その6

『父が欲しかったのはこの封筒だけだったんです。』


 ロートレックが亡くなったと、祖母の元にパリの知人から知らせてきたとき、生前彼がこの二通の封筒が、『マリセル』のカンバスの裏に貼りつけてあると書いてあったという。


 

彼は何でも用心のために遺言書に、次の一言をしたためて置いたそうだ。


『私の死後、如何なることがあっても、「マリセル」の裏面だけには触れてはならない』と・・・・

 

 しかし、封筒を盗んですぐに絵だけを返してしまう気にはならなかった。


 どんな人間であっても、父親は父親である。

 せめてしばらくの間身近に置いて、会ったこともない父を忍ぶよすがとしたかった。


『私のエゴの為に、随分周りの人に迷惑をかけてしまった・・・・父はそう言っていました』


 長谷川氏と父とは、昔彼が金に困っていた時、幾らか融通したことがあった。それだけの縁だという。


 俺は二杯目のコーヒーを飲み終え、黙ってその二通の封筒を懐にしまった。


『中身を確認しなくていいんですか?』


 マスターが豆をきながら俺に訊ねる。


『私の仕事は、何故あの絵が盗まれなくてはならなかったかを調べることでしてね。封筒の中身には関心がないんです』


 俺は千円札を二枚取り出し、テーブルの上に置く。


『有難うございます。ではお釣りを』


『釣りはいりません。とっといてください』


 俺はポケットに手を突っ込んだまま、店を出た、空は何時の間にか雲が広がっていた。



 数日後、二通の封筒を報告書と共に、俺は依頼人に渡した。


 中に何があったのは何か?

 残念ながらそれは言えない。

(いや、それじゃ済まない。俺達にも伝える義務がある)って?

 

 世の中には知らないでいた方が幸福な場合もあるんだがねぇ。


 それに俺は現役の探偵だぜ。

『守秘義務』って仁義も通さなきゃならないんだ。


 ええ?どうしても知りたい?

 なんてことのないラブレターが二通だよ。それだけでいいだろ?


 依頼人は、


『これですっきりしました。明日、父に報告に行きます』


 幾分晴れ晴れした口調でそう告げた。



 もうこれ以上何も言うことはあるまい。





                              終わり


*)この作品はフィクションです。登場人物、その他全ては作者の想像の産物であります。 

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マリセルの秘密 冷門 風之助  @yamato2673nippon

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