①
「いいか、領主様はここで商売をやる上での要だからな。ついでに一番の上客でもあんだ、頼むから粗相だけはしてくれるなよ」
分かってますよ父さん、と何度も念押しをする父をあしらいながら馬車から降り、その屋敷を門扉の前から眺める。
木々の間から零れる陽の光は既に夏の気配を感じさせ、じんわりと皮膚に汗を滲ませた。
たかが五年、と思っていたのだが、その五年の間に随分と街は様変わりしていた。
金回りがいいのか、新しくできた建物や商店を眺めながら、最近舗装されたばかりらしく馬車を走らせやすい大通りを抜ける。
横道へと入り、街の外れまで進んで辿り着いた屋敷は、この規模の土地を持つ領主のものとしては些か小さい、というのが率直な第一印象だった。
聞けばこちらはあくまでも別宅であり、街の中心部にもう一つ執務に使用している邸宅があるのだという。
手入れは行き届いているようだが、王都に立ち並んでいた貴族の邸宅に比べれば随分と質素な印象を受ける。
このような街の外れでは夜盗の存在も警戒していないのか、警備兵の姿も見当たらない。
扉から出てきた黒服に灰の髪をした初老の男性は父の姿を認めると、すぐに恭しくお辞儀をした。
執事だというその穏やかな笑みを浮かべた男性に連れられ、応接室へと通される。
仕立てたばかりの服の裾を弄りながら、ぼんやりと部屋の調度品や、棚の上に飾られた小さな白い星型の花を眺めていると、そう待たずに領主はやってきた。
父はすぐさま椅子から立ち上がり、深々と頭を下げる。
「こちらはつい先日王都より戻って参りました、我が愚息でございます」
ちらり、と父が頭を下げたままこちらを見た。
「ロイス、と申します。今後は父の代わりに私がお伺いすることもあるかと思います。まだ若輩者ではありますが、何卒よろしくお願いいたします」
人当たりの良い声と表情を作り、隣の父に倣い低く頭を下げる。
一、二、三、と心の中で数えてから顔をあげると、領主は手を組み、固い響きでよろしく頼むと口にした。
「王都へは薬学の勉強へと赴いたと聞いているが」
「はい、叔父が王都におりまして、その元で修業を。他の薬商とも伝手が出来まして、この地方ではなかなか手に入りにくい品物も融通できるようになるかと思います」
年の頃は父と同じ程であるようだが、眉間には随分と深く消えることのない皺が刻まれている。
にこりともしないその様子に何か機嫌を損ねたかと不安に駆られたが、どうやらそういうわけではなく、それが生来の領主の表情であるようだ。
流行りに左右されぬどこか堅苦しい装いは屋敷と同じく華美さはないものの、品の良さが滲み出ておりこちらの背筋も伸びる。
落ちくぼんだ瞳は、好意も嫌悪も含むことなくただ淡々とこちらを観察している。
「近頃西方では、頭痛によく効く薬が出回っているという噂を聞いたのだが」
「父がお渡ししている薬の別名となります。糖によって包まれており飲みやすくはなっておりますが、効能にさしたる違いはございません」
領主は、手を組み直すと、続けていくつか他の薬名を挙げて説明を求めた。
口を出したいのをぐっとこらえている様子の父を他所に、その全てについて何とか答えを捻りだす。
よろしければ、次に伺う時に実物をお持ちいたしましょうと付け加えれば、領主は目を細めた。
「なるほど、若いが既に立派な薬師であり商人であるらしい」
再び、深々と首を垂れる。少なくとも、及第点は貰えたようだ。
そのまま父と領主は仕事の話を始める。
この街に卸している薬の種類と量とその配分について、関税について、街の薬屋での商品の売れ筋から予想される病とその対策について、仕入れの際に手に入れた他の領地の情報について。
専らそれを語るのは父の役割であり、領主はそれを彫刻のように動かぬまま静かに聞いていたが、時折そうしなければ不自然であると思い出したかのように瞬きをしては、重要な点についてだけ質問をした。
「お前、お嬢様にもご挨拶を差し上げてこい」
よろしいですか、と一通りの議題を話し終えた父は、人の背中を思いっきり叩きながら領主の顔色をうかがう。
「娘の部屋は二階だ。年も近いし、何よりこれから君の世話になる」
領主は先ほどの執事を呼びつけると、案内を申し付けた。
父と領主の会話を忘れないように脳内で反芻しながら廊下を歩く。
ただ薬を仕入れて卸すだけが仕事ならば、わざわざ領主直々に、それも別宅で会ったりなどするまい。いずれはこれも、自身の役割となる。
執事が赤い扉を引くと、ふわりとラベンダーの香りが広まった。
その中に僅かだが癖のある鼻につく臭いが混じりこんでおり、父が卸している薬の中には東方からの薬草類もあったことを思い出す。
大きな窓から入り込む初夏の熱気を孕んだ日差しが、レースのカーテン越しに柔らかにベッドへと差し込んでいる。
生活感を感じさせぬ白いシーツの上に、同じく乳白色の服を着た少女が腰を掛けていた。
真っ先に目を奪われたのは、陽の光を柔らかに反射する緩やかに波打ったブロンドの長い髪。
齢はおよそ十五、六だろうか。
透き通るように青白い肌に、蒼い瞳が長いまつげに縁どられている。
腕は細く、不用意に力を込めて握ればそのまま折れてしまいそうだ。
自然と、息を潜めなければならないと思わされるほどの、美しい少女だった。
もう少し頬の血色さえよければ、彼女こそが誤って空から落ちてきた神の使いだと紹介しても誰も疑わぬに違いない。
少女はその麗しい髪を、隣に立つ黒いおさげ髪の侍女に梳かしてもらっていたようだが、こちらの姿を見て「どなたでしょうか」と首を傾げる。
お茶を、という執事の声に、侍女はベッドの上の少女とは対照的な紅の目を伏せ一礼し、てきぱきと動き始める。
「これはこれは、噂にたがわぬ美しさに思わず見とれてしまいました。突然お邪魔して申し訳ございません。ロイスと申します。以後お見知りおきを」
領主の娘の線の細い手を取り、ベッドの横に跪きながらも頭を垂れる。
彼女はその蒼い目を一度大きくしたが、すぐにくすと笑い声を漏らしては破顔した。己の身分と、これからこの屋敷にも仕事で出入りさせてもらうことを伝えると、彼女は鈴のような、しかしどこか泣き叫んだ後のように掠れた声で答える。
「では、これからは貴方にお世話になるのですね。私、あまりこの屋敷からは出られなくって。外の話を聞かせていただけると嬉しいわ」
「ええ、喜んで」
カタン、と硬質なもの同士がぶつかる音が小さく響く。
そちらを見やると、ティーセットを机に用意し終えた侍女のどこか非難がましい光をたたえた紅い瞳と、視線がぶつかった。
鉄面皮の領主とは違い、娘の方はころころと表情を変えながら話を聞いてくれるので、その絵画のような造形も相まって見ていて飽きることがない。
特に王都での話は彼女のお気に召したようで、時折咳を挟みながらも領主の娘は蒼い目を輝かせて質問を重ねた。
話し相手に飢えているのか、こちらが帰る時間となっても彼女はまだまだ聞き足りぬようで、別れ際には是非またいらしてくださいと名残惜しそうに口にした。
歓談の間も絶えることなく注がれていた胡乱気な眼差しは、領主の娘の部屋を出てからもついてくる。
黒いロングスカートに白い前掛けをした侍女は扉を閉めると一歩前へと進み、玄関までご案内いたしますと一礼をして歩き始めた。
澄ました表情で平然を装っているが、残念ながらその目は余りにも雄弁すぎる。
つまりは、こちらへの不信感が駄々洩れだ。
廊下に反響する足音を聞きながら、前を歩く侍女の揺れるおさげを目で追う。
「男の方はお嬢様とお話になると大抵先ほどの貴方と同じような顔をなさいますが、お嬢様は誰にでもお優しいだけなのでゆめゆめ勘違いなさらぬよう」
「はは、これは随分と手厳しいですね」
大袈裟に頭を掻いてみせるも、侍女は一瞥だけしてすぐに興味を失ったように前へと向き直る。
「そもそもお嬢様には婚約者がいらっしゃいます」
「存じております。例の商会会長のドラ息子でしょう?」
では軽々しく手を取るような真似は今後控えてください、と彼女は冬場の霜柱を思い出させるような冷たい声で答えた。
「新しい薬師様がいらっしゃるとお伺いしていましたが、随分とお若いようで驚きました」
それを言うならば君もさほど変わらないだろうという言葉を飲み込み、薬師ではなく薬商ですよと訂正をする。
「まあ、薬の調合もできなくはないですけど……このような若造では不安ですか?」
「そういうわけではありませんが、」
侍女は廊下の大窓から差し込む日差しへと視線を揺らし、言葉尻を濁す。
「ご安心を。お嬢様の容態はかかりつけ医の方から聞いていますし、父からも引継ぎを受けています」
お任せくださいと真剣に口にすれば、侍女は相も変わらず不審げではあったものの、ひとつ、ため息をついてから声色を和らげた。
「いえ、そうですね、申し訳ございません。お嬢様の口に入るものですから、どうやら私も神経質になっていたようです」
失礼いたしました、と彼女は手をきっちりと前で揃えて頭を下げる。
「随分と、お嬢様のことを大切になさっているんですね」
ええ、と短く彼女は答えると、ふと表情を緩ませる。
笑みこそ浮かべないものの、伏せたその眼差しは温かく、柘榴のような紅い瞳が星の様に瞬いた。
見送りは辞退し、侍女と玄関で別れる。
既に父は馬車と共に屋敷を後にしており、帰りは徒歩かと内心げんなりしながら、木漏れ日がまだら模様を作っている地面へと足を踏み出す。
屋敷の方を振り返れば、翻った黒のロングスカートの裾が扉の中へ入っていくのが見えた。
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