂ところの天然さんなのかしら。あらヤダ、おほほ。「むむむ………っ」それならば、と。それについて腕組みをして黙考してみる事、凡そ五秒。僅か五秒。たったの五秒。考えてみる気が本当にあったのかなんとも疑わしすぎる、五秒。怪しすぎるぜ、五秒。実のところは三秒くらいかもしれない、五秒。って、もうイイか。眉間に皺を寄せて、腕組みをして、そして小さく首を傾げる。所謂ところの、難しい表情。と、いうポーズ。これぞまさしく、黙考と言うに相応しい。たかが五秒じゃなければ、熟考とも相性ばっちりだった筈。門の上で考えまくる男性も、びっくり。って、彼はいつになったら行動に移すのかしら。ま、別にイイけど。よし、こっちは自己基準と自己判断で、考え中という看板を掲げる事を、更に。五秒、大サービスしちゃおう。合わせて十秒もあれば、次の電信柱まで息止めダッシュねって言われても余裕ですぜ、あはは。って、だからどうした? 結局のところは。「ま、どうでもイイか」と、いう結論に落ち着きましたとさ、まる? 特典が五秒プラスでは、大サービスとは言えないよね。それはそうと、何で黙考してみるべきかしらと思ったんだっけ? ま、それもまたどうでもイイか。だって本当に、アレやコレやと答えを探している時間の余裕はないんだし。「乗り遅れちゃったらマズいもんね………」それにしても、ちょっとした手違いで、これまたあの人がプレゼントしてくれたお気に入りのお洋服が汚れてしまったのは、我ながらにして痛恨の極みだよ。たぶんもう、何度お洗濯してもこの汚れは落ちないのだろうし、頑固な汚れはその道のプロにお任せという事で、クリーニング屋さんにお願いする。なんて、この場合ご法度ですから、呑気に陽気にそんな自爆行為に及ぶほどの天然ぶりさんを決め込むつもりは、ほんの少しですらございません。なので、日を改めて。つまるところ、諦めて。こっそり。と、処分するとしましょう。此処で早くもお着替えとなるだなんて、激しく誤算だよ。まさか、あんなに飛び散るものだとは思っていなかったし。もう一着、別のお気に入りのを持ってきておいて良かったぁー。
いそいそ。
いそいそ。
よし、十全ですおー! と、自分に軽く言い聞かせて。「そんなワケ、で………」最後にもう一度だけ、自分自身の動線を思い出して、それを思い出せるかぎり順番に辿ってみるとしましょう。これ、実のところかなり重要な事みたいですし。「えっ、とぉ………」つまるところ、最終チェックってヤツですね。確認を怠るべからずの精神で、頑丈そうに見えても叩いてみて大丈夫かどうか調べろ、です。ネット文化な時代に生まれて良かったよね、ホント。ちょちょいの、ちょい。で、すぐに知れちゃうもんね。便利な世の中だわ、ありがとぉー。ではでは、ここはヒトツ、指さし確認でまいりましょうか。壁は、触っていません。床も、素手で触ったりしていないから大丈夫。テーブルも、よし。ソファーも、よし。よしよし、荒川! いやそのなんでもありません、ぺこり。「大丈夫みたいだね、たぶん」あらヤダ、ばっちりからたぶんへと信頼度が爆下がりしておりますけど? って、案外と余裕みたいね。自分ツッコミするくらいには。けれど、そろそろ真面目にやろう。動線チェックといったところで、革の手袋をしたままですし、パンプスを履いたままですし、髪の毛はスカーフで包んでいますし、出血に至るような怪我もしていませんので、目撃されていなければ大丈夫な筈です。「で、適度に散らかしておいた、し………」一応、貴金属や現金の類いは頂きましたし。あとは、コレ。と、コレ。自分で言うのも何ですけど、特にこの二つはやっぱり眺めの良いモノではないですねぇ………ま、このままにしておいた方がイイですよね。で、パンプスもちゃんと洗いましたし、ちゃんと拭きましたし。他のお部屋も荒らしておく為に入ったけれど、誰も居ませんでしたから、目撃者も無し。それでは、此処から速やかに退散するとしましょうか。「うん、十全だと思うよ!」努めて明るく言いながら、こくり、こくり。と、大きく頷いてみる。そして、来る時より増えてぱんぱんになったキャリーバッグに視線を落とす。想像していたよりも場所を取るもんだから、やっとこさだったよ。代わりに持ってきていた何かを置いていくワケにもいかないし。試しに持ち上げてみると、ずっしり? うーん、あまり変わらないように思うけれど。って、ころころ。と、底にあるタイヤを利用して運ぶのだから、そんな事は気にする事ではないか。あ、ほら、階段の登り降りとかなんかは抱えなきゃならないよね? お、よく気づいた流石は私だ。「えっへん!」しゃるとりいとめんと詰め替えタイプ? って、そんな事はどうでもイイ。重要なのは、中身ですから。何かの拍子にバッグが開いて、中から外へと零れなければイイんですよ。それこそ、ころころ。と、転がっていきそうですし。それでお池に嵌まったりでもしたら、ドジョウさんにアプローチされちゃいますし。ここまでする事で漸く私だけのモノにしたというのに、奪われるワケにはいきません。あ、そう言えば。ドングリさんはお池に嵌まって大変なのに、一緒に遊ぼうよだなんて。ドジョウさんって空気読めないよね。助けるのが先なのにさ。あ、ドングリさんは男の子だから、池に落ちた時の音は、ぼっちゃん? なんてね、あはは………空気読めないのは私も、か。空気が読めない者同士で仲良くしようよ、ドジョウさん。地震の際は知らせてね。「………」さて、と。何事もなかったかのように気を取り直して、私はバッグに再び視線を移す。そしてその外観に、ではなく。その中身に思いを寄せていく。バッグの中には、あの人と駆け落ちをする為に支度した物と、完遂したが故に収納する事が叶った、大切な大切な宝物が入っている。だから此処まで遠征してきたのだし、これを忘れて退散したりなんかしちゃったら、元も子もありません。
だって、
あの人は私の宝物ですからね。
「………」頑張れ、私! 泣くな! あーもぉー、決めた事でしょ! 鏡に映る自分から目を逸らそうと、どんなに明るく装ってみても。強く振る舞ってみても、天然さんを気取ってみたとしても。これは汗だと拭ってみても。気になってしまって見てしまう。鏡に映る私が本当の私。やっぱり、私は………まだ、こんなにも泣いているんだね。
新しい生活………。
それは、駆け落ち。
「駆け落ち、かぁー」その言葉は、あの人の方から言い出してくれた事だった。提案してくれた事だった。告げてくれた事だった。だから、それを聞いた時は嬉しくて、嬉しくて嬉しくて、嬉しくて嬉しくて嬉しくってたまらなかったのになぁー。「嬉しかったんだからね、ホントに………バカ」駆け落ちをしなければならない理由。それは、既にこの人と結婚しているから。私は最初、その事を全く知らなかった。知らせてはもらえなかった。思ってもいなかった。同じ職場でも部署が違うというだけで、案外とそういう情報って耳にしないものなんですよね。指輪もしていませんでしたし。だから、知った時はショックだったけれど、もう離れられなかった。不倫という不自由な、けれど刺激的でもあったお付き合いをひっそりと続けて、もう何年になったのだろうか………なんて、考えなくても覚えている。今年でもう四年目になる。『離婚に同意してくれなくてさ。だから、もう少し待ってほしい』何度も、何度も。何回も、何回も。そう聞かされてきた。これでもかと頭を下げられてきた。だから、私は待つ事にした。我慢して、我慢して、我慢し続けた。耐えて耐えて、耐え続けた。忍んで忍んで忍び続けた。我慢し続け、耐え続け、忍び続けてきた。頭がオカシクなりそうになる事も沢山あった。だから、やっとだった。駆け落ちという形になってしまったのだけど、それでも、やっと、あの人から言い出してくれた事だったから。「やっと、かぁ………そうだね」そう、やっと。漸く。けれど、遂に。念願の、二人で紡いでいく生活、だったのに。だった筈なのに。それなのに………あ、感傷に浸っている場合ではないんだった。早く行かなきゃだよ。と、とててて。そしてすぐに、かつかつ。絨毯を敷いていないフローリング剥き出しの廊下に踏み入った瞬間、お気に入りのパンプスが床を鳴らす。土足なのは私以外の誰かとの巣を少しでも汚してやる為、じゃないですよ? ヤダなぁー。荒らしちゃいましたし、壊しちゃいましたけどね。ざまぁーみろ? ううん。それを言うなら、ざまぁーないね。だよ、ね………私の方が、さ。駅のおトイレで、何度目かのお化粧直しをしなきゃかな。と、嘆息しながら。私は滲んだ視界の真ん中にある玄関へと真っ直ぐに向かい、ハンカチを持ったままノブを掴む。
がちゃ。
り、と。ドアをゆっくり押して、外を確認。たぶん誰もいないと判断して、ぬるり。と、外の世界へと進み出る。そして、くるり。振り返りながらゆっくりとドアを閉める。その時、ちらり。視線の先にある視界に、屋内の特に奥の景観を入れ込む。あらヤダ、それだと知って見てみると、無惨に転がり果てているのが玄関からでも判るのね。あ、そうでした。私ったら、言っておかなければいけない事がありました。「土足で、ゴメンなさい」まる? こういうのって、たしか………そう、タツトリアトヲニゴサズ? とか、言うんだったかしら。どういう漢字だったかまでは、まるで思い出せやしないのだけど。意味は判っているのに、それなのに書けないだなんて、本当に日本人なんですか? って、言われちゃうかな………でも、ハーフ顔って言われる事もあるし、どんまい! 兎にも角にも、それでも、これでも、一応は日本人としての嗜みと言いましょうか、ワビ、サビ、ワサビ? って、ヤツでございます。これでも私、本気で大和撫子を目指しておりましたから。乙な女と書いて、乙女ですから。もう、過去形なんですけどね。だって、こんな事をする大和撫子なんて、何処を捜しても誰一人としておりませんし。あ、乙というのは甲乙丙丁の乙でしょうから、それなら甲女とか丙女とか丁女というのもあるのかしら………日本語って、難しいね。ま、どうでもイイか。兎にも角にも、です。失格の烙印をほっぺにぺったんこ、ですよ。って、まず不倫なんてしないか。これは盲点でした。どうやら私、ハナから落第だったみたい。反省しますウソですしません。「ふぅ………よし、行こうか」未だ心は高揚しているのに、身体も熱を帯びているのに、それでも感傷に近い感慨のような気持ちが、ううん。そうじゃなくて、たぶん冷めた虚無感かな。それが、その声の色を統率していました。私は今、漸くといった感じで穏やかな表情をしている。と、思いたい。つい先程まで溢れ零れ流れ続けていた涙は、その痕跡だけを残してその姿を消している。と、信じたい。事ここに至っても、めらめら。と、息巻いていた、どろどろ。の、酷く醜い激昂。それも、偽りだったかのように見る影もない。と、願いたい。実は、ドアを一枚隔てた向こうの世界と此方の世界が、私も含めて並行した別の世界でありますように。と、祈りたい。そうだとすれば、今ここにいる私は、私が知る私ではないという事になり、もしも、今ここにいる私が、本当に私の知らない私だとしたら………今度こそ大和撫子、目指してみます? なんてね、あはは。「これで、やっと二人っきり………だね」と、ぽつり。バッグの中に向けて囁く。私は私のまま、それ以上でも以下でもなく、それ以外でもない。だから、あえて暗く細い道を選びながらパンプスを鳴らし続け、待ち合わせ相手が来なかった待ち合わせの場所へと、待ち合わせ相手を連れて向かう。けれど、今日からの私は新しい私でもある。だって、今までの私とは別の道を歩むのだから。どうぞ、宜しく。「ゴメンね………だって、こうするしかなかったんだもん」リビングで転がったままでいる御二人様のうちの一人に向けて、強く。首から下のみとなってしまったあの人に対して、深く。そしてそんな事をさせてしまったあの家を出る前までの私に、大きく。お別れの言葉と心からの謝罪、それと言い訳にもならない胸の内を投げかける。すると、ふんわり。と、冷たい風が駆け抜けていった。私はおもわず目を閉じ、暫ししてからゆっくりと目を開けた。不意に、何か変わるかも。と、思ったのだけど。目を閉じた世界と再び目を開けた世界が、あまりにも似ていたものだから、変わるワケないか。と、ぽつり。それはそうだ。変わるワケがない。何を思っているんだか、私って………バカだよね。そう思ったら、なんだか自然と笑えてきた。私は今、どんな表情をしているのだろう? ちゃんと、笑えているのかな。そんな事も判らないだなんて、それこそ笑っちゃうよね、あはは。あ………今度こそ、笑えたかも。それなら十全です。
田舎町の夜って、
こんなにも暗くて静かなんだね………。
………、
………、
………、
PM19:21/藤本 美里
私はもう、どれくらいの時間をこうしているのでしょうか………びゅん。と、強い風が鳴く。それもまた、もう何度目の事になるのでしょうか。残念ながら。と、言うべきなのかな。今の私には、たぶん涼しげなそれを楽しむ、風流? そういう落ち着いた精神状態にはありません。そろそろ、気にかけてくれてもイイじゃないですかぁー。と、もしかしたら。ちっとも遊んでくれない私の気を引こうとしているのかもしれないけど、何度目かの風に何度目かの悪戯を受けている。と、そんなふうにしか思えない。「うっ、く………」その強い圧力に、私の身体はふわりと揺れ、髪の束が視界を遮る。通常であれば、きっと。危ない! と、肝を冷やすような事態に身を置いているのでしょうけど、この何度目かのそれを受けてもやっぱり私には、何の感慨も起きません。こうして、胸の高さくらいの手摺りを乗り越えたその先に立っていても、です。私は今、この場所から飛び降りてしまおうかどうかで迷っている。地上五階建ての公営住宅の屋上で、そういう精神状態の中に身も心も置いている。「あ、そっか………だからなのか」と、ぽつり。意図なく洩れ、そして零れる。たった今、私はそういう心持ちだったのかと気づいたかのように。だから私は、こうしてこんな所に立っているのか。と、今更ながらのように。なんかさ………バカみたいよね、私。「ホント、バカみたい」あはは………。すると、軽い溜め息の後で乾いた笑い声がした。それは間違いなく私によるものなのに、私自身の感情の現れなのに、それなのに何故かしら他人事のようで、だからやっぱり、私には何の感慨も浮かんでこない。「もう、どうでもイイよ、そんな事………」と、ぽつり。そうは言っても、今の私に感情の一切合切がないというワケではない。それらについて感慨が起きないというだけの事。負の感情が領地を広げようと攻めてきた事に際して、もう抗わずに降伏してしまおうか、と。そして、そのまま支配されるという事に対しても、もう諦めて屈服してしまおうか、と。呆然となって立ち尽くしているようでいて、その実そう見えるというだけの事。内部で起きている暗闇を纏う思考に対処するのが精一杯で、外部からの刺激を感受するには手が足りない。そんな感じなのかな、たぶん。故にこうして、だからこうして、今にも泣き喚きそうな私が顔を出しかけたりもする。「ひぐっ、うぐ、うっ………ひんっ」ほら、ね。でも、すぐに泣くのを堪えようとする自分がいて、そういうの私っぽいな。と、思う。泣いている姿を見られるは、恥ずかしい。と、そんな気持ちから私は、子供の頃から人前で泣くのを苦手としている。だから、いつだって我慢していた。すると、誰かに見られるかもしれないという思いから、一人の時でもそうしてしまうようになった。今の私が、そう。この場所から飛び降りようかと思っているくらいなんだから、泣いている姿をもしも誰かに見られたとしても、それがどうしたというのだろう。それなのに、さ………。「ひぐっ、う………っく」子供の頃から住んでいる、築何十年という古ぼけた公営住宅。の、屋上。ここから見える景色が、子供の頃から大好きでした。見上げれば、視線の先にある真っ暗な視界にぼんやりと輝くお月さま。下を見回せば、キャンドルライトのような広場の灯り。更に見渡してみると、そこかしこに見える部屋の明かり。それらを一緒くたにして視界に入れると、それらは一斉に朧気となって、途端に幻想的な世界を醸し出す。まるで童話の中のような、まるで御伽噺の中のような、まるで夢の中のような、まるでクレヨンで描かれた絵本の中の世界のような。そんな光景に、私は笑顔を思い出させてもらえる。その中の住人にでもなったような気がして、住人になれたような気がして、そんな気になれて、そんな思いに浸れて。だから今日まで、どうにか生きてこれました。それは、決して大袈裟な表現でも何でもなく、明日こそは。と、希望が持てたんです。「う、ひぐ、っ………ひんっ!」でも、もうダメみたいです。もう、涙が止まらない。もう、抑えられない。どれだけ溜め込んでいたのかしらというくらいに、滲み、洩れ、溢れ、流れ落ちていく。頬を濡らしながら、ぽとり。と、落下していく。勿論の事、ここからかなり見下ろした先にある地面へと。だって、私は今、誤って落ちないようにという安全の為にある柵を乗り越え、薄暗い地面を見つめているのだから。やっぱり、痛いのかな………ずっと、ずっと、頭の中の片隅に浮かんでは消してきた事。それが遂に、可能な位置に立っている。立つに至っている。立ってしまっている。立つまでになっている。これも勿論の事、なのかどうかは判らないのだけれど、今の私にはもう笑顔は作れない。つい先程の事、なんとなく聴こえた乾いた笑い声も、笑うとう範疇の隅っこに、申し訳なさ程度にお邪魔しているだけだったし。少なくとも私は、既にもう何日も心から笑えていないままでいる。目の下にあるくまも、その色の濃さをどんどん強くしているように思う。「もう、帰りたくないよぉ………」帰らなくてはならないそのリミットが、刻々と。僅かさえ止まる事なく、刹那さえ許す事なく迫っている。帰りたくなくても、時間は止まらない。止まってほしくても、止まってなんかくれない。他に行く場所なんて、私には何処にもないのに。歓迎してくれる誰かなんて、私には一人もいないのに。遅くなればなるだけ酷く、苦しく、悲しく、そして痛い思いをする事になる。恐怖の時間はよりいっそう長くなり、強くなり、色濃くなり、また何日も痕となって残ってしまうくらいに叩かれて、殴られて、蹴られて、投げられて、そして凌辱されて、罵られて、蔑まれる。毎日、毎日、毎日。ずっと、そう。ずっと、ずっと、ずっとずっと、そう。だから、きっと明日だってそうだし、その前に、今夜だってそうなるに決まっている。明後日もそうなるし、その次の日も、そのまた次の日も、ずっと、ずっと、ずっと変わらない。いつまで経っても、いつになっても変わる気配なんてないまま、そんな気配なんて一向に来ないまま、兆しなんて見えないまま、風向きの変わらないまま、ずっと私は、数々の暴力と恥辱に苛まれ続ける運命なんだ………。
どうして………?
どうして、なの?
「こんな毎日なんて、もうイヤだよぉ………もう、こんなのヤダよぉおおおー!」あとどれくらいの時間を、過去にしたらイイというの? いつになったら私は、安堵する事が叶うの? 平凡だってイイ。退屈だって構わない。何もなくたって、そんなの平気。ただただ毎日が穏やかでありさえすれば、それだけでイイ。ただ、それだけなのに。そんな日は来ないの? いつ来るというの? いつか来てくれるの? いつまで待てばイイの? どれだけ耐えればそうなれるの? どのくらい傷つけば、その日が来るの? こんな毎日、いつまで受け入れればイイのよぉ………。「もう………こんなの、ヤダよぉー」溢れ零れ流れ続けている涙が口元の傷に、ちくり。と、また染みこむ。つい先程、多大な恐怖と共につけられた真新しい傷は、その分だけ余計に痛み、そこに浮かんでくる血が、涙に濡れて微かに滲む。そして、感じる痛みは悲しみを纏い、傷口よりも心の方が大きな悲鳴をあげている。「ヤダよぉ………」身体中にある痣の一つ一つが一つになって脳を激しく揺さぶってきて、その一つ一つがそうなるに至ったシーンを思い出させる。怖くてたまらない。身体が震えてくる。芯から震えてくる。目の前が更に、歪んでいく。今この時ではないそれらなのに、恐怖で心の底から怯えている。
びゅん。
と、また風が鳴いた。「もう、ヤダよ………こんなの」もう何度目になるのだろう、ボタンが殆ど弾け飛んでしまったパジャマと、掴まれて振り回されて伸び伸びになっているシャツと、底が磨り減ったペタペタのくたびれたサンダル。そんな哀れで惨めな姿の私を、強い力で揺らす。そして、パジャマとシャツ、更には素肌を滑るようにして駆け抜けてもいった風は、また何処かへといなくなる。私に触れたあの風は、此処へ来る前、誰かに触れたのでしょうか………私に触れた後は、誰かに触れるのでしょうか………私に触れた先程のあの風は、そしてこの風は、こんな私でも覚えていてくれるのかな。「判るワケない、よね。そんなの、さ………ふえっ、ふぐっ、ひんっ!」こんな私の事を覚えておいてくれる誰かなんて、何かなんて、この世界に存在してくれているのかな。せめて一人くらいは、さ。『いないよ』すると、すぐさま。そう言って嘲笑う声が聴こえた。それは内側からなのか、それとも外側からなのか、私は辺りを見回し、そして見渡す。でも、私しかいない。だったら、内側からか。と、言う事は………やっぱり、もう私自身が期待を持てなくなっているんだね。「そう、だよね………」うん、判ったよ。だったら、もう、終わりにしよう。私自身が生きる事を諦めたのなら、私が私をヤメても誰も傷つかない。悲しんでくれる人もいないし、それこそ小さなニュースにさえならないくらいに、誰も私になんて興味がないのだから。与えてもらえるであろう筈の愛情を知る事なく、大好きになった人に愛情を注ぐ機会もないまま、ここから自分で飛び降りて、それで自分で終わらせるなんて、さ………。「何で産まれてきたのかな、私………あはは」と、ぽつり。
あ、笑えた?
久し振り、かも、だなぁー。「はは、は。ひぐ、うっ、ひん、っ………」でも、もう、頑張れそうにないよ。明日こそは。なんて、もう。どうしても思えないよ。たぶん、ううん。きっと、今度こそ。本当に、諦めちゃったのかな。今までだって、諦めていたつもりだったけど、ちっとも諦めてなんかいなかったんだよね。だって、さ………。
願ってたんだもん。
望んでたんだもん。
祈ってたんだもん。
だから、今までしがみついていたんだよね。この世界に、さ。そっか、初めて本当に諦めちゃったんだね。だったら、早く。「もう、終わりにしよう」私は、ゆっくりと目を閉じる。その世界は私の心の中と同じ、私の人生と同じ、私の運命と同じ、闇の色。「さよならだね、私………」もう、迷いはしない。だから、未練なんてない。あとは、この身体を前に傾けていくだけ。重心を前方に、前に、前に、と。預けてしまうだけ。たったそれだけ。それだけで私は、私を終える事が叶うんだ………。
さようなら、私。
うん、さよなら。
………、
………、
………、
始めの一歩、おわり
青天の霹靂へと続く
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます