「薬は全て私が買い上げた」

 領主が広場の全員に聞こえるようにそう宣言をすると、ざわめいていた周囲が突然この世から音が消えてしまったかのように一瞬静まりかえってから、再び囁き声が徐々に大きくなる。

「これより患者を進行度によって分け、軽度の患者にのみ薬を使用する」

「そんな、重症の患者は見捨てるってのかい!?」

 領主を取り囲んでいる群衆の中から上がった悲鳴のようなその声の方向に視線を向ける。

「限りある薬を有効に使い、一人でも多くを救うのが私の義務だ」

 皆が口々に好き勝手な意見を投げつけ始める。

 それが最善であることは、ひとたび冷静にさえなれば誰もが理解できるはずだ。

 だが、それを受け入れ、納得できるかどうかはまた別の問題でもある。

 その中で、警備兵の足元を潜り抜けて、一人の男が領主の胸倉を掴んだ。

「いくら払えばいい。いくら払えば、娘に薬を使わせてくれるんだ」

 領主は何の感情も読み取ることのできない瞳で男を見つめ、首を振る。

 それでもその父親は必死に領主の胸に縋りつき薬をくれないかと頼み続ける。

 それはじきに聞くに耐えない口汚い罵倒へと変わり、あらん限りの言葉を尽くして領主の人格を否定した父親は、やがて地面に頭を擦り付けて涙を流しながら懇願した。

「お願いだいくらでも払う」「なんでもする」「娘を、娘を助けてくれ」「俺の命で済むなら今ここで殺されたっていい」「たった一人の娘なんだ」「あんたも人の親なら分かるだろう」「どうかお願いだ、お願いします」

 領主は隣で泣き崩れている母親が抱えている子供をちらと見てから、首を横に振った。

「黄斑がここまで広まってしまっていては、助かる見込みはないだろう」

「嘘だ! 薬さえあれば、薬さえあれば娘は!」

 薬を売ってくれと、顔面をぐしゃぐしゃにしながら父親は身体を震わしている。

「君に口出しをする権利などない。なぜなら、これは全て私が買った薬だ。どう使うかは、私が決める」

 氷のような声でそう領主は宣言をすると、周囲のざわめきは怒声へと変わるも、領主はそれを意に介することなく、医者や兵たちの指揮をとり始めた。

 足元でうずくまっていた父親は言語化することのできない叫び声をあげ領主へと掴みかかったが、すぐに警備兵に押さえ込まれる。

 数メートル先の広場の中央には集められた感染者が続々と運び込まれ、地面へと敷かれた布の上に横たえられていく。

 脳の芯が痺れているような心地がした。

 幾多もの怒鳴り声が、水の中にいるかのように遠く聞こえる。

 何をすることもできず、ただその様子を眺め立ち尽くす。いったい何人、と途中からは数えることをやめた。

 分かることは、自分が手に入れることができた薬の量では到底足らず、ここにいる全員にはいきわたるはずもないということだけだ。


「随分と、酷い顔をしていますね」

「ああ……お久しぶりです」

 果たしていま自分はどんな顔をしているだろうか。

 自分の頬にぼんやりと手を当てながら、広場の中央に積み重なるように置かれた、小さな星型の白い花を見る。

 この地方では死者を弔うために捧げられる定番の花であり、それと同じものを侍女も腕に抱えていた。

「本当に、お会いするのは久しぶりですね。ここ最近は……そっちに顔を出すどころではなかったですから」

 その花はお嬢様ですからですか、と聞くと侍女は頷く。

 真っすぐな視線に耐えきれず、顔を地面へと向ける。

 彼女の足は自分のものよりも一回り小さい。

 その足が広間の中央から戻ってきた時には、彼女の腕の中から花束は姿を消していた。

 侍女は自分と同じように噴水の淵に腰かけると、広場の中央を、何を話すでもなく眺める。

 伝染病の流行は瞬く間の出来事であったが、いざ本腰を入れて対策が為されればその収束もあっけないものであった。だが、その瞬く間に多くの命が奪われ、街には大きな傷跡が残された。

 夏の終わりの晴れやかな空の下、果たしてどれだけの人間が、墓に入ることも許されずに街の外で火葬されただろう。領主やその周囲の人間であればその人数も把握しているだろうが、聞く勇気など到底ない。

「知ってたんですよ、この病が流行っているのを」

 唇から零れた言葉に、侍女は何の反応も返さなかった。

「初めにその話を聞いたときに、僕はなんて考えたと思います? 嗜好品や貴金属類の値段が下がるだろうから、今が買い時だと頭の中で算段を立てていたんですよ」

 組んでいた手の甲に爪を立てる。十数日前のこの広場の惨状をまるで感じさせない、うっとうしいほどの花の匂いが、風に乗ってこちらへと運ばれてくる。

「遠方の流行り病など、大したことはないだろうと高を括って、報告をするのが遅れました。父も領主様も、その話を知った途端に動き出したというのに、僕は実際に人が死ぬまで、これがどれだけ大変なことか、間抜けにも気が付いてなかったんです。父に言われて、隠れて稼いでいた分も合わせて金をかき集めて走り回りましたが、既にその時には遅すぎました。いくら金を積んだって、どこもこれ以上の薬を売ってはくれなかった」

 もし立場が逆であったなら、いざという時を考えて自分も薬を抱え込んだに違いない。

 いくら金を持っていようとも、死んでは元も子もないのだから、彼らの判断は当然だ。

 全ては、自分の見込みの甘さが招いたことであり、この広場の白い花の山がその結果だ。

 楽しくともなんともないというのに、不思議と喉からは乾いた笑いが洩れた。

 もしあの場で、領主が「薬は軽度の患者にのみ使用する」と宣言しなければ、果たしてどうなっていただろう。

 領民の不安と恐怖と、薬が足らないことへの怒りの矛先が向かうのは、医者か、それとも我々薬商か。

 こんなことを言っても気休めにしかなりませんが、と侍女は息を深く吐く。

「これは別に、あなたのせいではありませんよ」

「そう、でしょうか」

「あなたの買い付けた薬のおかげで助かった人も大勢います」

「ですがもっと早くに動けていれば、薬がもっと手に入っていれば」

「どうでしょう。病が進行すればするほど治癒の確率は低くなりますから、さほど変わらないような気もします」

 どちらにせよ、いくら考えたところで死んだ人が生き返るわけではありませんので、と侍女は立ち上がるとロングスカートの裾を何度か払う。

「あなたは、あなたの成すべきことをするべきでは」

「成すべきこと、ですか」

 それって何なんですかね、と聞けば、侍女は、さあ、とさほど興味のなさそうに答える。

「それは、あなたが決めることですので。とりあえずは、今出来ることをしたらどうですか。少なくとも、このままここに座り続けているよりはよっぽど建設的です」

 薬商というものは忙しいのでしょう、と侍女は微笑むように赤い目を細めた。

「あなたの持ってきたあの新しい飲み薬ですけど、前のものよりも飲みやすくてよく効くと、お嬢様は喜んでいらっしゃいましたよ」

 では、と侍女はお辞儀をして歩き出した。

 ポケットの中に手を入れれば、その中には小さな小箱の感触がある。

 それを確かめながら、遠くなる侍女の背中をじっと見送った。

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