第9話 勉強会

 そして、夜ノ森亭。一軒家で二階建ての1DK(ドンキーコングの略ではない)である。

 ここは元より風浪の一族、夜獣が薄宵市を拠点としていたので幼い頃より所持していた物件なのだ。

 蟲毒ゲームで主従関係となったライラも同じ場所で住んでいる。

 なので、家のドアをガチャリと開けると柔らかな声が聞こえてくるのだ。


「おかえりなさいませ~……あるぇ?」


 ドアの向こうには、私服に身を包んだ生活感のある女性の姿があった。

 黒褐色の肌に、吸い込まれそうなほど眉の大きく吊り上がった瞳。そして、Tシャツ姿なのにも関わらず、煩悩も悩殺してしまいそうなほど見た目麗しきボディ。

 ——それはライラだった。今日は人の姿で過ごしていたようだ。


「あら~? 今日は刹那サマもお帰りになられたのですね、今日はお持ち帰りでございましょうか?」

「刹那には勉強を教えて貰う為に来てもらったんだ」


 その陽気で早口な声に、風浪は冷めた口調で答える。

 しかし、彼女はニタリと表情を緩めて、意味深げに尋ねてくるのだ。


「……ほう、勉強とはどのような。私、俗世には疎いモノでして、下肢をシーツに突っ張り背筋を反り返らせたり、喉から鋭い悲鳴をあげさせるような事ではな——」

「ふ つ う の 勉 強 だ」


 人をからかうような出迎えに、風浪いつも以上に怒気を込めた返事をした。

 若い男女二人にエグい冗談をぶっこんできたので、当然の反応である。


「ていうか、今日は帰ってたんだな」

「今日は家にいないと落ち着かない日でして……女の子の日でしょうかね?」

「反応に困るから、元気のない声で生々しい事を言うな。頼むから」


 風浪は、怒ってるのか、泣きそうになっているのか分からない感情になってくる。

 ちなみに、今のライラは人の姿をだが、猫の姿の時は『よく家に入ってくる野良猫だ』と説明している。彼女の所在を誤魔化さなきゃマズい人間は、周りには特にいないのだが、念の為にそういう事にしている。


 そして、そんなやり取りを見ていた刹那は、どこか居心地の悪そうな挨拶をした。


「お、邪魔します……お久しぶりですライラさん」


 そわそわと、動作がぎこちない刹那。まるで借りてきた猫のように、制服の裾を両手で握ったり離したりを繰り返している。

 恐らく、風浪とライラの間に入るのが気まずかったのだろう。

 いつも見慣れている光景であるハズだが、刹那は毎回こうなるようだ。


「お久しぶりねぇ~そんなに硬くならなくても良いのよ? ささ、第二のご自宅だと思って堂々と上がってくださいまし」


 それは風浪も同意見なようだ。

 だが、ライラは眼の奥をキラリと光らせ、クスクスと微笑んでいる。

 友好と悪戯心の入り混じったような態度で、彼女は二人を部屋へと誘導した。


 ◆◆◆◆


 玄関口から階段を上がった先にある風浪の部屋へと案内する。

 そこは質素で、教科書や参考書の入った棚に、勉強する為の大きなテーブル、そして三つ折りに畳まれた布団ぐらいしかない。壁にはポスター類はなく、時計が一つ取り付けられている程度。

 そんな簡素に完結した部屋を見るなり、刹那が口にした。


「相変わらず、変わってないね」

「まぁ、物が多いのは嫌いだからな」


 刹那はそれを風浪の性格だと思ってくれているのだが、もしもの襲撃に備えるとなると、身動きの取りやすい部屋である方がいいというのが本当の所。

 彼女は何もない部屋をぐるりと歩き、どこか懐かしげに眺めていると、本棚にあった一冊の本を手に取った。パラパラ……とめくると、その中から何かを取り出す。


「……これ、私が貸した小説だよね」


 お互いに同じ本を所有している事は稀にあるだろう。だが、彼女が手に持っているのは、独特なデザインの栞。それが判断材料となり、借りパクに気付かれてしまったのだ。

 もはや、釈明の余地がない。


「あ、そう……だったかな。ははは……いやぁ、刹那さんは勘が鋭い!」


 睨む刹那を宥めながら、風浪は褒めながら思い出す。

 確か、去年くらいだろうか。確かその小説がドラマ化し、ミーハーと化した彼女が「すごく良いから!」と言って強引に迫ってきたのだ。

 押しに負けてしまった風浪は小説を受け取り、読んだ後、棚にしまいこんだままずっと保管していた。


 事あるごとに棚を見て、返さなきゃな……と思う事はあった。けれど、どうせすぐ返せる、とクズまがいの思考が勝り、風浪は返すのを忘れてしまっていた。

 思い出したと同時に、申し訳なさも出てくるわけで。


「……悪い、刹那」


 謝罪の二文字しかなかった。


「はぁ……忘れてた私も悪いから、いいよ」


 刹那は、呆れながらも許してくれた。

 なんと心の綺麗な人間なのだろう。やはり、今の関係が保たれるのは彼女の懐の大きさに違いない。神様、仏様、刹那様……と両掌を擦る思いで、風浪は座布団を用意した。

 そして、彼女はカバンを漁り、ドンッと力強く教科書をテーブルに置いた。


「……じゃあ、殺す気で勉強教える」


 ミシリと机から音がした。

 まるで、彼女の怒りを裏付けるかのように……。


「ってやっぱり怒ってんじゃねえか! なんだそのあたかも許してあげたけど、当然報復はまだですよと言わんばかりの澄ました顔は、さっきまでの安心感返せ!」

「ごちゃごちゃうるさいわね、アンタただでさえ成績が崖っぷちなんだから、勉強教えて貰えるだけ感謝してよねっ!」


 ◆◆◆◆


「風浪ってさ、やれば出来るタイプだよね」


 風浪が解いた問題を、刹那が確認すると告げた。


「そうか、それは嬉しいが褒めても何も出ないぞ?」


 風浪は今日課されたノルマであるテストを解いていた。

 彼女の教え方は丁寧で、基礎から抜けていた風浪に細かい所にまで要点を掘り下げて説明し、ようやく解けるといった具合になったのだが。


「私なにも企んでないし、皮肉のつもりで言ったんだけどね」


 風浪の態度を見かねて、刹那は肩を落としてしまった。

 そんな彼女を、彼は称賛の声で宥める。


「いやいや、刹那の教え方が上手いからだろ」

「そんな事ない。基礎が出来ていたとしても、この問題を解けた人ってクラスにあんまりいなかったよ。先生もこの問題にかなり時間かけて授業中に説明してたし」

「へー、そうなんだ。それはご苦労な事だな」


 褒められるのは慣れていないので、風浪は刹那の話をさっさと流そうと目論んだ。

 しかし、彼女からやや反感を買ったのか、ジト目でこちらを睨みつけられる。ただ、それもやはり可愛いなと言った具合で。


「……なに人の顔を見て笑ってるのよ」

「い、いやいや、褒められたのが嬉しくってつい」


 思わず素の言葉が出てしまう風浪。

 すると、刹那は溜め息をついた。


「はぁ……もう最初から出来るならどうして普段からしっかりしないのよ」

「悪いな、風浪はどうもやりたい事しか出来ない身体つきで……」

「あぁもう、なんていうかこう……」


 そんな悪態をついていると、刹那は何か言いづらそうな顔をしている。

 しかし、決意は固まったのか、それをぐっと堪えて風浪の目をジッと見つめてきた。


「……それが、夜の徘徊?」


 本日二度目の質問、少し予想外だった。

 風浪は戸惑いつつも、誤魔化しにかかる。


「あーそうだよ、夜に出歩くくらい良いだろ。夜風はとても気持ちいいんだ」

「ふぅーん、認めるんだ。だったら私も付いていってもいい?」

「ダメだ、最近物騒な事件が多いだろ。家にいるんだ」


 期待通りの返事がないせいか、刹那は煩わしそうな表情を見せる。


「風浪がいるからいいじゃない、私を守ってくれるんでしょう?」


 風浪は顔を伏せて口をつぐむ。刹那へ、答える気はないという意思表示を見せた。

 しかし、よっぽど早く答えを知りたいのか、刹那は話題に踏み込んでくる。


「ねぇ、だからなんで夜に出歩いてるの? なにかやましい事でもあるの?」


 いつもの刹那らしくない、同じ事を何度も尋ねてくる。

 風浪はそれに腹が立つものの、声のトーンを上げずに強く言った。


「しつこい、一人で歩きたいんだ。大体、風浪がいつもクラスでも一人でいる事が多いの知ってるだろ? ていうか、刹那はいつも大げ——」

「そ、そんなの——!」


 突如、刹那の大声を遮られた。その声に驚いた風浪は、彼女の方を向く。

 そこには、わなわなと身体を震わせ、じんわりと目に水分を含ませた少女の姿があった。


「——風浪は、昔はそんなんじゃなかったよ……!」


 その言葉に、改めて刹那の人柄について思い出す。

 彼女は世話好きだが、心配性でもある。故に過保護になっていて……それとも、別の感情かは分からないが、自分でもどうする事の出来ない気持ちが目を通して伝わってきた。


「(そろそろ、ちゃんと話す時なのだろうか……)」


 刹那の目尻には力が入っており、瞳を潤ませている。

 風浪は今すぐに気の利いた言葉で、刹那を宥めてやりたい気分だ。

 多分、聡明の刹那の事だから、この内容に触れたくてわざと話題を誘導してきたのかもしれない。ずっと気になっていた……だから今もなお、彼女は言い続けるのだ。


「だって、今日だって——」


 これも全て、風浪が曖昧な態度を取ってきたせいだ。

 彼は水無瀬に隠し事をされて嫌だった。同じように、刹那の気持ちにも気付いてやる事だって出来たハズなのに、どうして自分は……と、胸が締め付けられた。


「……ごめん」


 風浪が発したのは、たった一言の謝罪。

 刹那の気持ちを察する事は出来たし、もっと気遣ってやりたい。

 けれど、気持ちが追い付かず、良い言葉が浮かばなかった。

 ただ、風浪は立場上、彼女に理由を告げる事が出来ないのだ。


 そんな刹那は我に還り、慌てて取り繕い始めた。


「わ、私もごめん。つい感情的になっちゃったっていうか……」

「謝らないでくれ、お前に謝られたら俺はどうしたらいいか、分からなくなる」


 風浪たちは目を反らすかのように、テキストへ向かい合ってしまった。時計の針がカチカチと鳴り、妙に心を昂らせてくる。そんな中


「ぬふ、ぬふふふふふふふふ……」


 と、後ろからぬぅっと影が忍び寄ってきた。身体は極めて柔軟で、足音も、体臭も少ない為に、勝手に部屋の中に忍び込まれても気付かない存在。それはまるで猫のよう——


「おわぁっ⁉」「ひゃっ‼」


 ——それはライラだった。

 口角を吊り上げ、気味の悪い笑い方で出現してきたのだ。


「青春ですねぇ、アオハルですねえ……わたくしもそのような事がありましたわ。もちろん、話の内容までは聞くに至れませんでした。が、差し支えなければ先ほどのお話、お聞かせ願えないでしょうか?」

「嫌に決まってんだろ。ライラ、入ってくるならノックくらいしろ!」


 風浪が怒ると、ライラは「や~ん!」と気持ち悪い声を上げながら自身の身体を抱きしめるも、反省の色を一切見せない。


「わたくし小心者でして、何やらお取込み中の所に入る勇気がございませんの……ところで刹那サマ、本日はこちらでお食事など如何でしょう? 丁度、本日は活きの良いお魚が手に入りまして……もちろん、お母様には承諾済みでございます」


 話を変え、刹那へ丁重な態度で、晩御飯のお誘いを申し出るライラ。

 しかし、慌てた刹那は謙虚この上ない態度で返事をする。


「え、私……ですか? いやいや、もう用事は済みましたし、お気持ちだけ! あ、ありがとうございます!」


 ばつの悪そうな表情を浮かべるライラをよそ眼に、刹那はそそくさと教科書をカバンにしまいこみ、帰る準備をし始めた。

 そんな時に、ライラが「ちょっとこの者をお借りします」と言い、風浪をキッチンへと連れ出した。

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