胡蝶の夢

 甘い記憶は、夢の中のまぼろしに成り果てた。

 現実に起こったことだったのか、実際に味わったことだったのか、はたまた都合の良い妄想なのか。

 カルミラという化け物の末裔が、人知を超えた力で造り出した幻想なのか。


 もうなにもかもがわからない。美しかった記憶の大半が、胡蝶の夢と化している……。


 虚無感を抱きながら、ハリーはゆっくりと覚醒した。

 上下の睫毛がくっついていて、瞼を開くのに難儀した。乾いた涙のせいだろう。

 無理矢理に目を開けたのは、傍らに人の気配があったからだ。


「おはよう。昨日はなんだか、大変だったみたいだね」


 のんびりした声の主は、黒髪の青年。腰を屈めて、ハリーの顔を覗き込んできている。口元には穏やかな笑みが浮かんでいたが、瞳の奥にはハリーを案じる色があった。

 ハリーは一瞬にしてすべてを悟る。


「……フレデリカに呼ばれて来たのか」

「うん、そうだよ。君の具合を見て欲しいとね」


 気安い調子で答えた青年は、ホレス・エイベル・フォスター。フレデリカの主人だ。

 かつてハリーは、彼の元から誘拐同然にフレデリカを連れ出したが、そのあとに改めて『挨拶』に出向き、和解していた。以来、なにかと互いの領域テリトリーを行き来している。

 ハリーの領域を守っている結界の大半は、ホレスによって作り出されたものだ。ホレスは守護や防衛の能力に長けている。半面、戦闘に関してはからっきしらしい。


 ハリーは小さく嘆息して、昨日のことを反芻はんすうする。

 エドマンドらと一戦交え、グレナデンの圧倒的な力に押されたハリーは、ほとんどうのていで逃げ帰った。

 そしてフレデリカに簡易な手当てをしてもらったあと、深い眠りについていたのだった。エドマンドに斬られた傷はなかなか治癒せず、さらに、高度な術を連続使用したせいで肉体は疲弊しきっていた。


 たまに意識が浮上し、まどろみの間に昔の夢を見ていた。

 幸せな夢を……。いや、不幸せな夢を……。


「わざわざ……すまなかった」


 ハリーが身を起こそうとすると、ホレスに優しく押し留められた。


「そのままでいい。ずいぶん消耗しているようだから」

「気遣い、感謝する。……フレデリカを連れ帰るのか?」


 そうしてくれて構わない、という態度を出そうとしたが、疲労のせいか、わずかな寂寥感せきりょうかんにじんでしまった。

 あの賑やかな少女の存在に慣れてしまうと、独りになるのがあまりに辛い。ことさら、病み上がりのときは。

 ホレスは困ったように笑ってから、言う。


「うん、いっそそうしようかと思ったけれど、彼女が首を縦に振らないんだ」


 ハリーは込み上げてきた安堵を喉元でき止め、無表情を保った。『そうか』とだけ漏らすと、ホレスの眼光が鋭くなる。


「昨日は、彼女に相当な精神的負担を掛けたみたいだね」

「……それでも、彼女は帰りたくないと言うのか」


 あまりに意外だった。あれだけ泣き叫んで、ハリーを非難していたくせに、愛しい主人の元へは帰らないというのか。

 フレデリカの意志の強さに感服していると、ホレスは眼力を弱めた。それでもまだ刺し貫くように鋭い。


「私とフレデリカは、君の『計画』に同意した。特にフレデリカは、そうしたいと望んでいる。だから、無理に連れ帰ることはできないよ」

「あなたはそれでいいのか?」

「君は言っただろう。『彼女を決して傷付けない』と。『自らの誇りに誓って』と」


 たしかにハリーはホレスへそう宣言した。けれど昨日、あわやその誓いを破るところだった。

 それに、肉体には傷一つないが、心は大きく傷付いたはずだ。

 果たしてそんな状況で、誓約を守ったと言っていいものか。だからハリーは自嘲する。


「こんな男の誇りだなんて、ずいぶん安いものに賭けたと思わないか?」

「そうかな? 君はものすごく誇り高い人物だと思うけどね」


 ホレスに真っ直ぐ返され、ハリーは押し黙るしかなった。


 ――誇り高いだって? 私のなにを知っているというのだ。


 そんな怒りが湧いてくるが、ぐっとこらえる。ここで感情的になってしまったら、ホレスへぶつけても詮無せんないことまで吐き出してしまいそうだったから。

 ハリーがむっつりしていると、ホレスはにこやかに微笑む。


「しかしこの調子じゃ、『狩り』はしばらくお休みだね。――じゃあ、ゆっくり養生したまえ」


 と、優雅な所作で手を掲げた。

 初対面のときはハリーがホレスを圧倒していたが、今ではすっかり兄貴風のようなものを吹かされてしまっている。実年齢もホレスの方が六歳ほど上だから、仕方がないことなのだろう。わかっていても、仏頂面をするのは止められなかった。


「ああそうだ。庭の椿、とても見事だね。少し持って帰っても構わないか?」

「好きにしたらいい」


 投げやりに答えると、ホレスは表情を明るくする。けれど、次いで発せられた声は低く威圧的だった。


「くれぐれも、フレデリカのことを頼むよ」

「わかっている」


 目を見て返答すると、ホレスは『ならばよろしい』と言わんばかりに鷹揚おうように頷いて、足早に部屋を出て行った。


「あ、ホレス様、もう帰ってしまわれるのですか?」


 扉の向こうから、フレデリカの甲高い声が聞こえてきた。ちょうどいいタイミングで様子を窺いに来たようだ。フレデリカに応えるホレスの声は、ぼそぼそしていて聞き取ることができない。


「はい、あたしはもう大丈夫です! あのへそ曲がりの妙ちくりんの方が心配です!」


 元気の良いフレデリカの声のあと、ホレスの大笑が聞こえ、ハリーは思わず眉根を寄せていた。まったく、ひどい言い草だ。


 けれど、フレデリカがいつもの調子を取り戻していることがわかって、肩の力が抜けていった。

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