犬の名は
フレデリカはホレスを見送りに出たらしく、入室してくることはなかった。
そのことに対し、ハリーはひどい落胆を覚えてしまう。彼女の朗らかな笑みが見たかった。からかって遊びたかった。
そこまで考え、ハリーは眉間を押さえる。
――馬鹿なことを。そんなことを望む権利はないというのに。
フレデリカはあくまで、ホレスのものだ。
右目に宿る力を使えば、フレデリカはハリーへ
――それは、
それからハリーは、ぼぅっと窓の外を眺めて過ごした。肉体は万全ではないが目は冴えており、二度寝したいとは思えなかった。気怠さのお陰で、余計なことを考えずに済んでいる。
やがて扉がノックされ、返事を待たずにフレデリカが入室してきた。妙に明るい表情をしており、軽やかな足取りでハリーの傍らまでやってくると、小鳥のように首をかしげる。
「起きてたの。寝てなくて大丈夫?」
「ああ、問題ない」
「そうなんだ。お茶でも淹れましょうか?」
弾んだ声と、満面の笑み。いかにも、『素敵なことがありました』といった様子だ。
「おや、御機嫌だね、フレデリカ。ホレス氏に血を吸われたか」
ずばりと指摘すると、少女はカッと顔を赤らめた。
「べ、別にいいじゃない」
「私の屋敷で
下品な物言いでからかうと、フレデリカは『きーっ』と奇声を発して拳を振り上げた。感情のまま振り下ろされたそれを、ハリーは
しかし、上体を
思わず顔をしかめたが、すぐさま取り繕って、涼しい顔を作る。恐る恐るフレデリカを窺うと、頬を膨らませてそっぽを向いており、ハリーの変化に気付いた様子はなかった。
ハリーは秘かに安堵する。フレデリカに余計な心配を掛けたくなかった。心根の優しい少女は、きっととても悲しい顔をするだろうから。
「ところでフレデリカ……。領域内にぼんやりした違和感があるのだけど、なにか隠していないか?」
先ほどから感じていた疑念をぶつけると、フレデリカは目をまん丸にして視線を泳がせた。動揺をまったく隠せていないくせに、白々しく首を横に振る。
「……なんにも」
「窓から見えたよ。君が水を持ってどこかへ駆けていく姿をね。まさか、犬か猫でも拾ってきたのか?」
目撃証言と冗談半分の推測を突きつけると、フレデリカはいっそう挙動不審になった。ひとしきりあたふたしたあと、名案が閃いたと言わんばかりに顔を輝かせる。
「そう、犬! 犬が迷い込んできたの」
なんと隠し事の下手な娘だろう。ハリーは奥歯をグッと噛み締めて笑いをこらえた。フレデリカの口を割らせるために、厳しい表情を作る。
「そんな馬鹿な。閉じられたこの領域に、野良犬が入り込んできたって?」
「あなたの術が不完全なんでしょ」
フレデリカはぷいと顔を背けた。開き直ってしまったようだ。ハリーは半眼になって突っ込む。
「いや、この領域を守っているのはホレス氏の術だよ」
「じゃ、じゃあホレス様の術が不完全なのよ!」
ますますおかしい。主人を崇め
「なにを隠している? さもなくば、先日
冗談ではなく本気だと示すため、声を低く冷たくする。馬鹿げた脅し文句だが、フレデリカに対しては
案の定、少女はごくりと息を呑んでから、くちびるを引き結んで苦悩の色を見せた。屈辱と秘密を天秤にかけているのだろう。
「わ、わかったわ。その犬、ここに連れて来ていい?」
想定外の返答にハリーは面食らう。
「まさか、本当に犬なのか? だが、連れて来られてもすこぶる困るな……」
犬はあまり好きではないし、野良ならば衛生的に問題がある。寝所に入れたくなんてない。
「汚くないから大丈夫よ!」
フレデリカは感情的に叫ぶと、駆け足で部屋を出て行った。犬好きの言う『汚くない』がどれほど信用ならないかは、経験則で知っている。絶対に臭いし、毛だって舞うだろう。
ハリーは嘆息して、どんな犬がやってきても平静を保とうと覚悟を決めた。さすがに
それからしばらくのち。
フレデリカが連れてきた『犬』は、ハリーの予想をはるかに超える大きさだった。
毛は
――たぶん、名前は『ラスティ』というのだろう。
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