そは彼の人か 1

 ヴィオレットを送り届けたエドマンドは、その美しい背を追いたいという衝動をこらえ、ハリーの家へと向かった。


 霧になってしまえば一瞬の距離だが、さすがに大都会の真っ只中でそんなことはできない。

 こういうところが都会の面倒なところだ、と辟易へきえきとしつつ、馬車で移動する。


 大勢のリュテス市民がそうであるように、ハリーもまた集合住宅に居を構えていた。

 広大なオルドリッジ邸での生活に慣れたエドマンドにとっては、冗談みたいな狭さの住まいだが、内装は美しく整えられ、置かれている調度品もセンスが良い。

 まぁ、その多くは自分で揃えたものではないだろうが。


「エドマンド! なんだ、あの女性は!」


 エドマンドを迎え入れるなり、ハリーはいきり立った声を上げた。

 頬を赤らめ、眉をつり上げているが、決して怒っているわけではないようだ。ヴィオレットの色気と、男を焦らす手管にすっかり骨抜きにされ、興奮冷めやらぬままらしい。


「あんなにも美しい……この世のものとは思えないほど、美しいひとだなんて聞いていないぞ! 美の女神アフロディーテも裸足で逃げ出すような美女だとあらかじめ言っておいてくれなかったせいで、私は恥をかいた。きっと失望され、仲間内の笑い話にされるに違いない!」


 ハリーはひどく取り乱し、居間をうろうろと何往復もした。

 ソファに身を沈めたエドマンドは、ハリーの口から次々と飛び出す称賛の言葉に感嘆しながらも、努めて穏やかに声を掛ける。


「落ち着けよハリー。正直、ぼくもあんなヴィーを見たのは初めてさ」

「そうなのか?」


 振り向いたハリーの目は、助けを乞うようだった。


「そうさ。彼女は、興味のない男にあんな素振りを見せないよ」

「興味のない男を相手にすると、どんな態度になるんだ?」

「一言もしゃべらないか、思い切りこき下ろすか……もしくは張り倒すだろうな」


 しかし、そのすべての仕打ちをエドマンドは受けたことがある。付き合いは長いが、ヴィオレットの心の内を十全に理解することなど誰にもできはしないのだ。


「ずいぶんヴィーを気に入ったみたいじゃないか」

「当たり前だ。いやいや、『気に入った』なんて烏滸おこがましい……」


 ハリーは思い詰めたような表情で口を押さえ、黙り込んだ。先ほどまでカッカと興奮していたのに、急に病人のように青い顔をして、エドマンドの隣に腰を下ろす。


「その……エドマンド。紹介してくれたということは、『彼女ともっとお近づきになりたいから協力してくれ』と頼んでも良いのか?」

「構わないが……」

「本当に?」


 ハリーの眼光が鋭くなる。


「私が、君の幼馴染を口説いていいと?」

「……それは」


 エドマンドは言葉に詰まる。今さらになって、事の重大さが身に染みてきた。

 エドマンドの思惑のほとんどは、『ヴィオレットとハリーと、三人で仲良くできたらいいなぁ』という漠然としたものだった。

 もしヴィオレットがハリーを男として気に入ったのなら、血を吸えばいいし、従者にすればいい。むしろ、その可能性は考慮していた。


 ハリーがヴィオレットの従者になったら、ちょっと悔しいけれど、でも三人でもっと仲良くできる。

 さすがにそこまでは至らないだろうな、という思いもあった。


 だが、まさかハリーがここまでヴィオレットにになってしまうなんて。


 ヴィオレットがハリーを玩弄がんろうする分には、べつに構わない。

 けれど、ハリーがヴィオレットを口説くとなると、なぜか心がモヤモヤする。


 そしてその気持ちは、とても醜く恥ずべきものであるような気がした。なぜだかはわからないが。

 だから、名状できないその負の感情を追いやるために、笑顔を作って快諾するしかなかった。


「うん、構わないよ。君の恋路を応援しよう」

「……本当に?」


 ハリーの瞳には、恐ろしいほど真剣な光が宿っていた。己は本気なのだと主張しつつ、エドマンドの心の奥を見透かそうとしている。

 だからエドマンドは嘆息で本心を覆い隠しながら、友を納得させるために過去を打ち明けた。


「正直言えば、ぼくはとうに失敗しているんだ。これ以上しつこくはできない」


 夫婦になって子どもを持とうと口説いたら、毛虫よりもおぞましいものを見るような顔をされ、容赦なく拳を振るわれた。……もしかして、『子ども』が余計だったのかもしれないが、プロポーズをやり直すなんてカッコ悪いことはできない。


「そうか……君でもダメだったのか」


 ハリーの目にありありとした憐憫の念が浮かび、エドマンドは少し傷付いた。


「ヴィオレットはいつまでこの街にいるつもりだろう?」

「さぁ……、聞いておくよ。ついでに、次回の約束も取り付けてみる。だから、難しいことは考えずに、また会ってみたらいい」


 励ますように言ってみたが、ハリーは両手で顔を覆って震え始めた。


「二度と会わず、忘れてしまった方が幸せなのかもしれない。想いが通じるかさえ定かでないのに……ますます好きになってしまう……」


 彼は、はっきりと『好き』と言った。エドマンドは目を見開く。

 自信と余裕に満ちた態度を崩さないハリーが、初恋に身を焦がす少女のように愁嘆しゅうたんしている。


「一目見たとき、運命だと思ってしまった」


 絞り出すように紡がれた言葉には、ハリーの熱く切ない想いがたっぷりと詰まっていた。

 このときエドマンドは、ハリーに対して二つの感情を抱いた。


 一人の女へ、ここまで激しい情熱を向けることができる友への羨望。――そして、敗北感。


***


 ハリーの部屋を後にしたエドマンドは、次にヴィオレットの宿泊先へ向かった。何度も同じ道を往復している自分に馬鹿馬鹿しさを覚えながら。


 古参の従者、シルヴィアに出迎えられながら幼馴染の元へ向かうと、すでに簡素な格好に着替え、豪奢ごうしゃなソファの上でくつろいでいた。

 しかし、エドマンドの顔を見るなり身を起こし、甲高い声で叫んだ。


「エドマンド! なんなの、あの男は!」


 吐き捨てるように乱暴な物言いだったが、決して怒っているわけではないようだ。

 口元は笑みの形に歪んでおり、寝そべっていたソファから不意に立ち上がり、また座り、また立ち上がった。ひどく落ち着かない様子だ。


「本当に愉快だったわ! 少年のようにのぼせ上って、声を震わせて! ちょっと脚を触ってやったら、滑稽なくらい慌てていたし、帰り際に無視をしたら泣きそうになっていたわ!」


 劇場でハリーが見せた態度について、この上なく痛快だと言わんばかりに笑った。

 しかし、嘲るような物言いの中にも、いとおしむような色が混ざっている。煌めく黒瞳こくどうには、従者へ向けるような優しさと情熱が宿っていた。


「で、エド。あの男、私のことをどう言っていた? 気難しがりでいけ好かない女だって罵倒していたかしら?」


 ソファに身を預けるヴィオレットに上目遣いで見つめられ、エドマンドの心臓はどきりと跳ねる。

 だが女の眼差しは鋭く、肉食獣のように獰猛どうもうな光を帯びている。男たちがどんな内緒話をしたのかを、余すところなく知りたがっているのだ。悪口なんて言われるはずがないと確信しているから。


 さてなんと答えたものか、とエドマンドは顎のあたりをさすった。

 ハリーはヴィオレットのことを『好き』と明言したが、この場でそれを暴露するのは無粋に過ぎるだろう。


「ええと……美の女神アフロディーテに勝るとも劣らないとびきりの美人だとか言って、褒めちぎっていたよ」

「あら、月並みな台詞だこと」


 ヴィオレットは鼻で笑いながらも、満更でもないようだった。

 アフロディーテは奔放で気の強い女神だというから、まさしくヴィオレットはその現身うつしみと言ってもいいかもしれない。そんな皮肉気なことを考えてしまい、エドマンドは緩みそうになった頬を必死で引き締めた。


「彼はまた君に会いたいと切望していたよ。どうだい?」

「どうしても会いたいというのなら、会って差し上げると答えておいて」


 ヴィオレットのもったいぶった返答に、夕刻から気を揉みっぱなしのエドマンドはついに口から本音をこぼしてしまった。


「めんどくさいなぁ。じゃ、明日また三人で会うってことでいいね」


 途端にヴィオレットはまなじりをつり上げた。

 しまった、と息を呑んだときにはすでに手遅れで、飛んできた靴の踵がエドマンドの額をぱっくりと割った。




-----------

そはの人か:ヴェルディのオペラ「椿姫」より。

妙に難解な曲名だが、「(運命の人は)きっと彼なのよ!」という意味。


集合住宅:1階には商店が入り、3階に最裕福層が住み、上階にいくほどに貧しい層が居住していた。

エレベーターの無い時代、3階が一番人気で、「高貴な階」と呼ばれ、広く見映えよく造られていた。移動の大変な最上階は貧民や使用人の住まいだった。

裕福層と貧民は同じ階段を使わないなど、うまく造られていた模様。

また、正式には1階を地上階、2階を1階、3階を2階…と呼ぶ。

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