第9話 茉優花のそばには

 突きつけられた現実にもろくも崩れ去る日常と、僕のなかの黒い影。

 愛が憎しみに変わっても、君に恋した奇跡みたいな日々は変わらない。

 思い出は輝いてる。

 過去はいくら変えたくとも変わらないから。

 茉優花まゆか以外が僕の初恋の人にはなり得ない。



 茉優花まゆかを取り戻すんだ。

 お母さんは自分の元には帰っては来なかったが、茉優花まゆかはまだ僕を好きでいてくれているかも。

 僕を捨てないで。

 未熟な子供のままの僕のトラウマは母親に捨てられたことだ。愛する母親が離れて、代わりに僕に愛をくれた茉優花をそう簡単に手放すものか。



「返せっ! 茉優花を!」

 僕は自分より屈強で背の高い男の肩を掴んで、ぐいっと後ろに倒した。

「キャアッ!」

 茉優花の叫び声がする。

 不意打ちをくらった男はそのまま地面に倒れて転がった。男はすぐに立ち上がるかと思ったのに、僕を仰ぎ見て体勢を変えた。


「すんませんでしたっ」

 ソイツは地面に額をこすりつけて土下座をした。

 男は地面の泥水で顔も服も汚れていく。何度も何度も土下座した。

「マサヒロくん!」

 茉優花が土下座する男に抱きついていた。

 僕は冷ややかな目で二人を見下ろした。被害者は僕だ。傷ついたのは僕だろう?

 なんでこの二人が可哀想に僕の目に映るんだ?


「かっ、金は返します」

 男は懐から茶色い封筒を出して来た。立ち上がり僕の手に握らせる。

「マサヒロくん」

 茉優花と男が見つめ合っている。

 二人の間になにかを感じて、僕の胸に鋭く亀裂のように痛みが走った。

「良いんだ。警察にでもなんでも言ってください」

「じゃあ、そうさせてもらうよ」

 僕はこの男さえいなくなれば、また茉優花とやり直せると思っていた。

 朝早く通りの少ない道とは言え、こんな道路の真ん中では話は進まない。とりあえず道の隅に移動した。


 どうしようかと僕が考えあぐねていると、小さな子供の声がした。

「ママー! パパー!」

 遠くからおばあさんに手を引かれた女の子が茉優花たちに手を振っている。

 僕は知っていた。

 茉優花の携帯電話の写真には男ともう一人小さな女の子が写っていたから。携帯電話の小さな四角い枠のなか家族のように仲良く笑う三人を見ていた。


「茉優花。僕のお金は何に使うつもりだった?」

「この人、事業に失敗したの。借金の返済をしないとアヤちゃんを施設に預けるしかなくなるから……」

「茉優花の子なの?」

 僕と茉優花は遠距離恋愛してた時期は三年もあったから、その時に出産してたっておかしくない。

「ううん。この人の連れ子」

 僕はアヤちゃんと言う女の子に自分のことを重ねて見た。母親が出て行った時。僕にはお父さんが残ったが、僕が茉優花とこのマサヒロとか言う男を取り上げたら、あの子は僕の倍、苦しむんじゃないだろうか。

 察するに茉優花はたぶんもう、あの子の母親同然の存在なんだろうから。


「そのお金は慰謝料だよ。茉優花」

「慰謝料?」

「慰謝料で良いだろ?

 君は僕と言う未熟な男の面倒をみなくちゃならなかったんだから。僕からの餞別せんべつみたいなもんだ」

 僕は向かってくる女の子の姿が遠いうちにきびすを返した。





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