その2

『父は、責任感の強い人間でして、自分の勤務中にそんな事件が起こったことで、かなり心を痛めていました。警察から事情を聞かれた時も、母や私たち家族

にはあまり多くを申しませんでしたが、帰宅してから”警察は俺を疑っているようだ。無理もない。あの絵の一番近くにいたんだからな”と、それだけ漏らし、そうして夕方に”ちょっと散歩してくる”と言って家を出て・・・・』


 森山氏はそこでハンカチを出して目頭を押さえ、少し間を置いてからこう続けた。

『以後、うちではあの事件について触れるのはタブーになってました。そのうちに私も成長し、社会人になり、結婚し、母も亡くなり・・・・いえ、今更恨みつらみなんてどうでもいいんです。犯人をどうこうして欲しいとも思いません。ただ、あの絵が何故盗まれなければならなかったか。その訳がどうしても知りたいんです。定年を迎えるにあたって、それが一種のだと思いまして』


 俺は自分で淹れたコーヒーを黙ってすすり、ファイルケースから一枚取り出してテーブルの上に置いた。


『契約書です。納得出来たらご記入下さい。ギャラは規定通りで構いません』


 

 所沢にある、その古びた家に向かったのは、依頼を受けてから十日後の、よく晴れた土曜日の午後だった。


 東京都とはいっても、ここらはまだ自然が結構残っており、昔ながらの家並みもある。


 俺は調べ上げた住所を頼りに、簡素な住宅街を見回しながら歩いていった。


ふと、目を留める。


 電柱に張り付けられた住所表示板で、確認が取れた。


 石造りの、実に立派な門。


 表札にはやはり石(恐らく大理石だろう)に黒く、


『長谷川』と彫られてあった。


 俺は迷わず、その下のインターフォンを押す。


(はい?)


 向こうから返答が帰って来た。


(先日、お電話をした、私立探偵の乾宗十郎いぬい・そうじゅうろうと申します)


 俺はホルダーを取り出し、認可証ライセンスとバッジを、モニターカメラに向かって提示した。


(しばらくお待ちください)


 スイッチが切れる音がして約1分足らず、玄関のドアが開く音がして、階段を下りて門扉を開けてくれたのは、少しばかり腰の曲がった、白髪頭の老婆だった。

 年齢は恐らく80をとうに超えていると思われる。


 彼女は俺の顔をちらりと見て、それから何も言わずに門扉を開け、中へと導いた。


 家の中は正しく昭和の中流家屋そのまま、といった感じで、どこからか柱時計の音が聞こえてくる。


 俺は凡そ八畳ほどの座敷に通された。


 大きな座卓に、正面には使い込まれた茶箪笥。そしてテレビ。


 右側のガラス窓からは、秋の陽射しがまともに降り注いでいた。


 彼女は、


『ちょっとお待ちください』といって、一旦襖で隔てられた隣の部屋に行き、それから俺の横を通り過ぎ、茶箪笥から盆に載せた茶器を持って戻ってくると、向かい合わせに座って、傍らのポットから急須に湯を注いだ。


『何もなくて申し訳ございませんが・・・・』彼女はそう言って湯呑に茶を注ぐと、俺に勧めてくれた。


『早速ですが・・・・・』

俺はあまり日本茶は好まないが、折角淹れてくれたんだ。一口だけ飲んだ。


『あの絵の事に関しては、私、ほんのわずかしか知りませんので』彼女は自分も茶をすすってから、小さな声で話し始めた。


 彼女の名前は長谷川みや。86歳。夫の名は長谷川七三男はせがわ・なみおといい、4年前に85歳でこの世を去った。


 もう今から20年近く前、夫の所に一人の客が訪ねてきた。


 夫とは古い馴染みだとかで、大きな包みを携えてやってきた彼は、この居間で長い事何かを話して、それからを預けて帰って行ったという。


『主人はそれをそのまま二階の書斎にあった納戸にしまいました。私や、まだ家に居た息子たちにも、「絶対に見てはならない」と厳命しました。穏やかな人でしたけど、私どもがについて触れると、不機嫌そうに黙り込んでしまうものですから、知らず知らずの内に、みんな何も言わなくなりました。』

彼女はまた茶を飲んだ。


 柱時計の時を刻む音だけが、室内に流れる。


『新聞にあの「マリセル」の時効について載った時、主人は思い出したようにあの包みを持って、近くの警察署に向かいました。当然色々聞かれたようですけど、頑として、

「ある人から預かった。絵画だというのは想像出来たが、盗まれた絵だとは知らなかった。それ以上は信義の問題があるので言えない」で通し、結局亡くなるまで何も言いませんでした』


 ため息をつき、彼女は再び立ち上がると、茶箪笥の引き出しを開け、何かを取って戻ってくると、それを座卓に置き、俺の方へ指で押した。


 黒い革表紙の手帳だった。擦り切れかかった金文字で、50年近く前の年号が記されてある。


『主人の使っていたものです。どうぞ、お持ち帰りになって下さい。私が出来るのは

 もうこれくらいしかありませんから』


『感謝します』



 俺は手帳を受け取ると、残りの茶を飲み干して立ち上がった。






 


 

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