その5
彼女はロートレックのために、”その絵”のモデルとなる。
(ただし)と、一つだけ条件をつけた。
(東洋人らしいエキゾチックさを強調しないこと)
それだけを強く望み、
絵を描き始めた頃、彼は不摂生のため、身体の具合が悪くなっていた。
それでも必死で絵筆を取り、絵を描き続けた。
彼は晩年、殆どその絵を描くために神経を集中させ、そして完成した頃、彼の病状は思った以上に悪化していた。
絵は完成した。
だが彼女は側にいて看病をすることを望んだが、ロートレックの親族たちがそれを望まなかった。
ここでもやはり、
(極東から来た女)という目が立ちはだかったのである。
彼女は、ロートレックと晩年を共にすることなしに、離仏を決意、そのまま彼と別れ、船に乗った。
自分が妊娠していたことを知ったのは、貨客船の中であったという。
日本について間もなく、彼女は一人の男の子を産んだ。
それがピエール・太郎・荒巻。
即ち、マスターの荒巻俊一氏の父親である。
故郷に帰ってきたものの、日本での風当たりも心地よいものではなかった。
そりゃそうだろう。
親の反対を押し切って異国に出かけ、そこで結婚に破れ、別の男・・・・それも日本じゃ殆ど名前も知られていなかった
彼女は、意志の強い女だった。
世間一般のみならず親類縁者全てから色眼鏡で見られながらも、自活して一人息子を育て上げた。
今と違って女性が働きながら子育てをするなんて、余程の覚悟がなければできることじゃないだろう。
そして、そんな生活を始めて間もないころ、フランス時代の数少ない友人からの手紙で、ロートレックの死を知らされた・・・・。
『その手紙には、あの絵に関する秘密が書かれていた。違いますか?』
『お代わりをいかがですか?』
マスターは空になった俺のカップを見つめて言った。
俺は黙ってカップを皿ごと指で動かす。
『・・・・手紙には彼、つまりロートレックがあの絵に彼女・・・・つまり、ピエールの祖母である荒巻しずへのメッセージが込められているとあった。しかし、何せ時代が時代だ。フランスなんかにそう簡単に出かけてゆくなんて不可能に近い』
『戦争もありましたしね。おまけに父達は生きるのが精一杯でそれどころじゃあなかったんです。お判りでしょう』
しずは第二次世界大戦が終結するまで気丈に過ごした。
息子である太郎も、母を支え、日本人として生き、そして立派に成長して自立した。
彼は自分がロートレックの息子であることは薄々は知っていたものの、表だってそれを口にすることはなかった。
それを口にすることは、愛する母を傷つけることにもなるかもしれない。そう思ったのだろう・・・・
マスターは二杯目のカップを俺の前に置きながら、そう言った。
『そして、あの日が来ました』
彼の父は新聞でロートレックのマリセルが海を渡って日本にやってくるのを知った。
ここに至って彼は『自分のルーツに込められた秘密』を知りたくなった。いや、知らなければならない。そういう思いに駆られ、そして・・・・・
『あとは、貴方の推論通りです。』
彼は静かな口調で続ける。
ちょっとお待ちを、彼はそう言い、手を拭いてカウンターの後ろにあるドアを開け、戻って来た。
彼が持っていたのは、茶色くなった二通の封筒だった。
『どうぞ、お持ちになって下さい。もう私どもには必要のないものですから』
彼はひっそりとした声でそう言って、俺の前に置いた。
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