Ed

 花の香りに、どこか生臭い鉄錆の匂いが混ざり鼻へと届く。

 顔にかぶせられた布を退け、本物の毛を使用し作られたのであろうブロンドのかつらをはぎ取ると、艶やかな黒色のおさげ髪が姿を見せる。


 棺の中、共に納められた白い星の形をした花の中に、埋もれるように身を横たえている侍女は、眠っているようにも見えた。


 彼女は領主の娘のものだろう品の良いドレスを身に纏い、手には腕まであるレースの手袋を嵌めている。

 そうではないかと、予想はしていた。

 ここにいるのが、領主の娘ではなく彼女ではないかと。けれどもいざ彼女の遺体を目の前にして初めて、今この瞬間に侍女の死が否定しようのない事実となり、胸を苛む。

 しばらくの間ただ茫然とその寝顔を眺めていたが、どれだけ待とうとも、瞼が開くことも、その奥にある紅の瞳が雄弁に意志を紡ぐこともなかった。

 どうするべきかの答えを見つけ出せぬまま、かといってそのまま冷たい土の下へと戻す気にもなれず殆ど引きずるように棺桶を運ぶ。

 なんとか荷台へと載せて布で覆い、星明りを標として馬車を走らせ領主の別宅までたどり着けば、既に時計の短針が天を指すのに近い時刻にもかかわらず、部屋の窓からはオレンジ色の柔らかな灯りが洩れていた。

 門の前には昼間と変わらず警備兵が立っている。

 しまったと思うも今更引き返すことはできずに、不自然でない程度に喪服へとついた砂を払い、そのまま馬車を進める。

 こちらの姿を認めた警備兵が呼んだのであろう、ドアから出てきた執事は、顔を見ると用件を聞くこともなく僕を中へと招き入れた。


 応接室へと通されてさほど待たぬうちに、領主が規則正しい足音を立てて部屋に足を踏み入れ、椅子へ腰かける。

「これからは、薬はどちらへと届ければよろしいでしょうか」

 非常識な時間の訪問を詫びた後に、そう耳打ちをすれば、彼はさほど驚いた様子もなくある南方の土地の名を口にする。

「いつから気が付いていたのかね」

 領主はゆっくりと瞬きをすると、落ちくぼんだ目でじっとこちらを見つめた。

 手が震えぬように強く拳を握り、肺の中に空気を吸い込んでから真っすぐに領主を見つめ返す。

「侍女を実家に下がらせたという話を聞いたときからです。彼女に身寄りなどないことは、あなたもご存知でしょう」

「あの娘はあまり自らの出自について話すような性格ではないと思っていたのだが、本人から聞いたのかね」

 頷けば、領主は手を膝の上で組みながら、そうか、とだけ答えた。

「ご令嬢の部屋から、彼女が大切にしていた本……いくつか私物が無くなっていました」

「共に棺桶に入れたとは考えなかったのかね」

「本だけならばともかく、墓の下まで薬を持っていく理由などないでしょう」

 前回薬を届けたのはおよそ二週間前、領主の娘が体調を崩した日だ。

 不測の事態があっても大丈夫なようにいつも余裕をもってお渡ししているため、まだ無くなるはずがない。

「あの日、例の男はあなたの娘ではなく、間違えて侍女を殺した。そうですね?」

 二人の人物が姿を消して、命を落としたと思われた方が生きている。

 ならばあの死体は、残りの一人と考えるしかない。

 顔を切りつけられたという話も、遺体の顔を見せないための虚言だろう。

 医者も、他の使用人たちも全員が共犯者だ。

「このことを、誰かに話すつもりはありません。ただ、」

 なぜ、と口にすれば、領主は首を横に振る。

「それは、難しい問いだ」

 なぜ、彼女が死ぬようなことになったのか。

 なぜ、彼女は領主の娘として葬られたのか。

 なぜ、なぜ、なぜ。その言葉が、ひたすらに胸の内を掻き毟る。

「あの男から娘を庇った際に侍女が負った怪我は、到底助かるものではなかった。私が知らせを受けてここに着いたときには、侍女は既に死の淵にいた。何か言い残すことはあるかと聞くと、彼女は私の娘の幸せを願った」

 低く、淡々とした領主の声に、俯きながらも耳を傾ける。

 目を瞑れば、瞼の裏側に広場の中央で動かなくなった我が子を抱えながら、蹲り涙を流していたあの父親の姿が浮かんだ。

 この男が、侍女を殺した。そう考えても、恨むような気持ちが沸き上がることもなく、ただ虚しさだけが身体に広がる。

 領主があのような指示を出さなければ、僕が薬を人数分用意できていれば、あるいは病そのものがなければ、こんなことにはならなかったのだろうか。

 意味のない仮定だけが、頭の中で繰り返される。

「君の遺体を使ってもいいかと問えば、侍女は『喜んで』と答えた。だから、私が指示を出した」

「……ご令嬢を、この街から逃がすためにですか」

「これを逃せば、もう二度とこのようなチャンスが巡ってくることはなかったろう」

 空気の汚れた街から、そして意に添わぬ婚約から娘を逃す。

 侍女を代わり身にしたその計画を聞かされた領主の娘は、どんな心境であったろう。

「本当に、このような方法しか、なかったのですか」

 震える声で、喉奥からそう吐きだす。

「一人の娘の父親として、ご令嬢の婚約を破棄するわけにはいきませんでしたか。侍女を侍女として、葬ることは、出来なかったのですか」

 領主はしばらくの間無言でいたが、不意に立ち上がると、大窓へと近づきその向こうへと続く夜の闇を眺める。

「忌々しい街だ。だが、私はこの土地を託され、父親であることよりも領主としての立場を選んだ。領地は以前よりも豊かになったが、それに比例するように娘は弱っていく。最善であったとは言わない。だが、なるべく選んできたつもりだというのに、私はどこで間違えたのか、それともこの道で正しかったのかと、問うべき相手も既にいない」

 領主は応接室の机の端に飾られた、星の形をした小さな白い花を見てから小さく息を漏らし、視線を手元へと向けた。

 冷たい鉄のような表情が変わることはないが、その仕草には海の底に沈むような感情が滲み出ている。

 その光景に、この目の前の男も血の通う一人の人間であったのだということを、唐突に思い出した。

「今更、父親面をする資格などない。侍女が言う娘の幸せというものが、私にはどのようなものであるかは分からない。しかし、この土地であの商会会長の息子に嫁ぐことが、そうでないことは明白だ。少なくともここから離れれば、二度とこのようなことに巻き込まれることもないだろう」


 深々と頭を下げた執事に見送られて屋敷を出た後、街から離れた丘の上に充分な大きさの穴を掘り終えた頃には、既に空の果てが薄っすらと白み始めていた。

 何度かその表面の木の感触を確かめ深呼吸をしてから、重く怠い腕で棺の蓋を開く。

 相も変わらず、侍女は深い眠りに落ちているように見えた。

 これまで一度も触れたことなどなかった頬に手を伸ばせば、その肌は大理石のように冷ややかで、固い。これが今の彼女の温度なのだと、胸に刻む。

 ポケットの中をまさぐり、小箱を取り出す。蓋を開ければその中に収められていた、紅い宝石に銀のチェーンがついたネックレスが、夜明けの光を反射して輝いた。

 ガーネット――彼女と同じ名前を冠したその宝石は、別名を柘榴石とも言う。

 彼女の瞳とよく似たその色に一目で心を奪われ、いつか渡せればと思っていたのに、ついぞ今この時までその機会が訪れることはなかった。

 もし、侍女にこれを渡していたならば、少しは喜んでくれたのだろうか。

 それとも、いつものように軽薄だ現金だなんだと、呆れてみせたのだろうか。

 その顔も、もう見ることは叶わない。

 花束や他の贈り物と同様に、それが侍女宛てだということすら気が付いてもらえないまま、領主の娘の元へと運ばれることは流石にないだろう、と思いたいが。


 侍女の手からレースの手袋をそっと外し、あかぎれのある冷たい侍女の手を掬い上げる。

 領主の娘の手の様な、傷一つない陶器のような滑らかさはない。

 しかし、誰かのために尽くした、美しい手だ。

 その内側に、ネックレスを握らせる。

 せめて、彼女は彼女として葬られるべきだという自分の考えは傲慢なのだろう。

 彼女は、誰よりも領主の娘のことを慈しみ、彼女の幸せを望んでいた。

 もしかすると領主の娘として、土の下でそのまま朽ちる方が良かったのかもしれない。

 その答えは侍女の胸の内にしかなく、どれだけ待とうとも、侍女が口を開くことはない以上もう永遠にそれを知る術はない。

 死とはそういうものだと、今更理解をしたところで何になるというのか。

 残された者にできることは、せいぜいその心を想像しては、そうであればいいと己の願望を重ねることだけだ。

 誰もかれもが、聞こえぬはずの死者の言葉に踊り、勝手に背負い生きている。


 棺桶の蓋を閉める。

 朝焼けが横から照らし、辺りを赤く染め上げる。

 その赤は、流行り病に罹った人々の遺体を街の外で焼いた炎の色にも、侍女の瞳の色にも似ている。

 しかし、それも長くは続かない。

 地平線を燃やしていた太陽が昇るにつれ、空は青く透き通る。

 その様を、雄弁な彼女の眼差しを思い出しながら眺めていた。


 何にせよ、まずは領主の娘に会いに行こう。

 こんなことがあった後だ、体調を崩されてなければいいのだが。場合によっては新しい薬を手に入れて、届けなければならない。

 領主が口にした南方の土地は山岳地帯であり、ここからでは馬車でも二日はかかる。

 これからは定期的にそちらへと足を運ぶことになるのだから、商品の流通ルートも見直す必要が出てくるだろう。

 流行り病の一件にしても、収束すればそれで仕事が終わるわけではない。

 また何時このような事が起こるとも限らないのだ、父と共に今後の対策の協議に、空となった在庫の仕入れにと、やることはいくらでもある。

 奥歯を痛いほどに噛みしめながら、シャベルを動かす度に、棺桶が土で見えなくなる。

 朝の陽ざしに視界が滲み、袖で目元の汗を拭いとる。

 侍女の死が覆ることはなく、仮定を繰り返すことにも後悔を積み重ねることにも、意味はない。だが、彼女の死そのものを意味のないものには、したくなかった。

 

 成すべきことを、為さねばならない。

 何時か聞いた、領主の娘の幸せを願う、彼女の声。

 その祈るような響きが、今もなお耳の奥にこびり付いている。

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死者とダンス 字書きHEAVEN @tyrkgkbb

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