女には不得手者を殴る権利がある

 ラスティは気を取り直すように息を吐いて、ヴィオレットの隣に腰を下ろした。


「噛みつくわけだし、痛いのは当たり前なんじゃ……?」


 恐る恐る尋ねると、ヴィオレットはふん、とそっぽを向いた。


「それはそうだ、だが痛みは一瞬で溶けるはずだ。私が喰らってきた者たちは皆そうだった。すぐにうっとりと身を預け、もっともっとと強請ねだるほどだった」

「それは、人間相手だからだろう? あんたはカルミラの民だから、ちょっと違うんじゃ……」

「私の身体の問題だと言うのかッ!」


 怒号にラスティは身をすくめるが、あながち間違ってもいないのでは、と静かに思った。もちろん口に出す度胸はない。


 しばらく沈黙が続いた。いささか、いや、たいそう気まずい。

 気の利いた台詞でもないかと思案していると、ヴィオレットが窺うように口を開いた。


「興が醒めたか?」


 ラスティはつい頷きかけたが、すかさず、それは悪手だろうと思い直す。今夜を逃せば、二度と彼女は身体を許してはくれない、そんな気がした。


 疲れたように、女が身を寄せてくる。

 ただしなだれかかるだけでなく、接した部分をこすり付けてきた。匂いを移すようなその仕草は、気まぐれな猫のよう。こちらから触れれば、たちまち機嫌を損ねて去って行くに違いない。

 だから、ラスティはただ黙して、柔らかい感触を堪能した。


「お前の言う通り、私の身体の問題かもしれないわ」


 ヴィオレットは、しおらしい女性の声を発する。先ほどまでの苛烈な態度は鳴りを潜めていた。


「私は今まで、他者に痛みを与えるだけで、それを受けたことはなかった。だから、辛抱が足らないのかもしれない……」


 ラスティはわずかに首をかたむけて、ヴィオレットの表情を確認した。彼女はわずかに乱れた髪のまま、ぼんやりと闇を眺めている。


「お前のように、『いいか』と聞いたこともなかった。私が為すことはすべて、その者にとっての悦びに違いないと、疑ったことさえなかった」

「まぁ、あんたのそういうところは魅力の一つさ」


 決して慰めのための安い方便ではない。ヴィオレットという女は、傲岸に笑んでいるときにこそ最もまばゆく輝いているのだから。

 肩を抱いてやろうかと思ったが、あいにく腕にはヴィオレットがしがみついている。その力が、ぎゅっと強まった。まるで迷子の幼児のように。


「いずれ、それに嫌気がさす日がくるかもしれないわ」


 蝋燭に照らされた女の顔はくらい。また、辛い過去を思い出しているのだろう。

 彼女の憂患を晴らすための、気取った台詞は思いつかない。ただ、素直な内心を告げる。


「あまり目に余るようだったら、注意するよ。そうやって気持ちをすり合わせていくのが、一緒に暮らす者たちの義務だろう?」


 すると、ヴィオレットは驚いたように目を見開く。


「そんなこと、思ったこともなかった。誰も言ってくれなかった」

「……そうか」


 それはきっと、『王者の孤独』なのだろう、とラスティは漠然と思った。

 彼女の周りには、シェリルのような『仕える者』しかいなかったのだろう。それが、女に不幸を呼び込んだのかもしれない。


 女王のように振る舞いながらも、ときに迷える子羊のような様を見せるヴィオレット。その傍にいてやりたいと、ラスティは強く思う。導くのではなく、ただ傍らに。


 だからこそ、今宵の『儀式』をつつがなく終了させねばならない。


「ヴィオレット」


 それが初めての呼名であることを、呼び終わってから気付いた。


「もう一度、チャンスをくれるか?」


 照れ半分に尋ねると、ヴィオレットは少し考え込むような素振りを見せた。だがやがて、にやりと愉快そうにくちびるをつり上げた。


「夜の女神が世界を巡っている間は、私の身を預けてやる」


 物言いが横柄なものに戻ったことに、ラスティは安堵しそっと微笑んだ。

 『ありがとう』と口を開きかけたとき、ヴィオレットが動いた。踊るように軽やかな動きで、ラスティの膝の上に跨ったのだ。

 大胆な女の仕草に、ラスティは目を丸くしてぽかんと口を開けた。


「女神が館に帰還するまで、まだ時間はたっぷりある。だからまず、お前には『私の悦ばせ方』を教えてやる」


 『女の・・悦ばせ方』ではなく、『私の・・悦ばせ方』というのが実に彼女らしい。そう思っていると、ヴィオレットの両の手が、ラスティの頭を包み込んだ。

 そのまま顔を寄せられ、至近距離で視線が絡む。

 紅いくちびるに浮かぶのは、わずかな嘲弄。男を弄ぼうとしている、魔性の女の笑みだ。


「いいか、私のことは、『ヴィー』と呼べ」


 囁くようなそれは、まごうことなき命令。


「親しい者にしか許していない愛称だ、嬉しいだろう」

「ああ、光栄の至りだ」


 つい緩んだ笑みがこぼれかけたが、きゅっと頬を引き締め、騎士のように真剣な返事をする。その対応は正解だったらしく、ヴィオレットの笑みが濃艶のうえんなものとなった。


「血を啜る前に、口づけを。吸血行為をただの食事と定義するのは好かない。たとえ今日会ったばかりの相手だとしても、何度も情を交わした相手だとしても、私は可能な限り愛でてから牙を突き立てる」

「そうか……そういうものなのか。すまない」


 ラスティは神妙に頷き、ヴィオレットの言葉を胸中で何度も反芻する。

 『可能な限り愛でてから』か。

 だから、ヴィオレットはことさら痛がったのかもしれない。血を吸うという行為においても、あらかじめ撫でて労わり、身をほぐしておく必要があるのだろう。


「くちびるだけではない。舌先も、歯も、吐息さえ使え。割れ物に触れるように繊細に、けれどたまには荒々しく。もちろん反応を見ながら」


 女の講義は、即座に実行するには難儀なように感じられた。同時にいくつもの動作を実行する必要がある。

 楽器の奏者はどうして左右の手指が別々に動くのか常々疑問だが、それと同等の技能を要するような気がした。


 色よい返事ができずにいると、ヴィオレットが悪戯っぽく笑う。


「結局のところは、したいようにすればいい」


 と、細い指で額を弾かれた。


「私が思っている以上に、お前は初心なようだからな」

「む……」


 経験の乏しさを見透かされていたか、とラスティは動揺し、視線を泳がせた。が、すぐに反論する。


「したいように……って。でも、下手くそだと言って殴ったじゃないか」


 しかしヴィオレットは、『ふん』と鼻を鳴らしたあと、いけしゃあしゃあと言ってのけた。


「女には不得手者を殴る権利がある」


 ――なんという理不尽。ラスティは言葉を失った。

 その感情が表情に出てしまったが、ヴィオレットが不快に思った様子はなく、嗤笑ししょうを崩さない。


「だが、未熟者に対して寛容に振る舞うことができなかったのは、私の落ち度だ」


 ひどく尊大な態度と言葉に、ラスティは苦笑するしかなかった。女の傲慢な言動はよどみなく続く。


「今宵は特別に、私が情けをくれてやる。きちんと学習するように」

「それはとってもありがたいよ、ヴィー」


 皮肉交じりではあったが、さっそく愛称で呼ぶと、女はたいそう満足したような笑みを浮かべた。



----------

夜の女神:ギリシア神話にニュクスという神がおり、西の果てにある館に住むという。夜を引きつれ世界を巡り、朝に屋敷へ戻って昼の女神と交代する。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る