その3
『マリセル・・・・トゥールーズ・ロートレック最晩年の傑作と言われる。モデルはカフェーの女給だったとも、踊り子だったとも、または娼婦だったともいわれており、はっきりとしないが、横向きに座った女性の上半身が、実に見事に描写されている・・・・』
俺はネグラに帰ると、本棚の端にあった古い美術雑誌を開いて、ロートレックとマリセルについて調べていた。
正直言って、俺は絵だとか美術だとかについては
つい最近になるまで、油彩画と水彩画の違いすら分からなかったくらいだからな。
ま、それはともかく、この絵はいい絵だ。簡素な服装と髪型の女性を、背景に殆ど何も描かずに、浮きだたせるように描き出している。
ロートレックが浮世絵(特に写楽の大首絵)に影響を受けていたというのも、まんざら分らないでもない。それかあらぬか、どことなくモデルの女性に、東洋的な面影を感じたのは、俺の思い過ごしだったのだろうか?
しかし、傑作とはいえ・・・・地味な絵だ。
当時、仮に売りに出したとしても、せいぜい2千万円ほどだといわれていた。(もっとも二十号程度の絵で、それだけの値が付けば大したものだともいえるが)
犯人が単に『金銭目的』・・・・つまりどこかに売買するつもりでこの絵を盗んだのでないことは確かのようだ。
何故なら、
『マリセル』の隣には同じ作者の手になる『酒場の貴婦人』が展示されてあり、こちらの方は当時どんなに安く見ても二億円だったという。
そっちには手もつけず、『マリセル』たった一枚だけを盗んで逃げている。
恐らく・・・・いや間違いなく、
俺にはそう思えてならない。
必要な情報を仕入れると、俺は本を閉じ、立ち上がった。
『
遠いところをわざわざどうも、彼は丁寧に深々と頭を下げた。
とはいっても、それは上半身だけのことである。
彼は車椅子から立ち上がることが出来ないのだ。
3年前、自宅の廊下で転倒して右大腿骨を骨折し、それ以来この生活が続いているのだという。
彼の名前は
『しかしご苦労ですな。50年以上前の
彼はテーブルの上に置かれたプラスチックのカップに注がれたココアを両手で支え、美味そうに飲んだ。
『依頼を受けりゃ何でもやるんです。それが探偵の仕事ですからね』俺は答えを返し、同じようにココアを飲む。(本当ならコーヒーが欲しいところだが、まあ、相手に合わせるのも客商売だ)
『あの事件は今でもよく覚えとります。何しろ私が三課の課長になって、初めての大きな
彼が話してくれた事件の概要については、大方世間で言われているものと大差はなかった。
・事件の翌日、一階のトイレの窓がこじ開けられているのが見つかり、その下に運動靴(今でいうスニーカー)の後が点々と続いており、美術館の本館裏の駐輪場でマリセルを入れていた額縁が発見されたこと。
・
・残されていた額縁には指紋は一切残されていなかったこと。
・脅迫などの類の電話はなかったこと。
『何しろ一歩間違えば”国際問題になるんだから”と、偉いさんから何度もせっつかれましたがね。どうにもならんものはどうにもならんかったのです。』
『それが公訴時効が過ぎて、捜査本部が解散してから発見された・・・・で、絵を持ち込んできた長谷川氏にも不審な点はなかったんですね。』
『時効ですからな。こっちとしても逮捕するわけにもゆかんし、任意の事情聴取が精一杯で・・・・』
彼はため息をつき、ココアをまた一口啜った。
『還って来た”マリセル”についてですが、無傷だったと聞いていますが』
『ええ、フランス大使館を通じてA美術館の学芸員を呼ぶやら、日本側も美術の専門家を招集して、綿密に調べたんですが、ただ・・・・』
『ただ、何です?』
『絵の裏側に何かを剥がした
彼はそう言ってまたココアを啜った。
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